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92、すべての罪とその赦し①

 イグニスが転移で飛んだのは、彼のかつての研究塔だった。そこは封鎖されており、あらゆる価値のあるものはすべて持ち出されていた。残ったのはガラクタと、何の価値もない家具と、いくらでも替えのきく安い書物や、資料ばかりだった。

「お前は……」

 そんな空間の中で、浮かび上がるような白いローブを身にまとった女が、月明かりに照らされながら、塔の窓の外を眺めていた。

「イグニス。私は、あなたをずっと見ていたよ」

 その姿は、かつて自分が面倒を見ていた、エアの分身のひとりであり、かつてエアを想い慕っていたひとりの素朴な少女であった、セラだった。

「お前は……ペイションに吸収されたはず……あぁそうか。お前が、そうなのか」

 振り向いた時、その姿は白智の空アイルに戻っていた。彼女と、ペイションと、セラは、いまや混ざり合った同一の存在であり、彼女自身の意志でどの姿を現すこともできた。

 当然、その気になれば、セラが持っていた裁断の原理もまた、振るうことができるであろう。

 セラの姿とアイルの姿、そしてペイションの姿が何度も移り変わりながら、その女は静かに、少しずつイグニスに近付いていく。イグニスは、思わず一歩後ずさる。

「先生は、本当は優しい人なんです。私には、それがわかっていたんです」

 その声は、セラのものとも、アイルのものとも、ペイションのものとも異なっていた。

「……ノロイか?」

「そうでもあるよ、イグニス」

 答えたのは、セラだった。

「彼女のコアを取り込んだ。彼女とは、そうする約束を交わしていたから」

 そういったのはペイション。意地悪そうに笑った。

「先生……私は、あなたとずっと一緒にいたかった」

 イグニスは返事をせず、その女に杖を向けた。そして何も言わず、火をつけた。女の姿は空気に溶けて消えてなくなった。

「どうして?」

 窓から、もう一体のペイションが入り込んでくる。真っ白な球体をその手に持っている。言葉を発したのは、アイルの姿でだった。

「どうして、目の前に永遠の幸せがあるのに、それに委ねないの?」

「永遠の幸せなどない」

 イグニスは、冷たくそう言い放った。

「あなたが邪魔さえしなければ、私たちは永遠に、幸せでいられる。雲一つない、美しく青い白智の空の中を、永遠に泳いで、互いの命を感じ合うの。あなたと、あなたの愛する弟子は、私の中でひとつに溶けあって、もう何も見ることも、感じることもなく、終わりが来るその時まで、すべてを忘れて生き続けるの」

「それが、お前たちの望みだった。だが、エアの望みではなかった。それに、それだけがお前たちの望みでもなかった。違うか?」

「何を言っているの?」

「そうか、お前はまだ知らないんだな」

 イグニスは、そこではじめて笑みをこぼした。

「いい機会だ。教えてやろう。お前たち魔王の正体を。エアがなぜ、あれほどまでにおぞましい存在に変わり果てたかということを」

 そういってイグニスは、とつとつと過去を語り始めた。


 エアは魔法学園を、主席で卒業したのち、大陸に戻り、奇跡の研究に没頭した。

 その奇跡の研究を端的に言えば「人の望みを叶える」ものだった。彼女は、彼女自身の望みを叶えるものではなく、魔法の才能のない、貧しい人や、心の病んだ人のために、その奇跡を研究していた。自分の力では、望むものが手に入らない人たちのために、自分の能力を最大限活用して、それらを自動的に叶える術式を完成させようとしたのだ。

 皮肉なことに、その術式の名は『すべての罪とその赦し』だった。彼女がなぜその名をつけたのかは俺にはわからない。わからなかったが、ともかく、彼女はその術式を完成させるため、同じ名前の教団を作り上げ、人を集め、率いるようになった。

 彼女がその教団で何をやっていたのかは、よく知らない。ともあれ、当時の世間的な評判はそれほど悪くなく、かつての学園の神童が、何やら人助けをしながら奇妙なことをやっている程度の話だった。

 ある日、大規模な天使の軍勢が、大陸を覆い、当時の人口の約三割を殺害した。とはいえ、それが一度に起きたのではなく、天使たちは断続的にあらわれ、一日立たずして証拠は何も残さず、きれいさっぱり姿を消した。後に残ったのは、傷ついた人々と、ひとりの、白い鎧を身にまとった女だった。

 そうだ。それがエアだ。

 エアは魔法学園を訪れ、俺に、自分を封印してくれと頼んだ。そのときでさえ、エアは笑っていた。だがあのときは、それまで見たこともないほどに、深く、悲しみに満ちた目をしていた。

