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93、すべての罪とその赦し②

 ペイションの意志を内に含むアイルは、イグニスから得た情報をすぐさまソフィスエイティアに共有した。ソフィスエイティアは、その事実に対して少なくない衝撃を受けたが、しばらく考えた結果、それはどうやら事実らしく、自分自身の存在も、その欲求も、根源にあるのが人間の幸福への欲望であることを理解した。

 つまるところ、人の、知りたいという欲望。より賢くなり、外界のすべてを理解し、操れるようになりたいという欲望。それが、ソフィスエイティアを形作り、彼女を動かしているものの正体であったのだ。


 存在には、先んじて目的は定められていない。ただ、原因のみがある。ソフィスエイティアはそれを理解していた。それゆえに、自分という存在のルーツを知ったことによって、自らがかつて定めた生の目的を覆す理由にはならないと考えた。

 ソフィスエイティアは、自分がエアに統合されることを、決して望まなかった。たとえエアの術式、ひいては、エアとともにあった人々の欲望によって生み出されたとしても、ここまで自分が独立した存在として、エアとは異なる思惑をもって生きているこの現状を、否定し、なくしてしまおうとは思えなかったのだ。

 そして、その点については、アイルも同意見だった。アイルの方は、イグニスの話を理解はしたものの、それに対する興味も薄ければ、そこから自らの目的の方に影響が及ぶなどということすら考えていなかった。

 彼女は白かった。白を愛していた。すべてを忘れ、ただ、そこにあるだけの存在の素晴らしさを、世界に広めたかった。

 そして彼女はいまだ、エアを白くすることを諦めてはいなかった。


 エアは再び、あてもなく歩いていた。少し離れたところからヴァイスが追いかけてきていたが、ふたりとも、もう並んで歩こうとする意志はなかった。

 そんなエアの行く道の先に、アイルは、立っていた。たくさんの信者を後ろに従えて、エアを正面に捉えていた。

「あなたは……」

「白智の空、アイル。かつてペイションだったものであり、あなたを愛した少女セラでもある」

 エアは、アイルの目の前で立ち止まり、触れようとした。アイルは、エアに近付くと自分の存在が揺らぐことを自覚した。自分が自分でなくなっていく感覚。エアに引き寄せられ、エアと同じ存在になろうとしていく感覚。それを特に、ペイションの部分とセラの部分がそうであった。

 しかしアイル自身の意志は、決してエアと同化することを求めてはいなかった。そうではなく、エアを、自らに従え、同化させなくてはならない。そう考えていた。

「白智の空……」

 エアは、空を見上げる。薄暗い森の中の道だった。木々の葉に隠れ、空はよく見えなかった。

「エア、人生は、苦しいよね」

 エアは、アイルの目をじっと見つめた。アイルは、エアの顔ではなく、体に目を向けていた。伏し目がちで、脱力しきったその体には、どこか神聖な雰囲気が漂っていた。

「苦しいけれど、楽しいこともある。素晴らしいことが、たくさんある」

 エアは、まっすぐな目でそういった。アイルは、何も言い返さず、首を傾げたまま、少し後ずさった。

「私は、あなたを白くしたい」

「白く?」

「そう。もうあなたが苦しまなくていいように、すべてを忘れて、この時間と瞬間に、浸らせてあげたい」

 エアは少し目をそらして、アイルの言ったことを想像した。今自分が背負っている多くの罪と、カタリナを含めた、今まで自分が失ってきた何人もの大切な人たち。そういったもののすべてを投げ捨てて、いったん空っぽの自分になって、目の前にあることにだけ集中して、真っ白な幸せに浸る。完全なる罪なき人、イノセントとして、最後の日まで、ただ穏やかに日々を過ごす。

 そうなれない人たちの、目の前で。

「アイル。それは、私にはできない」

「できるよ、あなたが、受け入れてくれさえすれば」

「私は、苦しんでいる人と、ともに苦しむことを選んだんだ。ともに苦しみ、ともに喜ぶ。それが、私にとっての、人生だった」

 しかし、ともにそうあった人々を、彼女自身の救いたいという欲望によって、殺してしまった。もう彼女の存在は、他の人とともに苦しむことを赦されてなどいない。

「いいんですよ、エアさん」

 アイルではなく、後ろにいる信者のひとりが、前に出てきてそう言った。

「特別な人なんていないんです。いえ、本当はみなが、特別な存在なのです。だから、人より多くを背負ったり、人より多くを持つことは、間違ったことなのです。あなたは、苦しみすぎている。背負いすぎている。だから、その分を下ろして、私たち、白智の空とともに生きましょう」

