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94、すべての罪とその赦し③

 四百年前のことだ。セラは、あるそこそこ豊かな貴族の家に生まれた。彼女の家はだいだい魔術師を輩出していたが、子供には恵まれず、彼女の両親もそのことに悩んでいた。

 いつまで経ってもできない子供に悩んでいた母親は、強い罪悪感を覚えながらも、別の知り合いの貴族の男と交わり、子を身籠った。そうしてできた子供が、セラだった。夫は、セラが自分の娘ではないことを知っており、それゆえに、彼女に冷たく接していた。母親の方も、自分の娘を愛おしくおもうたびに、その子が、自分の愛すべき人ではなく、別の男の娘であることを意識し、その愛のまなざしに、ひとかけらの罪悪感が含まれぬことは一度もなかった。

 不幸なことに、セラには魔術的な才覚が少しもなく、しかもその容姿だけは、異様なほど美しかった。セラを見た人は、彼女に興味を持たずにいられなかったし、それゆえ、彼女の存在がどのようにして生まれたかという噂は、常に彼女の耳に届いていた。


 セラは幼いながら、自分が、必要とされて生まれたと同時に、決して無条件で望まれて生まれたわけではないことを自覚していた。それでも彼女は快活で美しく、善良であった。

 さらにセラは、その生まれには珍しく、他の貴族の子供たちだけでなく、普通の、街を歩き回る悪ガキたちとも仲が良く、それを咎める者もいなかった。セラは、自分の階級を意識しつつも、それによって他の人を自分の上に置いたり下に置いたりすることはなかった。いわゆる路地裏の子供たちに対しても、セラは自分と同等の存在として扱い、一緒に遊んだ。

 それでいて、セラは何にも染まらず、幼くして、確固たる自分を持っていた。それが、血によるものなのか、それか両親の教育のたまものなのかはわからない。ただセラは、自分が、人とは違うものを持って生まれ、人とは違う義務を背負っていると自覚して生き、それゆえに、他の仲間たちが悪事に手を染めようと、それに同調することはなかったし、同時に、それゆえに彼らを見下したり、見捨てたりすることはなかった。彼女はただ、一言「やめたほうがいいよ」と言うだけであった。

 そのように、快活で善良で、健康であったセラには、もうひとつの面があり、時折ひとりきりになって、死について考えることが癖になっていた。彼女には、何の才能も力もなく、将来に希望と呼べそうなものはなかった。

 セラは、街はずれの崖の端に座り、そこで足をぶらぶらさせながら、遠くの空を眺め、何度もそこから飛び降りることを考えた。彼女はそれ以外の方法で、自分の苦しみを表現するすべを知らなかったし、この世の悪や醜さに対して、それ以外の方法で抗う方法も知らなかった。


 ある日、街での友人たちが、全員、ある貴族の私兵につかまったことが、セラの耳に届いた。セラは、自分の両親に、彼らを赦してくれるよう、その貴族に頼むように言ったが、聞き入れられなかった。セラは自分の足で、その貴族のもとにひとりで向かったが、彼らはすでに、見せしめに殺され、その遺体が並べられていた。セラの友人たちは、その貴族の屋敷に忍び込み、金品を何度も盗んでいたそうだった。

 最近彼らの羽振りがよくなり、あまり悪事を働かず、病気になっていたリーダーの妹の調子もよくなっていたときのことだった。セラは、彼らがそんな危険なことをしていたとは知らなかった。


 セラは、よくわかっていた。彼らが、そうするしかなかったことも、彼らが自分にそれを言わなかった理由も。

 自分は恵まれており、恵まれている癖に、決して幸せではない。セラは、ひとりきりになってそう思っていた。彼女の貴族の友人は、相変わらずセラに親切で、時には彼女を愛していたが、自分がその愛にふさわしいとはセラには思えなかった。

「生まれてきて、ごめんなさい」

 セラは、物心ついてから、その言葉をずっと胸に秘めていた。その言葉が、彼女の遠く広い、ひとりきりの空にかける、唯一の言葉だった。

 崖の上から望む広大な空だけが、自分の罪深く、価値のない存在を、そのまま許し、受け入れてくれるような気がしていた。いつか、そこに飛び込んで、すべてを終わらせてしまおうと考えていた。


