第五章 九十九話
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メレグの元に一通の手紙が届いた。封筒を裏返して差出人を確認する。中には便箋が一枚入っていたきりで、内容も用件だけの味気ないものだった。最後まで読み終えて、メレグはため息をつく。そして、封筒の表をもう一度確認した。消印は無く、直接ポストに投函されたらしい。直接顔を見せないのが実に彼らしい、と彼女は思った。
彼はどうなったのか?カタロスと共に出て行き、その後の足取りは誰も知らなかった。カタロスも帰ってこなかった。メレグは、カタロスが帰らぬ理由をオールド・ワンから聞いていたが、オールド・ワンは「彼」のことについて何も語らなかった。オールド・ワンも知らないのか、黙っているのか。
何にせよ、オールド・ワンはこれと決めたらテコでも動かない。なのでメレグは消息を知ることを諦めていたし、だからこそ、彼から手紙が届いたことに驚いた。
メレグは彼が住んでいたアパートへ移動した。便箋に書かれていた通り、大家には話が通っていて、メレグが名乗るだけで簡単に部屋へ入れてくれた。部屋の中は出て行った時のままであろうが、よく片付いていた。
手紙の内容は「これから俺を訪ねてくる者があれば、そいつの助けになってほしい。もし頼めるなら、俺の部屋にあるものを好きにしていいし、売払って金に換えてもらって構わない」というものだった。家賃の支払いは既に二か月先まで振り込み済みなので、じっくり決めてよいという。大家はメレグに鍵を託して、階下の管理室へ戻って行った。
改めて、メレグは部屋の中を見回した。部屋の隅に食器棚がある。彼はずっと一人暮らしだったはずだが、食器は二人分あった。棚の上には、つい最近掃除した跡がある。彼の背では届かないはずだ、とメレグは思った。洗濯カゴの中にある畳まれた服も一人分ではないだろう。二人分の服を押しこまれたカゴが、窮屈そうに見えた。彼は、ここに残したものを好きに使えとメレグに言った。
何故だろう。謝礼として用意する為なら、全部売払って金に換えてしまえばいい。大家の話によると、この部屋は引き払われるとのことだったので、彼がここに戻ってくることは、もうないはずだった。
彼はあえて、物という形でメレグに何かを残そうとしている。形見のようなものだろうか。そうだとすれば、彼のそんな行動が意外だった。そして、それが自分に託されたことも。これまで世話になった礼のつもりなのか。
さて、どうするか……。部屋の真ん中で突っ立っていても仕方がない。メレグはテーブルの前に置かれた椅子に腰を下ろす。窓の外は、真昼の太陽に明るく照らされていた。
マギの干渉を一切受け付けない世界。実を言えば、地上の大多数の人間には関係の無い話だった。しかし、その大多数を利用する、一握りの支配者たちが致命的な痛手を受けてしまった。軍産企業、研究機関、財界もこれからどうなるか分かったものではない。
自分も、これからどうしようか。彼がいなくなり、そもそもマギ自体が事実上消滅したとあっては、メレグも今後の身の振り方を考える必要がある。このまま町医者を続けてもいいが、一生をそれで終えてしまうのか?そうすることもできる。しかし、それ「だけ」で良いのか。
マギの無効化が知れてから数日、新たに分かったこともある。既にマギにより起きてしまっていた変化は取り消せないということだった。実験の過程で人ならざる姿に生まれ変わり、不要になって廃棄された被検体が、今も苦しんでいる。そして、それを救おうとしているのがイブリースだ。彼らにとってその行動は、救済というより贖罪らしいのだが。
かつて自分も、万密院という神輿を担いで、踊らされていたのは事実である。今から、自分に何かできることがあるだろうか……。イブリースの者たちは外からの接触を好まないという。門を叩いた所で、メレグを受け入れてくれるかどうかは未知数だ。しかし、まず荷物を詰めて、そこを目指さないことには何も始まらない。
とりあえずは、イブリースを目指してみようか……。そんなことをぼんやりと考えていると、椅子にかけっぱなしのコートが目に入った。男物だ。大きさから、カタロスが着ていたのだろうと推測する。厚手のコートで、十分に寒さをしのげそうだ。ちょうどいい、これを着ていくか。途中、列車で雪山を越えて行くことになるから、きっと必要になる。厚くなったら脱げばいい。ベッドサイドに置かれているランプも、もらっていこう。寝台列車のベッドで雑誌を読む時に使うのだ。
