13、善は天に届き、悪は地を貫く
「善悪の彼岸、かぁ」
エアはぼんやりと、カタリナの雇い主の名をつぶやいた。カタリナは、ザルスシュトラが語ったその理念を一言一句違えず思えており、それもエアに話した。彼女は記憶力も理解力も優れており、それでいて誠実な人間だった。
誰も憎まず、誰も罰せず、誰にも同情しない。隣にいるエアは、誰かを憎んだり罰したりはしなそうだが、同情に関しては不合格だろう。そして、そう考えるカタリナ自身も、憎んだり罰したりしようという考え自体はあまり抱きづらいタイプだが、同情や共感という点に関しては、あまり否定できる気がしなかった。
実際、カタリナはエアの話を聞いて、深く同情の念を抱いた。彼女は極めて善良で、誠実で、まじめだった。にもかかわらず、それゆえ奪われ、傷つき、苦しんだ。それでなお誰も憎まないのだから……ある意味では、本当に救いようがないような気がするのだ。
「エアはさ、誰かに同情することをどう思うの」
「さぁ? 私って同情してるの? よくわかんないな」
別にかっこつけているわけでも、気取っているわけでもない。ただ、本当にわからなくて、考えている様子だった。カタリナが話を変える前に、エアは自分で答える。
「……まぁ、私は確かにすぐ同情する人間かも。何かかわいそうな目に遭ってる人がいたら、かわいそうだと思うし、自分に何かできるなら、何とかしたいって思う。でもみんなそうじゃない?」
カタリナは、彼女に対して、人間性の複雑さや、ある種の悪辣さのようなものを語るのは違う気がした。だから、ふっとため息をついて、頷いた。
「そうかもね」
カタリナが彼岸の拠点に到着したとき、ちょうどその門の入り口に、同じように辿り着いた人物がいた。その風貌は明らかに異様で、カタリナは遠くからその姿が見えた段階で身構えていた。エアの方は、特に気にせず普通に人とすれ違うときのように、人懐っこい微笑でその人と目を合わせて首を少し傾けた。
灰色の髪のその人物は、カタリナより少し身長の低いエアよりさらに身長が頭一つ分小さく、外見は十を少し過ぎた程度の少女だったが、その背中には折りたたまれているにも関わらずどうしても目立ってしまうほどの大きな翼が六枚、その光り輝く羽を落としながら歩いていた。
宙に舞う光の羽は、地についたとたんに消えてなくなり、その存在そのものが幻かのように思われた。それだというのに、その現実感を失わせるような美しい光景は、途切れることなく彼女が歩く限り続くのだ。
三人は同じ場所で立ち止まった。純白の薄手のドレスを身にまとった美しい少女は、ぼんやりとした目でエアを見つめていた。カタリナはすぐそれに気づいて、彼女に問うた。
「あなたも、彼岸の?」
「うん」
「エリアル・カゼットの関係者?」
少女は答えなかった。エアは「私?」という風に自分に指をさした。しばらく沈黙が続いた。少女はエアをじっと見つめ続けていたが、エアの方はそれを全く意に介さない様子。
「関係者というより、責任者。エア。私はあなたを」
六枚ある翼が、ゆっくりと開かれ、エアの方にその翼の最も端の部分、初列風切羽が伸びてきた。植物がその枝を伸ばすように。蝶が花の蜜を吸おうとするように、それは極めて自然に、当然のことのように。
その光景は美しく、カタリナはつい見とれてしまい、対応が遅れた。エアの顔にそれが触れようとした瞬間に、はじめて「しまった」と感じた。その羽の先端には、明らかに敵意を含む危険な性質の魔力、おそらくは切断属性が込められていたのに気づいたのだ。
しかし、攻撃を受けたのはエアではなく、白い少女、セラの方だった。エアがその右手に概念形装をまとって、その純白の翼を、白銀に輝くガントレットでわしづかみにしていた。
「あれ、なんで?」
エアはその美しい翼を掴む自分の手の震えと暴力性に驚いていた。それは……悲しいほどに、その翼を拒絶しているかのようだった。
セラの方は、そのことに驚きもせず、変わらずうつろな表情でエアだけを見つめていた。
「そこまでだ」
門の方から声が響いた。両開きの門が左右同時に開き、中からふたりの男が出てくる。ひとりは、カタリナが以前拳を交えた、シグ。もうひとりは、人のよさそうな顔つきの巨漢だった。
「セラ、やめろ。このことはイグニスに報告させてもらう」
名指しされて、初めて少女は視線をエアから外した。
「自由にしていいと言われた」
「だが俺たちは、お前が余計なことをしないよう見張れと言われている」
シグは、その冷徹なまなざしでセラを見つめている。その目は、カタリナと戦った時よりも真剣で、明確な殺意が込められていた。
「……わかったよ」
セラはエアに向けた翼を自らのもとに戻し、そのうち二枚を畳み、もう二枚で自分の全身を隠した。彼女の肉体は、顔と裸足の部分だけしか見えなくなった。
「さて、カタリナ。君には約束していた分の報酬を払わなくてはならない」
シグの隣に立っている立ち居振る舞いが上品な大男が、来ているジャケットの内側から硬貨のたんまり入った袋を取り出す。
カタリナは癖でそれを受け取ろうとするが、思い出したように手を引っ込めた。
「いや、いらないよ。私は私の意志で、この子を連れていくことにした」
「しかし……」
太った男、ダフヌが困ったような顔をしながら報酬を受け取るよう説得しようとしたところを、シグが制止する。
