第五章 九十六話
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少年は一人で戻ってきた。彼は鉄の板から這いずるように降りて、そのまま座り込む。リゼルグがカタロスの姿が無いことを訊いても聞こえていないのか、ため息一つ帰ってこない。辛抱強くリゼルグ達が待っていると、やがて思いだしたように、年若い暗殺者は、ぽつりと語った。事の次第、顛末、全てを。
聞こえるや否や、ミチザネは一人言のように訥々と喋った。
「考える限りの最善策、というわけですか……。もし魔砲の発射を阻止したとしても、またカタロス氏は追われる身になる。カタロス氏が生き続ける限り、彼の持つ力を巡って争いが起きる。であれば、エーギルの炎に身を投じて、自ら永久機関と化すのが一番良いと……」
足元から見える最下層を見ながらイズルは口を開いた。
「あいつを助け出すことはできないのか?」
「なんとも言えません」
珍しく言い淀むミチザネの表情を見て、イズルは肩をすくめた。リゼルグは首を傾げる。
「最下層がどうなっているのかアタシにも分かりません。この下へ降りて行って、はたして無事に帰ってこれるかどうか……。カタロス氏だからこそ、生きていられるのかも知れませんし。そう……ここは、カタロス氏を隠すのにもってこいの場所です。彼はどこにも行かない、けど、誰もそこへ行けない」
そこまで言うと、顔を伏せて黙っている少年を見てミチザネは口をつぐんだ。
「終わったんだ……もう、何もかも」
そう言いながらイズルは少年の傍に寄り、彼の肩に手を掛けた。
「考えるのは後にしようぜ。感傷に浸るのも後悔するのも、全部、ここを出てからにしよう」
こうしたことを臆面もなく、ハッキリ言えるのがイズルの良い所だ。イズルが居て良かったと、心底、胸を撫で下ろすミチザネだった。
しかし、それっきりだった。イブリースに戻った三人が体を休め、翌朝目を覚ました時、少年の姿は消えていた。彼が使っていた部屋は出発した時のままで、昨夜は一睡もしていなかったことが分かる。衛兵に訊ねると、彼は日が昇ると同時に外へ出て、「街へ買い物へ出る」と言ったきり、後ろも振り返らずにイブリースを後にしたそうだ。
一つ変わったことがあるとすれば、部屋にメモがあったことだろう。「世話になった」とだけ一筆添えられている。リゼルグ達にとって、それが少年から聞いた最後の言葉になった。
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ミチザネはイブリースに残ると言う。リゼルグは別れを惜しみ、イズルはそっぽを向きながら「じゃあな」と言い、二人はイブリースを後にした。三日三晩かけて移動し、鉄道が走る街へ辿り着く。多くの行商が行き交う貿易都市だ。ここからなら、西ヨーロピアンの大抵の都市へは移動できる。
イズルは改札の前でリゼルグを見送ることにした。これが最後だしな、と嘯きながら。その言葉を聞いてリゼルグは笑う。
「お前、これからどうするんだ?」
「兄貴の所で厄介になろうかと思ったんだけど……。そうしてると、いつまでも世話になっちゃうような気がして」
リゼルグが鞄から取り出したのは、一枚のチラシだった。イズルはその表面に印刷された文字を目でなぞる。
「冒険者ギルド、加盟者募集中……」
リゼルグがボスから受け取った指令は「好きにしなさい」とのことだった。次にいつ仕事が来るのか、全く分からないという。
「何をするにしても、まずはお金かなって」
冒険者ギルドもピンキリである。冒険者とは名ばかりの盗賊の集まりもいるし、国や領主から援助を受けているようなものまで様々だ。後者のようなものは、しばしば組合的な組織になっていて、全員の稼ぎの三十パーセントほどがギルド構成員に分配される。その為、生活が安定しているが、最低ラインの稼ぎがないと除名されてしまう。ちゃんと営利団体として運営されているものから、ならず者の集団まで、ギルドと言えど一括りにはできない。
「どこで見つけたんだよそのチラシ」
「さっき通った新聞屋の前だよ。ご自由にお取りくださいって」
「ギルドのこと、前から知ってたんじゃなかったのか」
「いいや、ついさっきさ。あ、コレちょうどいいなよ思って、もらってきたんだ」
二人がイブリースを出発したのは、リゼルグが街へ出たいと言い出したからだ。彼が「いつまでも世話になっていると悪い」と言うから、イズルは久しぶりの羽休めを返上してイブリースを出たのである。
「他に宛てがないのに、よく街へ行きたいなんて言えたもんだ」
「まぁ、どうにかなるかなって」
「お前、なんか変わったよな……」
「そう?」
にこりと笑うリゼルグを見て、イズルはため息をつく。そろそろ汽車が来るらしく、線路の遥か先で汽笛が響いていた。
「そろそろ行かなきゃね」
リゼルグは右手を差し出した。イズルは黙ってその手を握るが、すぐに離した。
「それじゃ」
また会おうともさよならとも言わずに、リゼルグはイズルに背を向けた。イズルが思っていたよりもあっけない別れだった。リゼルグならもっと名残惜しむだろうと思っていたが、それは自惚れだったのだろうか。
イズルもまた仕事が無いが、彼には帰る場所がある。リゼルグがこの先どうするのかは、まだ決まっていない。連絡先も交換していない。もしかすると、二度と会うことはないかも知れない。広い大陸の中で見失えば、再会など望むべくもないのだ。
イズルもまた、静かに改札に背を向けた。そのまま広場へ向かおうとして足を止める。こちらを見ている視線に気づいた。そして、そいつは目の前にいた。
いつの間に――。三メートルほど先に男が立っている。知らない顔だ。二十代半ばだろうか。しかし声は若い。
「こうして、面と向かってお会いするのは初めてですね」
それが男の第一声だった。イズルの警戒度が最大値に振り切れる。誰だこの男は。何なんだ、目的は……。
「今すぐ、彼を追いかけてもらえませんか?」
男はリゼルグを追えと言っているらしい。
「これを」
そう言って男が手渡してきたのは切符だった。奇しくも、リゼルグが購入したものと同じ行き先になっている。
「里に戻って次の仕事を待つつもりでしょうが、それには及びません。あなたはただ、彼を追いかけるだけでいい」
「何なんだ、あんた」
「じきに里からも連絡が来るはずです。リゼルグという男に同行しろと」
僕がそう頼んでおきましたからね。そこまで言うと、男は笑った。
「好きにしろとは言ったものの、あの子を一人にしておくのは少し心配でね。もうちょっとだけ、彼に付き合ってもらえませんか?」
その言葉を聞いて、すぐにイズルは思い当たる。
「あんた、まさか……」
「急いで」
確かに、もう時間は無かった。イズルは後ろも振り返らずに改札を出て、発車のベルが鳴り響くプラットフォームを駆け抜けた。慌てて彼が乗り込んだのは二等車両だった。切符を見て指定された座席を確かめる。三等車両へ移動したイズルが、自分の前の席に座るリゼルグを見つけるのは、すぐ後のことだった。