95、最後の抵抗①
皇帝の眷属と言えども、毎日の睡眠は必要である。もともと白竜人は人族と比べて魔力の消耗が激しく、長めの睡眠が必要で、また、眠りが深い傾向にある。
ヴァイスが目を覚ました時、そこが、自分がエアと野宿した場所でないことにすぐ気が付いた。
「ここは?」
あたりを見回すと、そこは薄暗い森の中。空気は不自然なほどきれいで、魔力の反応も何も感じられなかった。
「ここは私の体の中だよ、ヴァイス」
ヴァイスは、姿なき声の主の正体に、すぐさま思い至った。
「知恵の魔王、ですか」
「ご名答」
「何のつもりですか」
「私は生き残らなくちゃいけない。だから……」
ヴァイスは、背後から、槍状の魔力が生成されるのを感じて、飛びのいた。それは、確実に彼女の心臓に狙いをつけていた。
「私を殺したって、何の意味もないと思いますが」
「いや、あなたを殺そうとすれば、必ず出てくる人物がいる」
ヴァイスは唇を噛んだ。彼女にとって、この空間にどのような性質があるのかはわからなかった。そもそも、殺すつもりなら、眠っている間に殺せばよかった。
それに、今の攻撃からわかるのは、知恵の魔王がそもそも殺傷能力にはあまり優れていないということだ。おそらくは、彼女の肉体、つまりこの無限の空間を維持するのに魔力の大部分と意識を消費しているがゆえに、この体内に強力で複雑な術式を構築することが難しく、あるいはそれができたとしても、結果として自分の肉体にぶつかって傷付けてしまうリスクもあるのだろう。
「陛下とお話がしたいなら……」
その瞬間、ヴァイスは意識を失った。だが、彼女の肉体には力がみなぎったままであり、その姿勢は美しかった。
それどころか、先ほどまでヴァイスだったモノは、何か異様な雰囲気をまとっており、ソフィスエイティアは警戒すると同時に、何が起きたかを理解した。
「……はじめまして、皇帝陛下」
ソフィスエイティアは、幻影を作り出した。その姿は、かつてのような少女の姿ではなく、目の前にいるヴァイスの肉体と同程度の背丈、似たような身長の、美しく、気品のある人間の、成人女性の姿であった。
ソフィスエイティアは、うやうやしく頭を下げた。
「本体を持ってこれなくて悪いね」
ヴァイスに憑依したブランは、そう言って、ソフィスエイティアの目の前に立ち、彼女をじっと見つめた。
「私は、魔法学園の蔵書には一通り目を通しましたが……自律し、意識を持ち、苦悩する眷属を召喚する魔法が実在するとは思っていませんでした。もちろん、その眷属から意識と肉体の自由を奪う魔法も」
「この機能はもともと、眷属たちにも秘密にしているものだ。私の理念にも反する。他に方法がないときだけしか、自分に許していない。つまり……」
「それだけ、今の状況が緊急を要するということですか」
「いや、私が君を警戒しているということだ。もしかすると、イグニスが、君を用いて、不死たる私を封印するすべを持っているかもしれない。あるいは……」
それ以上の言葉は必要ない、とばかりに、ブランは息を吐く。
「ともあれ、君は私に言いたいことがあるんだったな」
ソフィスエイティアは深く頷いたあと、自分に残された最後の抵抗を試みた。
「私を助けてください、皇帝陛下」
皇帝は、驚きもせず、沈黙したままソフィスエイティアを見つめていた。
「私は職業柄、嘘をつくことを自らに禁じている。また、答えられない場合は、沈黙することを心掛けている」
「エアが完全に力を取り戻すのが、帝国にとっても危険なことなのは、陛下もご存じでしょう。私は、エクソシアやペイションとは違い、理性があり、陛下の役に立つことができます。私たちの利害は一致しているはずです。イグニスを殺害し、エアを封印する。そうしていただければ、私は陛下の手ごまとして、永遠の忠誠を誓いましょう。それに陛下なら、私にいくらかの制約を課す術式を付与することも可能でしょう。私は、そうしていただきたいのです。多少の自由と引き換えに、安全を保障していただきたいのです。それに、帝国でならば、私の知恵と、知恵への欲望は、さらに高みに行き、帝国の学問の発展にも寄与できると信じております」
「先ほども言ったが、私は君を警戒している。自分が、この世のすべてを理解し、支配できるなどと考える程私は傲慢ではないし、同時に、自分より知性的に劣った者が、永遠にそのままであることを信じられるほど他者の努力を軽視してもいない。事実、私ひとりではできなかった魔術的発見を成し遂げた我が民も、今や、ひとりふたりではなく、数千、数万といる。帝国は君を必要としていないし、今の時点でも、私は民の成長についていくので精一杯だ。君を管理する余裕なんてない」
「ですが、あなたは私よりペイションを警戒していたはずです。彼女の力は無限に増殖するうえに、予測がつかない。反対に私は知性を持ち、自らの力を完全に制御できる。事実、私はエアとエクソシアが融合してから、一度も人を食らっていません。食らう以外の方法で、賢くなるすべを得たからです」
「ザルスシュトラが、君に学問を教えたからだろう。私という存在も、私という存在とのかかわり方も」
「そうです。彼が、いざとなれば、皇帝と交渉しろと言いました」
「それは正しい選択だと思う」
「陛下。私をどうかお助けください」
「考えておこう」
そういったのち、ヴァイスに憑依したブランは、相手が化け物だろうと決して変わらない礼儀正しい挨拶をしたのち、彼女の肉体を手放した。ソフィスエイティアは、ヴァイスの肉体をもとの場所に戻し、皇帝の返事を待つことにした。
理論上、エアの存在は帝国の脅威にはなりえなかった。四百年前の記録と、今までエアが起こしてきた惨事をその目で見たブランは、彼女の本体を帝国領内、ひいては大西大陸にいれさえしなければ、彼女の影響は中央大陸の内側にのみとどまる。
また、彼女の定期的な破壊活動があれば、中央大陸の文明もこれ以上に発展することもなく、場合によれば、彼女がギルド支配地域におとずれ、ギルドによる専制支配が壊れるかもしれない。そうすれば、皇帝にとっては願ったりかなったりだ。
皇帝、さらにいえば帝国の望みとは、自分たちの国家ができるだけ長い間、外敵に脅かされず、繁栄を謳歌することだった。ならば、国外は荒れていれば荒れているほどよい。それも、自分たちの介入なしで。
わざわざ自分がエアを封印し、状況を不自然な形で収束させる意味はない。それに、エアにもイグニスにも、個人的な感情として、ブランは自由にさせたかった。
もし眷属たちを、ブランの娘だと定義するならば、彼らは、孫にあたる人物だった。唯一帝ブランは典型的な論理優位の性格をしていたが、決して感情的に何かが欠けた人物ではなく、人並みに傷つき、悲しむ存在だった。その点においては、同じ超越者であっても、ノワールとは大きく異なる点であった。