1、エリアル・カゼット
赤黒いローブに身を包んだ老魔術師はこの世のものとは思えないほど完全に平らかな直方体の石の上に仰向けに寝かされている美しい少女を見下ろした。
「よし、準備は整った。意識の封印を解く。そのあと、起こさないように、力の魔王エクソシアが破壊した後のシラクサの、安全な場所に置いてくる。いいな?」
「はい。先生」
ほんの少しの汚れもない青藍の法衣に身を包んだ金髪の女性は頭を下げて、少女の顔を見つめた。その目には、ほんの少し嫉妬の色が映っていた。
「もし、運んでいる途中に彼女が目を覚ましたら、どうすればよいのですか」
「万が一にもないと思うが、もしそうなったなら、睡眠の魔法でもう一度寝かせてくれ」
「わかりました。私は彼女に何も言わなくてもいいのですね?」
「何か言いたいのか?」
「いえ。意味のない質問をして申し訳ありません」
「らしくないな」
憂いを秘めたまぶたを閉じた。再び開いたときには、もう不安定な感情の色は消えていた。
「では、始めるぞ」
赤の老魔術師は、その部屋すべてを覆うほどの巨大な術式を起動させる。少女ひとりの意識のために、それほど大きな封印が施されていたのだ。それが今、解放される。
「あれ……なんだっけ? あれ?」
困惑した様子の少女が目を覚ました時、目の前にあったのは崩れた城壁だった。眠っている少女を最初に目撃したのは崩れた岩の撤去をしている肉体労働者だった。監督官にあとで報告したものの、監督官はその報告を気にしなかったので、彼女はずっと放置されていた。
自分の体を確認すると、来ている服は丈夫でつくりのいいものだった。監督官に名前を呼ばれる人の声が聞こえてきて、名前、というものがこの世界にあることを思い出した。自分にも名前があるはずだと考えるとある言葉が頭に浮かんだ。
「エリアル・カゼット」
口に出してみて、それが今まで何度も自分の耳に響いてきたことを確信した。これが自分の名前だ。
「エリアル・カゼット。いい名前だね」
自分に向かって話しかける彼女の言葉には、どこか知性的な響きがあった。同時に、子供っぽい無邪気さもあった。だが、その言葉を聞くものは他に誰もおらず、気に掛ける者もいなかった。
彼女の服装は、特殊な装飾が施されていた。髪の色と同じ薄緑色を基調としたトップスはゆったりしていて裾が広い。腰には茶色のベルトが巻かれており、それが体のラインをはっきりさせているが、彼女の体形自体が、少し背が高いくらいの普通の女性のそれなので、特別性を感じさせるものではない。パンツは動きやすい作業服のようなシンプルで素朴なデザインだが、よく体に馴染んでおり、トップスのしゃれた感じとのギャップで、彼女の親しみやすく明るい性格を示しているような、ポジティブな印象を与えていた。
「……靴が欲しいな」
裸足だったので、立ち上がると、足の裏が少し痛かった。
エリアルは、もっと昔のことを思い出そうと目をぎゅっとつぶって空を仰いだが、何も思い出せなかった。頭が痛くなるだけだったし、足の裏も痛かったので、その場に寝転んで「やーめた!」と叫んだ。
「どうしようかなー。お金もないみたいだし」
生きていくのにお金が必要だということはわかっていた。住む場所も必要だし、食べるものも。一番大切なのは、何か困ったときに助けてくれる友達だとエアは思ったし、それがひとりも思い出せないという事実に、小さな寂しさを感じた。
エアは自分の胸に手を当てる。なぜ自分が「小さな寂しさ」程度しか感じないか不思議に思ったのだ。一文無しで、記憶もなくしている。お金もない。寝床もない。友達もいない。絶望してもおかしくない状況だし、そうでないにしろ、強い不安を感じるのが当然のことだと思った。それなのに彼女の胸にあるのは、小さな寂しさだけで、自分の現状は、どこか当たり前のことであるような気がした。それか……忘れているだけで、もうすでに、何度も似たような状況に陥ったことがあるのかもしれないと想像した。
「まぁ! 何とかなるでしょう!」
また大声で楽し気に叫んで、ひょいっと立ち上がって軽快に歩いて行った。太陽は彼女を照らしていた。体は軽かった。心も軽かった。人生はきっと楽しくて素晴らしいものだと、言う必要も意識する必要もなく、エアはわかっていた。