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10、ふたりの出会い

 彼岸が所有する馬車にひとり揺られながら、カタリナは疑問を感じずにいられなかった。

 六人は楽に座れるほど大きなスペースのある馬車は、二頭の毛色のいい牡馬が引いている。御者は耳が聞こえない者らしく、一言も話さない。小鳥の鳴き声と、馬の足音、車輪が回転する音だけが響いていて、その極端なまでに落ち着いた空間が、逆にカタリナの心をざわざわと不安にさせた。


 馬車の乗り心地は、中央大陸のものはおろか、ギルドで冒険者をしていたころを含めても、これより快適なものは知らないくらいだった。ほとんど揺れず、椅子も動物の毛で敷き詰められたクッションのおかげで、楽だった。寝そべっても壁にぶつからないほどのスペースがあり、ひとりで過ごすには広すぎるほどだった。

 こんな、ギルドの支配地域なら王侯貴族か、ギルドの上層部しか乗れないような馬車に、金を払うのではなく、むしろ貰って乗ることができているこの現状が、逆の意味で理不尽なように感じた。幸運というよりも、この先の不幸に対する先払いの補償なのではないかと疑わずにいられなかった。


 エリアル・カゼットという名前の女を冒険に連れていけ。カタリナに頼まれた仕事はそれだった。

 旅の行き先の指定もなく、ただ好きなようにすればいいとのことだった。ただ、その女の面倒を見て、できれば仲良くなることだけが、依頼の内容だった。

 家名は、王侯貴族、あるいは大商家の者の証だ。ギルドの支配地域では、貴族の子弟が冒険者になることも珍しくはないので、家名を持っていてもそれ自体が不自然にはならない。ただ、わざわざ長い名前で呼ぶのも面倒なので、ファーストネームだけで呼ばれることが多く、それが馴染んで、本人自身も武功をあげるたびに家名を重んじなくなるようになっていく。家の力によってではなく、自らと仲間たちの力で手に入れた栄誉なのだから、当然といえば当然だ。

 ユーリア大陸の事情はどうあれ、中央大陸には王侯貴族がいなくなって久しい。数百年前は王国や公国といった国々があったらしいが、魔物の数が増えすぎて軍隊が維持できず、税を払わない者が増え、強制的に払わせようとしても、武装した商人たちに返り打ちにあい続けた結果、国家という形態は衰退し、軽蔑され、今では家名を名乗るだけで笑われるような状況らしい。かつて栄華を誇った者たちが没落して、自分たちと同等かそれ以下の立場になってなお、かつての権力を主張しようものなら、そうなるのが当然と言えば当然か。

 ただ、例外的に、高名な魔術師を多数輩出した家系は、現在でも家名を重んじているという話も聞いている。

 カタリナはひとりそう考えながら、カゼットという家のことを考えた。当然聞いたことのない名なのだが、そんな時代に家の名を持っていて、このようなおかしな依頼が出てくるというのは、間違いなく何か重要な人物なのだ。

 ただ金持ちの娘が家出して、心配した親が腕の立つ冒険者を雇って監視役兼指導役として付き添わせる。そういうことなら簡単な話だし、もしかするとカゼット家というのは中央大陸の貴族ではなく、カタリナと同じユーリア大陸にある名家で、そこからお転婆な娘が中央大陸に逃げ出したと考えれば、筋は通る。私に依頼を任せる理由もわかるし、この過剰なほど質のいい馬車のことも理解できる。西の大陸の名家であってもおかしくはない。善悪の彼岸を名乗る連中は、帝国から逃げ出してきたと語った。もしかすると、エリアル・カゼットもまた、世間知らずな帝国人だった者なのかもしれない。

