11、旅のはじまり
「あなたがエリアル・カゼット?」
目が覚めると、からだが暖かかった。上体を起こして、自分の右手を見つめる。左手はないが、痛みもなかった。声のする方を見て、そこには赤みがかった黒髪の女性が、いぶかしむような目で自分を見ていた。
エアは、昔のことを思い出そうとした。頭が痛くなったが、全く何も思い出せないわけではなかった。腕を失ったときのこと。金を奪われたときのこと。乞食にあげちゃったせいでパンが食べられなかったこと。
「おなか、すいたな」
ぐうううと、はらがなった。
「はい」
干し肉が差し出されて、エアははじめて自分を開放してくれた女性を正面から見つめた。
「私に?」
「あなたに」
「ありがとう」
エアは受け取って、一口かじった。味と栄養が体中に染み渡るのを感じて、思わずほほが緩んだ。それを見ていたカタリナも、普段自分が仕方なく食べているあまりおいしくない保存食が、そのように誰かの喜びになるのを見て、何とも言えない感慨におそわれた。
「あなた、名前は?」
「エア」
「エア?」
「エリアル・カゼットであってると思う。でも、家名は名乗らない方がいいって聞いたし、エリアルだと愛称がバラバラになってわかりづらくなりそうだから。エリーでもリアでもリルでもアルでもいいわけだし。だったら自分で、エアって名乗った方がいいかなって。その方がしっくりくるし」
カタリナは、急に饒舌になった白緑色の髪の少女が自分の探していた相手であっていたことに胸を安堵させた。もし人違いだったら彼女をどうしようかと不安になっていたのだ。
「君は?」
「カタリナ。ユーリア大陸で冒険者をしてたけど、最近こっちに渡ってきた」
「どうして助けてくれたの。腕も、君が治してくれたんだよね?」
カタリナは、適当にごまかそうかと考えたが、しかしいずれバレることであろうし、その時に築いてきた信頼が壊れては元も子もない。それならはじめに正直に言ってしまった方がいいと思った。
「頼まれたんだよ。エリアル・カゼットを見つけて、旅に連れていけって」
「誰に?」
「善悪の彼岸を名乗る連中のひとり、ザルスシュトラに」
エアは首を捻った。ザルスシュトラという名は聞いたことがなかったし、善悪の彼岸という団体のことは、小耳にはさんだことがある程度だった。
「それで、あなたはどうして行き倒れるようなことになっていたの? その腕も、どうして?」
エアは、目が覚めてからあったことを包み隠さずすべてカタリナに話した。カタリナに対して特別な好意を抱いたからでも、恩を感じたからでもなく、エアはそういう性格なのだ。尋ねられたら、何も隠さずすべてをあっさりと、少しだけ楽しげに語る。
カタリナは話を聞いていく中で、善悪の彼岸というグループに対して極めて強い疑念を抱いた。高い金を払って保護するような対象を、なぜそんなになるまで放置したのか。もし自分が彼女を見つけるのが少し遅れていたら、エアの命は尽きていたかもしれないのだ。そうなったら、すべてが無駄になると言うのに、カタリナをせかせるようなことすら連中はしなかった。
「ねぇリナちゃん」
「え?」
リナちゃんと初対面の少女に呼びかけられて、カタリナは素っ頓狂な声をあげる。
「あ、リナちゃんって呼んじゃだめ? かわいいかなって思ったんだけど」
「いや、別にいいけど」
その呼び名は、師であるノワール以外からは一度も呼ばれたことがなかった。カタリナは、その距離感にむず痒い気持ちになった。
「私のからだ、きれいになってるけど、洗ってくれたの?」
「あ、うん。仕方なくね。宿屋の女将に、そのままベッドに入ってくれるなって言われたから」
エアは自分が入っているベッドの布団をぽんぽんと叩いて確認した。
「そっかぁ。そうだよね」
エアは少し悲しげな表情を一瞬見せた。
「どうしたの?」
「なんて言えばいいんだろう。私や、私の仕事仲間の寝床は、ひどかったなって。別にこのベッドが、特別質のいいものだとは思わないよ。なんとなくそれはわかる。でも、一度野宿同然の暮らしを続けたら、もうそれに慣れちゃって、こういうのを……どう理解していいのかわからなくなる」
「格差のことを言っているの?」
「わかんない。でも、なんか……悲しいなって思う」
エアは光に満ちた窓の方を眺めている。顔つきはしっかりしている。
「あの時、どうして乞食を助けたの」
「見てたの?」
「うん」
「助けたんじゃなくて、いらないから捨てただけだよ」
「でも、おなかすいていたんでしょ」
「それも、どうでもいいかなって」
自暴自棄だったのだとエアは主張するも、カタリナはそうだとは思えなかった。むしろ、乞食を一度無視して通り過ぎた時の方が、ずっと自棄的な雰囲気だった。
「じゃあ逆に、なんで一度通り過ぎたの?」
エアは、今度はすぐに答えなかった。じっと悩む。
「多分それは、私が弱かったから」
カタリナはその返答に、言葉を失った。その後、絞り出すようにまた問いかける。
「……それだと、私をはじめとした他の人たちはみんな弱いことになる」
「うん。そうなんだと思うよ」
肯定するエアの瞳はまっすぐだった。じっとエアを見つめるカタリナの方に顔を向けて、首を少しかしげて、にこっと笑った。かわいらしかった。
「でも、それもどうでもいいことだよ、リナちゃん。あの人は多分長く生きられないし、私はどちらにせよリナちゃんに助けてもらえた。だから、どっちでもよかったんだよ」
カタリナは答えることができなかった。確かに彼女の言う通り、あの時エアがあのパンをすべて自分で食べたとしても、カタリナはエアに声をかけて、助けていたことだろう。そういう依頼だったからだ。
しかし、自分がエアに対して向ける感情も、エアが自分に対して向ける感情も、あの出来事があったかなかったかでは、大きく異なっているような気がした。それをひっくるめて、どちらでもいいとは言えないような気がしたのだ。
「ともあれ、エア。あなたはずいぶん変わった人間みたいだね」
「そうかな?」
「うん」
「それじゃあ、私みたいな変人と一緒に旅をするのは、大変かもしれないね」
「旅は、誰と一緒でも大変なものだよ」
確かにエアは、その話し方も距離感も他の人とはかなり異なっていた。しかしカタリナは、それを少しも不快に思わなかったし、それどころかどこか心地よく感じた。もっとも親しくしている人物であり、育ての親でもあるノワールにも、そういう変なところがあったからかもしれない。
カタリナ自身も、自分が少し変わっていることを自覚していた。変わり者同士、いや、愚か者同士相性がいいのかもしれないと自嘲気味に、宿を出て、隣を並んで歩くエアの横顔を見つめてほほ笑む。
「そうだ。リナちゃんのことも、ゆっくり聞かせてよ」
「うん」
不思議なことに、カタリナはエアに対して何も隠せないような気がした。彼女は隠すべきものを持っておらず、すべてをカタリナに対して打ち明けたし、カタリナ自身もそれを素直に受け取った。そういった、人間関係で必ず生じる分厚い心の壁を取っ払った、深い精神の繋がりを、もうこの時点でふたりは予感していた。