 エアが、その言葉を嚙み砕いて返答をする前に、別の信者が前に出てきて口を開いた。

「私も、人生に対して多くの義務を背負って生きてきました。家族のためにと思って、厳しく、人から蔑まれるような仕事を我慢しながらこなして生きてきました。ですが、アイル様に出会って、知ったのです。すべては無意味で、私がこれほどまでに苦しむほどの価値はないのだと。同時に、この世のすべては美しく、なにひとつ、欠けてはいけないものなのだと。だから、エアさん。あなたも、罪や過去に執着してはいけないのです。他の人があなたに背負わせた想いは、あなたを苦しめる足かせでしかない。それを外して、白く、どこまでも白く、美しい天空のように、重力のない生を目指しましょう」

「アイル様の教えに触れるまでは、私は、この世界は競争でできているのだと思っていました。誰よりも優れた存在になろうと努力し、もし人から蔑まれている人や、見捨てられている人がいれば、その人自身の努力が足りないせいだと決めつけて生きていました。私は、人より優れた存在にはなれませんでした。だから、自らの命にも、その道にも、価値はないのだと思い込んでいました。しかし、アイル様が、この世のあらゆる命にも、その道にも、一切価値がなく、それゆえに、すべて等しく、尊く、そこにあるだけで十分なのだと説いてくださった。私を赦し、真っ白な光で照らしてくださった。私のすべての罪と虚妄は私のもとから消え去り、今は、白智の空の下、私は、これまでにないほど幸せに日々を過ごしています。エアさん。あなたも、今は拒んでいても、いずれわかるでしょう。人は、この幸せに、この白さに到達せんがために存在するのです」

 それから、次から次へと信者たちが、それぞれの言葉で、白智の空とその幸福を賛美した。エアは、じっと立ったまま、それがすべて終わるまで聞いていた。

 言葉がなくなって、森の中の道が再び静まり返ったとき、エアは口を開いた。

「私は、みんなの、その幸せが、ずっと続いていけばいいと思う」

「みんなというのは……」

 信者のひとりがそう尋ねた。エアは、答える。

「白智の空を信じるみんなが。でも、そうじゃない人たちが、みんなみたいになることには、私は反対する」

「どうして」

 アイルが尋ねた。

「生きるというのは、そういうことではないからだよ」

 アイルはため息をついた。

「みな、同じことを言う。ザルスシュトラも、イグニスも、あなたも」

 エアは答える。

「私たちは、苦しみたくて苦しんでいるんじゃない。でも、幸福になりたくて、でもなれなくて、それゆえに苦しんでいるわけでもないんだよ。私たちのゴールは、幸福にあるわけじゃない。私たちは、私たちの選んだ……地獄を、まっすぐに歩くことに、誇りを持っているんだ」

「隣に、天国への道があるとしても?」

 アイルは、不思議そうにそう問い直した。 

「そこに、私の道があるならば、私はその道を行く。ねぇ、アイル。多分あなたは、たくさんの人の言葉があれば、私を説得できると思ったんだよね」

 アイルは頷いた。エアが人間を愛すると同時に、どんな相手に対しても深く共感するのであれば、たくさんの人間を集めて、彼らの強い感情を集めれば、彼女を変えられるかもしれないとアイルは目論んでいたのだ。

「私ね、少し考えたんだ。私って、どんな人間なんだろうって」

 そう言って、エアはその手に裁断の原理を握った。アイルは、すぐにでも逃げ出せるようソフィスエイティアに合図を出す。

「私は、自分を特別な人間だと思っている。特別な道を行く人間だって。そして、自分とまったく同じ道を歩く人は、この世にひとりもいないんだって、そう決めて、そう思い込んで、その通りに進んできた。裁断の原理の本質は、自己と他者の境界を断ち、徹底的に自己自身であるという意志なんじゃないかと思うんだ。私と、るーくん……ザルスシュトラの、たったひとつの共通点が、それなんじゃないかと思うんだ。だからね」