「白緑色の髪に、私よりほんの少し低い程度の背丈。動きやすい服装を好み、明るく人懐っこい性格。責任感が強く、頑固で、頭はあまりよくない」

 似顔絵と、人物の特徴が書かれた紙は、お尋ね者のそれに近いレイアウトだった。カタリナはそれを見つめて、ため息をついた。

 自分が先ほど想像した合理的な理由と、ぴったりと当たるわけではないが、かといって否定できるほど合わない特徴でもない。ただ問題は、最後の一文だった。

「自分の過去にまつわる記憶が一切残っていない、か」

 そのくせ、そのエリアル・カゼットの過去とやらがどういうものなのかは、ザルスシュトラも聞いていないとのことだった。つまるところ、彼女の正体は、私も、その子自身も、依頼者にさえ、わからないということなのだ。

 カタリナは、自分が途方もなく厄介かつ危険なことに巻き込まれている自覚があった。きっと、単なる家出娘の面倒を見る程度の簡単な仕事ではない。そうであるはずがないのだ。



 シラクサは、メッセナやミナッツォよりもはるかに活気があり、人も多かった。各地から人が連れてこられたせいか、来ている服も話し方もバラバラで、混沌とした雰囲気に、あまり旅に慣れていない人間ならめまいしそうな街だった。

 カタリナは、耳の聞こえない御者の案内を受けてミナッツォのものよりも豪奢な彼岸の拠点を尋ねたが、そこにいた責任者の、優しそうな目つきをした眉も体も太い男は、エリアル・カゼットのことは何も知らない様子だった。

 金は前払いで十分にもらっていたし、前々からエリアル・カゼットを見つけることは自力でやることになりそうだと伝えられていた。

 カタリナは安い宿をとって、街の人に聞いて回ることにしたが、その名を知る者は誰もいなかった。だが、似顔絵の方を見せると、皆どこかで見たことがあると言った。

 職業斡旋所の受付嬢に尋ねると、女はエリアル・カゼットを知っていると言った。家名を恥ずかしげもなく名乗ったのが印象的だったとのこと。彼女には、数か月前に、仕事を斡旋してやったらしい。町のはずれのがれきの撤去作業。危険で、死者、負傷者の絶えない仕事らしい。


 カタリナは、雨が降る中、その仕事が行われている場に向かったが、街の中心部から遠ざかるほどに、生き生きとした雰囲気は消えていき、代わりに、どんよりと湿っていて、どうしようもない閉塞感があたりを覆っていた。カタリナは鼻をつまみたくなるような気持ちになりながら、右も左も中途半端に更地にされた道を歩いていた。

 乞食がいる。ギルドの支配地域では、乞食は見つかり次第すぐにどこかに連れていかれるので、カタリナはあまり見たことがない存在だった。その思わず目をそらしたくなるような惨めさ、人間という生物の自尊心の敗北は、カタリナにとって理解できないものだった。

 見知らぬ誰かのその場限りの同情に救われて命を繋ぐぐらいなら、魔物の餌にでもなった方がマシだと思った。

 カタリナは他の皆がそうするように、乞食を見なかったことにして通り過ぎた。


 しばらく歩くと、カタリナは目的の人物とすれ違った。左腕がなく、しかもその傷口はひどく膿んでいる。そのことばかりに目が行ったせいで、その目立つ髪の色も、華奢だがバランスのいい体型や、品のいい顔つきのことに気づかなかった。雨のせいで視界がぼやけていたこともすぐに気づかなかった理由かもしれない。

 カタリナは通り過ぎたあと、慌てて振り返って、似顔絵を取り出して、書かれた人物の特徴を見返した。紙の上に雨が落ちて、しみこんでいく。

 間違いない。彼女が、エリアル・カゼットだ。すぐに落ち着いて声をかけようと思ったが、彼女のふらふらとした足取りを見て、興味がそそられた。これまでどうやって生きてきたのだろう? この先どうやって生きていくつもりだろう? そもそも彼女は今、どういう状況なのだろう?