「人生は、苦しいね」

「うん」

 ある日から、ひとりきりだった彼女のそばに、ひとりの女性が現れるようになった。彼女も、その場所を気に入っているようだった。

「ねぇセラ。人生に、苦しむだけの価値はあると思う?」

 その女性は、いつもセラの知らない問いを投げかけた。暖かく、優しい声と表情で。

「わからない。わからないけれど、できるなら、誰にも苦しんでほしくない」

 女性は、否定も肯定もしなかった。ただ静かに、セラと同じものを見つめていた。

「セラはさ、人間を信じてる?」

 セラは、首を横に振った。自分は人間を信じていない。それどころか、自分さえ信じられない。どれだけ善い人間らしく振舞ったところで、もし生物として追い詰められたら、きっと、誰かを犠牲にしてでも生き延びようとする自分の姿が、簡単に想像できた。そしてそれを、自分は悲しく思い、変えたいと思いながらも、変えるすべを持っていなかった。

「じゃあさ、少し変な質問かもしれないけどさ……セラは、天国って、あると思う?」

 天国、という言葉は聞いたことがあった。滑稽で、馬鹿げた言葉として。それが、自分が今もっとも信頼していて、尊敬している人の口から出て、セラは率直に驚いた。と同時に、自分が他の人たちと同じように、滑稽だと思っていたその天国という概念について、自分が何も知らないことを自覚して、恥ずかしく思った。

「わからない」

 だからセラは、そう答えた。

「私はね、天国なんてないと思う。でも、天国というものを考えた人は、絶対に、人間を愛していたと思う」

「天国って、どんなところなの」

「そこでは、誰も苦しまなくていい。すべての人が幸せで、誰も争わず、皆が皆を愛していて、毎日違うことで笑うことができる。もし誰かが悲しんでいて泣いていても、すぐにみんながかけつけてきて、みんなで一緒に悲しんで、その人が泣きやむまで、ずっと黙って一緒にいてあげるの。それをみんな、義務だからではなくて、めんどくさいとも思わず、ごく自然に、むしろそうしないことが難しくなるくらいに、当たり前のこととしてそうするの。どうかな、天国って、素敵なところだと思わない?」

「でも、そんなところはないと思う」

 セラは素直にそう言った。

「私もそう思う。天国は、ない。でも、私は信じてる。天国は、創ることができる。なぜなら、私たちは、天国を知っているから。天国を、理解して、それを、望むことができるから」

 セラは、ひとりで、天国について想像をめぐらした。誰もがみんなを愛し、気遣い、決して何かを憎むことなく、静かで、穏やかで、それでいて賑やかで楽しく、毎日を過ごすこと。それは、死んでしまった彼女の友人たちと楽しくかけっこや虫取りをしていた日々を思い出させた。あのときの幸せが、永遠に続くのなら。すべてを忘れて、お互いのことが大好きだった時に戻れるのなら。

「でも、どうやって?」

 女性は、その優しい笑顔を終わらせて、厳しく、真剣な目で、セラを見つめた。その後また、空の方を、同じ目で見つめた。

「人は、ここが天国じゃないことを知り、それゆえ、天国で暮らすのとは異なる人間としての自分を選ぶ。相手が自分を傷付けるなら、その人を愛してはいけない。だから、できるだけ少ない人間を愛し、それ以外の人間を、潜在的な敵として認識し、できるかぎり自分と家族や友人たちの利益を守るために、生きようとする。みながそうするがゆえに、ここはどんどん天国ではなくなっていく。でもね、そんな世界でも、自分だけは天国にふさわしい人間であろうと努力する人の心の中には、天国はそこに在り続ける。その人の周囲が天国でなくとも、少なくとも、その人の体の中だけは、天国として、そこに具体性を持って、実在し続けるんだ。たとえば」