 エアは、その裁断の原理を大地に突き刺した。その衝撃が、大地を揺るがし、集まった信者たちを転ばせた。

「私は、みんなの想いを、踏みにじることができる」

 アイルの白智の空が、割れた。正確には、アイルのそれではなく、アイルから与えられた、信者たちの精神を支配していた白智の空が、ひび割れ、隙間には、彼ら本来の憂鬱や、不安や、欲望や、敵意や、悪意が、入り込んだ。彼らは、彼ら自身に戻り、今まで自分がやってきたことや、言ってきたこととの整合性に戸惑い、混乱し、あるものは叫び、あるものは嘆いた。

 アイルを求める声もあった。アイルは、すぐさま彼らを救うために、白智の空を掲げようとした。

 そのとき、エアの背後に、あの男が現れた。イグニスだ。エアは、すぐさま振り返って、裁断の原理を振るおうとした。エアは、イグニスが何をしようとしているか理解していて、それをとめようとしたのだ。

 しかし、それは一瞬遅かった。イグニスは、エアの心臓をその手で完全に握りつぶし、すぐさまその場から消えた。エアは、薄れゆく意識の中、自分という存在の罪深さを考えようとしたが、うまくいかなかった。


 アイルは、できる限り抵抗しようとしたが、それは空しい努力であった。

 イグニスに再び殺害されたエアは、白く、たくさんの人間の手によって包まれた光の卵のような形状になった。美しく、おぞましい天使たちが手を伸ばし、何かを求めるようにそこから這い出てくる。そして、逃げ惑う信者たちを次々に殺していった。

 近くにいたアイルとその分体は次々エアに取り込まれ、取り込まれるほどに、天使は増殖していき、その活動範囲を広げていった。

 それを見ていたソフィスエイティアは、すぐさまペイションの一部を自分の肉体に避難させ、エアから遠ざけようとした。しかし、自分の肉体の中に入ったペイションたちが、エアに引き寄せられるせいで、自分までエアに飲み込まれていくのを感じ、すぐさまソフィスエイティアは判断した。

 ペイションを、見捨てる。それ以外に、自分が自分であることを保つすべがなかった。


 ひとりきりになったソフィスエイティアは考えていた。なぜ、エクソシアとペイションは、エアに取り込まれたのか。なぜ自分はまだ取り込まれていないのか。

 エクソシアもペイションも、自分よりもさらにエアに近付いた。そのタイミングでエアが死亡して、吸収が始まった。条件は、距離とタイミング。だがそれだけではないはずだ。

「理解、か」

 知恵の魔王たるソフィスエイティアは、瞬時にエアと自分を繋ぐものを理解した。理解。エアの知性と記憶力は、封印によって分割され、弱まっていた。彼女は、彼女自身の正体を忘れていたし、人間の欲望や罪に対する知識もまた、欠けていた。

 それが次第に戻っていき、直接の接触を含め、多くの人々のかかわりの中で、エアはエア自身と、他の人間たちの存在を、思い出していった。思い出し、自覚していった。自分がこれまで何をしてきて、何を望んできたかを。

 エクソシアと戦い、力の重要性を知った。力を得ることと、それを適切に用いることを、学園で学んだ。彼女は最後に、エクソシアと言葉を交わし、戦った。そして彼女は、自らの力を知った。人々の、力への欲望を知った。そしてエクソシアは、エアのもとに還った。

 たくさんの人をその手で殺め、カタリナを失い、己の行くべき道を見失ったエアは、深い悲しみに陥った。彼女はそれまでの旅の中でも、多くの人々の、感情を学んできた。人間の感情は、大きく、深く、残酷であり、そこから逃れたいという感情もまた、確かに本物であった。彼女は、先ほどのアイルとの会話の中で、感情における最後の知識を手に入れた。幸福とは感情であり、感情は、人々にとって目的になりえたとしても、己にとっては、そうなりえないということを。そしてペイションは、エアのもとに還った。

 その通り。ふたつの魔王は、還る準備が整ったがゆえに、還っていったのだ。


 では、自分は? 知恵の魔王、ソフィスエイティア。理解すること、支配することを最上の喜びとし、人々を食らうことで、自らの存在をより深く、高めていった、最後の魔王。

 できることは、できるかぎりエアとの接触を避け、打開策を見出すこと。

 可能であれば、自分が自由なまま、エアを封印すること。


 ソフィスエイティアは、ついに、ずっと考えていた賭けを実行することにした。

 西の帝国の皇帝にして、おそらく世界でもっとも魔法を究めた者、唯一帝ブランを頼る。もはや彼女に、それ以外の策は残されていなかったのだ。

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