「カタリナ。君がそうしたいなら、我々彼岸は尊重する。ただ、これからの旅に役立つような情報はいつでも提供するつもりだ。新しい街についたなら、これを見せるといい」
シグはズボンのポケットからメダルを取り出した。描かれているのは雲を超すほどの大樹。裏面には、地の深くにまで張り巡らされた、その大樹の根。善は天に届き、悪は地を貫く。幹と葉の方に悪についてが、根の方に善についての言葉が刻まれていた。
「ザルスシュトラは、そういう世界を望んでいると言った」
投げてよこされたそのメダルを見て、カタリナはそれをまじまじと見つめた。エアは、先ほど目の前の人間に攻撃されたことなど忘れてしまったのか、興味津々、カタリナに顔を寄せ、そのメダルを見て、言った。
「面白いね!」
「俺は悪趣味だと思うがな」
シグは無表情のままそう言った。
「あいつはすぐにかっこつけたがる」
カタリナは、ひとつ疑問に思ったことがあったのでそれを問うた。
「本当にあなたたちのリーダーって、あの男なの?」
「名目上、リーダーはいないことになっているが、創始者であり、実質的なリーダーはザルスシュトラその人だ」
隣の大男もうなずいた。
「そ」
カタリナはそれ以上深く尋ねずに、彼岸の一員の証であるメダルをポケットに入れた。
彼らに対して好意はない。敵意もない。ただ、間違いなくエアに関係しており、自分のこれからの冒険とも、深くかかわっていくことだろう。
エアにとって、ギルドも同じような存在だった。そのシステムも、その目的も、理念も、実情も、何もかも、カタリナにとって重要なことではなかった。
ただ自分にとって、それがどのようなものをもたらすかということに意識を向ける、極めて合理的で現実的な考え方で、カタリナは生きてきたのだ。
「ねぇねぇ。善を高く伸ばす理由はわかるんだけど、なんで悪を深く広げる必要があるの?」
エアは、驚くほど純粋に、問うて当たり前のことを、全員が聞こえるような大きな声で尋ねた。彼岸のふたりは互いに目を合わせた。先ほどからピクリとも動かなかったセラが、体を震わせた。
誰も何も言わず数秒がたち、仕方ないと言った様子でシグが話始める。
「ザルスシュトラの考えていることは俺にはわからない。だが俺たちは、帝国から逃げてきた人間だ。そしておそらくあいつは、帝国を、善が支配する国だと考えていて、あいつ自身を含め、俺たちはどうしようもない悪なのだと断じている。それでいいのだと。そうあるべきなのだと、そう俺たちに示してきた」
ダフヌの方も、口を開く。
「でも、あの人は悪い人じゃない。どちらかというと、優しさゆえに人間すべてを愛そうとしてる人だと思う。あと、なんていうか、青年期特有の痛々しさを、何十年もかけて熟成させて、それでいて腐らずに独特の味を出し続けている人、かな」
カタリナは、それ以上ザルスシュトラについての評を聞きたいとは思えなかった。だが、ひとつ気になることがあったので、途中で遮ることはしなかった。
「そこの……天使みたいなお嬢さんは彼についてどう思うの?」
「きもい」
すばやく断じたその言葉に、誰よりも早く笑い声をあげたのは、意外にもザルスシュトラと仲の良いシグだった。つられて、ダフヌも笑う。カタリナも、なんとなくつられて笑ってしまう。セラは身じろぎひとつせず、エアは困惑している。
「あぁ、確かにあいつは気持ち悪いな」
「間違いないね」
「だがあいつは――」
カタリナは、遮るように「もういい」と言った。このふたりが、ザルスシュトラを心の底から気に入っているのはよくわかった。セラの方が、ザルスシュトラに気持ち悪い以外の感想を抱いていないことも、よくわかった。エアはただ、皆が楽しそうに話しているのを見ているだけで、嬉しそうだった。カタリナ自身は、この空気感が何となく嫌だった。
「そうか。それじゃあ気を付けて。あぁあと……この街シラクサを破壊し尽くしたエクソシアは、西に向かった。まぁこの街は、中央大陸のかなり東側にあるから、当然と言えば当然だが」
「どちらにせよ、西に向かうしかないのはわかってる。当面は、パレルモを目指すつもり」
「あそこか。まぁその道中で、色々と厄介な化け物に遭遇することもあるだろう」
「そこの女の子も含めて?」
カタリナはセラを視線で指し示す。
「そうだな」
「まぁ、それも冒険か」
「それにしても、お前は英雄を目指している割に、英雄っぽくない性格だな」
シグはそういってカタリナを笑った。カタリナは、全く笑わず、冷たいまなざしでシグを見つめる。隣のエアが、少し不安そうな表情をしているのを見て、カタリナはふっと笑った。
「そういう新しいタイプの英雄になるのも、面白くない?」
「自覚的で、どこか冷めていて、頭のいい、そんな英雄か。そいつの物語は語りづらくて仕方がなさそうだが」
シグの意地悪な言葉に反撃したのは、カタリナではなくエアだった。自信満々に、純粋に。
「私は、無自覚で、暑苦しくて、頭が悪い、そんなありきたりな英雄は好きじゃないよ」
急にそんなことを言うから、また皆が互いの顔を見合わせる。
「いや、私はそういう英雄に憧れて冒険者に……」
カタリナがエアに反論しようとしたが、エアが見たことないほど顔をしかめているのを見て、思わず笑ってしまった。どれだけ顔をしかめても、エアはかわいらしかったのだ。