「たとえば?」

「今、私とあなたが、こうして話しているこの瞬間、この空気、この愛情、あなたの私を見つめるまなざし、声色。そのすべてが、私には、天国のように思える」

 そういって、少し潤んだ目で、女性はセラを見つめた。セラは、同じようにして女性を見つめた。

「私と来て。この世界のすべての罪を、赦すために」

 セラは、差し伸べられた手を取った。

「私は、あなたを信じるよ」

「うん。よろしくね」

「そうだ。ずっと、聞いてなかったけれど……名前は、なんていうの?」

「エリアル・カゼット。白鎧のエアって呼ばれてる」


 セラの心が、エアの中に伝わっていく。それと同時に、たくさんの人々の感情と記憶が、エアの中に流れ込んでいく。


「どうして俺だけがこんな目にあうんだ」

「私は、生きているだけで、誰かを傷付けてしまう」

「自分が幸せになるためには、他の人が不幸でないといけない」

「あいつが羨ましい」

「許せない! 私をこんな目にあわせて……絶対に、後悔させてやる」

「死にたい」

「この世界は間違っている。間違っている世界で、なぜ自分だけが正しくなくてはいけないんだ?」

「俺だって正しい人間でありたかった。でも、いつも俺の中にはこらえきれない悪の部分があって、それが俺を勝手に動かすんだ」

「間違っても、二度とそんな口をきくな」

「こっちだって必死に生きているんだ!」

「恵まれた環境で育った人間にはわからないさ」

「俺は、価値のない人間だ」

「あいつみたいな人間は、まさに死んだほうがいい人間ってやつだな」

「できるだけ苦しんで死んでほしい」

「ごめんなさい。私が全部悪かったんです。ごめんなさい。ごめんなさい」

「許してほしいなどとは頼んでいない。私は罪を抱えて生きている。それをよしとしている」

「人生は戦いであり、奪い合いなんだよ。弱い者を踏みにじることができない人間は、別のもっとも強い人間に踏みにじられる。踏みにじられないためには、強くならなくちゃいけない。強くなれない人間に、同情する意味も価値もない」

「死ねばいいのに!」

「そんなのは、悲しすぎるよ」

「私は何も悪くない」

「この世界に、真面目に生きる価値はあるのだろうか」

「幸せになりたい」

「死にたくない」

「愛している。心の底から」


 たくさんの感情、たくさんの記憶。

 エアはそれを、ひとりきりで、何度も何度も繰り返していた。

 生きることは、つらいこと。幸せになるのは、難しいこと。

 そして、誰かを傷付けたり、踏みにじったりするのは、仕方のないこと。

 それが、人の世界だった。天国とは程遠い、人々の在り方。それに対して、この世にほんの少しだけ残された、天国ともいうべき子供たちの善き日々は、すべて、そういった残酷な世界によって支えられ、つかの間の執行猶予が与えられた結果として存在していたに過ぎなかった。

 エアは、人間を愛していた。人間のすべてが、幸せになってほしいと願っていた。心の底から、そう願い、人々もまた、苦しみながらも、本能的に、自分と同じように、そうであるのとだと信じていた。

 信じずに、いられなかった。信じることによってのみ、エアは、自らの痛みや苦しみ、背負わされたものの大きさに、耐えることができた。自らを、癒すことができた。

 四百年前、彼女が、教団を設立し、人々を集め、世界そのものの構造を変えんと志したのは、彼女自身の痛みによるものでもあった。エアは、そうせざるを得なかったのだ。そうしなくては、彼女自身が、長く続く不老の生を、自分が自分であるままに、耐えられないことを知っていたのだ。

 彼女は、善良であるには、賢すぎたのだ。彼女は、人間の醜さや愚かさに、目を背け続け、ずっと子供のように生きていくことが、できなかった。だから、自らの善良と賢さを捨てずに生きるために、世界そのものを変えてしまう必要があった。

 あぁ、それが、エアの、唯一の罪であった。その罪ゆえに、エアは、もっと大きな痛みと苦しみを背負わされ、その罪と、罰とともに生きることになった。


 彼女は今や、善良で身勝手な人々すべての痛みを背負い、ともに生きている。死に誘われながらも、その死に飛び込むや否や、その罪はさらに大きくなり、彼女をさらに苦しめるのだ。


「目覚めましたか」

 目を覚ました時、目の前にいたのはヴァイスだった。その背後には、おびただしいほどの死体が転がっていた。それは、アイルが連れてきた、白智の空の信者たちだった。

「私は……」

 エアは頭を抱えた。意識せず、涙がこぼれているのを自覚して、それを拭った。

「エアさん……」

 エアは、首を振って、差し出されたヴァイスの手をとらず、ひとりで立ち上がった。

「行こう。私は、行かなくちゃいけない」

「どこに、ですか」

「最後の魔王に会いに行く。私は、取り戻さないといけない」

「……知恵を、ですか」

「知恵への欲望がもたらすものすべてを」

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