 エアの術式は、人の願望をかなえるものであり、それは完成し、成功した。しかし、人々の願いは、人々を幸福にしたり、喜ばせたりすることではなく、「自分が幸福になり、喜ぶこと」であった。それは裏返せば「自分以外の人間が、相対的に不幸になり、悲しむこと」でもあった。術式の完成とともに、『すべての罪とその赦し』から出現した天使たちが、その願いのもととなった人々を皆殺しにし、その天使たちは無限に溢れ、それを止めるすべはなかった。エアが想定していたよりも、人々の願いや欲望は醜く、おぞましく、そして、強烈なものだった。エアは、なぜその天使たちが自分を襲わないのか疑問に思った。だがその答えは、彼らの願いの中に、エアの幸福が含まれているからであった。人々は、心の底からエアを愛していた。そして同時に、エアを信じていた。だからか、天使たちは、エアだけは傷付けなかった。エアは、天使たちが、人々を殺していく様を、ただ眺めていることしかできなかった。天使たちをとめようと裁断の原理をふるっても、それは空を切るばかりであった。エア自身の精神が、人々の欲望を断ち切ることを、よしとすることができなかったからだった。

 そして最後にエアは、『すべての罪とその赦し』を裁断の原理で断ち切ろうとした。彼女は、人々の願いを断ち切ることはできずとも、自らのこれまでの人生と努力を断ち切ることは可能だった。

 しかし、『すべての罪とその赦し』の方は、エアに断ち切られることを、赦しはしなかった。それは、裁断の原理に触れると同時に、彼女の体の中に入り込み、完全に同質化した。

 人々の不死への願いが、『すべての罪とその赦し』に、永遠と不死の属性をもたらし、それがエアと同質化することによって、彼女自身が、永遠で、不死の存在と化した。

 人々の復讐への願いが、『すべての罪とその赦し』に、無差別な復讐の属性をもたらし、彼女が死ぬたびに、そのおぞましいほどの力が放出され、虐殺が行われることとなった。


 人々の罪深さが、罪なきエアを、おぞましい存在にしたのだ。


「なら、この力は……」

 アイルは、白智の空を眺める。真っ白な球体。それは、完全な白であり、完全な幸福。もはや何も考えず、何も感じはしない。人々にそれを与え、世界を真っ白にすることが、彼女の使命であると、アイルは感じていた。

「それは、まぎれもなく、『すべての罪とその赦し』の一部だ。人々の願いの中に、そういった純粋な『白』への欲望があった。それだけのことだ。そしてアイル。お前が、その欲望をもっとも典型的な形で抱いている人間であったがゆえに、ペイションと共鳴し、同一の存在になったのであろう」

 アイルは、イグニスに背を向け、窓の外を眺めた。夜空は、暗く黒い。その中にも、彼女は『白』を見出すことができる。美しき虚無。ただ、そこにある生をまっとうするだけの時間。

 ただ彼女は、そこにあるもので満足することだけを、望んでいた。

「イグニス。だとしても、私はこれを、広げたい」

「エアは、それを望まない。そして、お前がエアを白く染めることは不可能だ」

「どうして」

「人は、欲深い。現状維持も、足ることを知ることも、諦めることも、人間の機能の中では、相対的に小さなものであり、お前のそれは、人間の人生全体を眺めた場合における、一過性の妄想に過ぎない。人生は移り行く。そして人は、そのたびに苦しみ、悩み、選択する。何も選択せず、ただぼんやりと生きているだけの生など、生のうちの、ほんの一部分を占めるに過ぎない。俺はお前の存在を否定はしないが、ともにあることはできない」

「……イグニス。あなたは、少しザルスシュトラに似ているね」

「もともと似ていたわけではない。あいつが、俺を変えたんだ。エアを封印してからずっと……俺が抑え込んできた、本当の願いを、あいつが呼び覚ました。俺は今、そのためだけに生きている。それ以外のすべてを捨てて、俺はそれを、それだけを、望んでいるんだ」

「そう……ですか。先生。私、やっと先生のことがわかった気がします」

 アイルはノロイに変身し、そう言った。

「ノロイ。お前には悪いことをしたな」

「いいんです。先生がいなければ、私は、生きていても死んでいても変わらないような人生を歩んでいましたから」

「本当のことを言えば、俺はお前に、幸せに生きてほしかった。俺以外の人間と、お前自身が望むように、生きてほしかった」

「私が望んでいたのは、先生とともにあることと、先生の望みが叶うことだけです。だから、私はもう満足しているんです。先生は、先生の目的のために進んでいる。それがわかって、私はもう……」

 イグニスは、ノロイに背を向けた。ノロイは最後に「さようなら、先生。ありがとうございました」と言い、その姿を消した。

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