週末、イブリースへ向かう列車に飛び乗る自分の姿を想像しながら、メレグは部屋を出た。コートを着て、ランプを右手に階段を降りる。共用の玄関を出ると、重々しく扉が閉まる音がした。もう振り返らなかったし、二度と来ることもない。しかし、きっと忘れないだろう。
数日後、メレグ診療所に「休診中」の札がかかった。二度と、この札を外すことはないかも知れない。そんなことを考えながら、メレグは駅へ向かった。
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ゼーノは木陰に馬車を止めた。小高い丘の上を風が凪いでいくのを見て、思わず目を眇める。見渡す限り晴れ渡っている。青草が日の光を照り返しており、その輝きから、目に刺さるような痛みさえ覚える。
結局、まだ名乗る名は決めていない。当面の資金はあるし、各地を転々とする流れ者の生活を続けるつもりだった。しかし、旅立つ前に行かなければいけない場所がある。しばらくは、戻ってこれそうにない。ゼーノは草を踏みしめて丘を越え、その先を目指した。
ゲヘナの反乱は、本格化する前に鎮圧できたものの、失われた命は少なくなかった。死者を弔う為に、イブリースは無縁墓地を作った。敵味方、主義主張関係無く、道半ばで倒れた全ての犠牲者の安息を願って。
むろん、その墓標にはルーチェの名もあった。本当はゼーノ自身が墓を立ててやりたかったが、立派な物を用意できそうになかったし、何よりここなら彼女も寂しくない、と判断したのだった。ゼーノは迷ったが、墓標にはこう彫ってもらうことにした。ルーチェ・ローンダイン。
ゼーノはローンダインの息子になって以来、姓も当然ローンダインだった。その事実を隠してはいたが。つまり、ゼーノの養子であるルーチェも、戸籍上の名字はローンダインということになる。ジーク・ローンダインは、彼女から見れば祖父に当たるが、二人が顔を合わせることは無かった……。
ルーチェが名乗っていたイスタンテ・エスペリオは、入団時にエペの最高指揮官から与えられた名である。この名で過ごした時間の方が長いものの、やはり、最後はローンダインを名乗ってほしいというのがゼーノの望みだった。
水差しにつけておいた花を胸から取り出し、ゼーノはルーチェの墓を目指す。花束は日持ちしそうになかったので、仕方なくこの一輪ざしを選んだ。丘を登り、眼下に海を見下ろせる場所に墓地はあった。
風が吹いている。温かい風だ。十二列目の一番奥。そこにルーチェの墓標がある。その目の前まで来て、ゼーノは足を止めた。そして、足元に目を落とす。
鈍く光を照り返している何かが見えた……。墓の横に、何かが突き立てられている。ゼーノはしゃがみこんで、間近にそれを見た。なんということはない、一本のナイフである。
何故?まるで供えもののように、ナイフは良く磨かれ、柄に上等なスカーフが巻かれていた。スカーフの隅にはエペの紋章が刺繍してある。確か、新人が入隊した時に授与される記念品のはずだ。
ナイフ……。ルーチェのナイフを誰かがここへ届けたのだろうか?いや、違う。これは彼女が生前使っていたものとは全く別物だ……。それにルーチェは二刀流だった。一本だけ供えられたナイフを見て、ゼーノは思い出した。かつて、自分の傍で戦った二刀流のナイフ使いと、その横に居た少年を。
このナイフはルーチェへの手向けか、あるいは彼なりの別れの挨拶か……。それは分からない。けれど、このナイフもスカーフも、きっと彼の代わりだ。自分の代わりに傍へ置いてほしい。そういうことではないか。そうでなければ、誰がこんな場所まで来て、わざわざナイフを突き立てていくというのか。
共に多くの戦場を渡り歩いたこのナイフを失った今、彼もまた、別の道を探すのだろうか……。分からない。それを質問することさえゼーノには憚れる。もう二度と、彼に会うことはないだろう。
それでも……。良かった、とゼーノは思った。彼がルーチェに会いに来てくれたことを感謝してやまなかった。
決して忘れることはないだろう。彼のこの行為によって、一体、自分がどれほど救われたかを。
そしてそれは、他ならぬ彼女自身も同じはずだ。生前そうしていたように、ゼーノは墓標の下に眠るルーチェに、静かに話しかけた。返ってくる言葉はないが、その姿や声を想像することはできる。ゼーノの記憶の中で、ルーチェは笑っていた。