 エリアルは、ポケットからこぶし大ほどのパン切れをちぎって口の中に入れた。カタリナは彼女を少し離れたところからじっと見つめながら、あとをつけた。


 カタリナはそこで起こったことに目を疑った。

 エリアルが何かに気が付いたように急に振り返ってこちらに走ってきたときには、尾行がばれたかと思って建物の影に慌てて隠れたが、そういうことではなかった。先ほど自分が素通りした乞食の前に戻ってきて、ひざまずき、残りのパンを差し出したのだ。

 カタリナは、思わず眉間に皺を寄せた。不自然だ。何もかも。正しくない上に、汚らしい。美しくもなんともない光景なのに、どこか神聖な雰囲気がある。魔術を志すものとして、こうした不合理かつ意味不明な、魔術とは関係のない純粋な人間性に心を動かされてはならない。そう自分に言い聞かせたものの、好奇心は消えなかった。なぜ彼女は、あんなどうしようもない乞食を助けたのか。そして、たったそれだけのために、あれほど大げさな身振りをするのだろうか。その理由を聞きたいと思った。そしてその理由がもしばかばかしいものなら、笑ってやろうと思った。だが同時に、こう自らに問わずにいられなかった。

 私に彼女を笑うことができるのか?


 エリアルはなんの感情も見えない表情を下賤な乞食に向けたのち、また歩き出した。雨はどんどん強くなる。カタリナは濡れることに慣れていた。魔法を使えば一瞬で乾かせる上に、濡れてまずいものがひとつあったが、それも彼女が見つかった今、不要になった。

「もう、疲れたな」

 そんな声が、雨の中かすかにカタリナの耳に残った。エリアルはひざから崩れ落ち、うつぶせに倒れた。

 雨が無慈悲にも、彼女の体を打ち付けていた。ざあざあと振る雨の音しか、聞こえなくなった。

 カタリナは、力尽きた彼女を少し離れたところから動かずにじっと見つめて立ち尽くしていた。

 もし彼女が死んだなら、この依頼はどうなるのだろうか。金はもう受け取っている。残念だったということで、私はひとり旅を続けることになるのだろうか。もし彼女を助けたとして、片腕がなく、自分の命よりも乞食の命を優先するような愚か者を連れて旅をするとして、自分になんのメリットがあるのだろうか。十中八九足手まといだ。

「英雄になりたいんでしょ?」

 自分自身の声が聞こえた。カタリナは笑った。愚か者なのは自分も変わらないのだと、自分に言い聞かせた。英雄なら、どうする? 

 カタリナは落ち着いた足取りで、エアの元に近づき、しゃがみこんだ。左腕の腐敗がまだ進行していて、放っておくと心臓にまで届きそうだった。この状態だと、食べ物がいくらあっても命はもう長くない。

「運が良かったのか、悪かったのか」

 カタリナは彼女の肩に治癒と血止めの魔法を施し、腰に差した短い片刃の半曲刀を引き抜いて、彼女の左腕の付け根に当てて、切り裂いた。膿んでいた部分は地面にすぐに解け、きれいに切り裂かれた傷口はみるみるうちに再生し、彼女の肩から先を、球のような皮膚が覆った。

 カタリナは、自らの右腕を自壊させて戦う魔術師だが、他者の腕を再生させることはできない。そもそも、自らの腕を再び生やすことのできる理由は、自らの右腕の完全な情報を、体内の心臓、コアに近い部分に保存し、それを膨大な魔力を使って起動、補完しているからである。平均的な魔力量と、複雑性しか持たない目の前の少女の体を再生することは、腕が切断された直後ならともかく、腐り始めてからもうすでに何日も経っているこの状態からは不可能であった。

 それでも、傷が治れば生きながらえる。彼女は片腕のまま生きていかなくてはならない。カタリナは自分の右腕を閉じたり開いたりした。いくら治るといっても、からだの一部をなくしたときの喪失感は本物だ。それが二度と戻らないことの絶望感は、容易に想像できた。


 カタリナはエアを背負って自分の泊まっている宿屋に向かった。宿屋につくと、そこの女将に、そのまま部屋に入ってくれるなと釘を刺された。仕方なくカタリナは水浴び場を借りて、気を失ったままのエアの体を洗ってやることにした。

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