第五章 九十五話
鉄の板が、ふと止まった。目の前には緑色の光の柱があり、それを囲むように柵が建っている。柵の内側には床があった。さっきまで俺達がいた上層部と同じ作りになっている。ちょうど、窯があった場所に光の柱が建っている。カタロスは、黙って板から降りた。光の柱の前へ向かうようだ。そんな様子を目のあたりにしながら、俺はただ立ちつくしていた。
こいつが今まで俺についてきたのは、殺してほしかったから?これまで見せてきた笑顔も涙も、優しい声も全部、その為?
俺に命を奪われるのを、ずっと待っていたのか。俺の隣で。
カタロスは光の柱の前に立つと、こちらを振り返った。そして何も言わない。俺を待っているようだった。
俺はゆっくり、薄い氷の上へ降りるように足を下ろす。床はしっかりしていてびくともしない。それでも肩は震えていた。膝は笑っていた。口元や目元が歪むのが自分でも分かる。
どうしてお前はそんな風に笑っていられる。まっすぐ見つめていられる。どうしてそんな目をして見ることができる。
人の笑顔から、身を斬られるような痛みを全身に受けたのは初めてだった。カタロスは、淡々と語った。
「あなたに殺してもらって、それでようやく消えてなくなる。満たされることのない渇きも、燻ぶり続けて消えない恨みも、この身を貫いて刺さったままの悲しみも、神に罰として与えられた余生も。死ねば全て終わるのだと、そう思っていたんです」
カタロスは、ふふっと声を出して笑った。
「でも、あなたが教えてくれました。僕が死んだ所で、僕のしたこと、僕が居たこと、どれ一つ、無かったことにはできないんだって。それだけで清算できるほど、人の命は軽くないのだと」
言い終えると、カタロスは俺に近付いてきた。そして、すぐ目と鼻の先で立ち止まる。
「あなたは、諦めることを決して許してくれませんでしたね。いつもそうだった。だから、僕と二人でロックイットを出ようと言ってくれたし、そして、僕と一緒にここへ来てくれた」
ふと、視界に何かが入る。雫だ。透明な雫がスッっと目の前を落ちて行く。周囲を取り囲む緑の光を照り返して、万華鏡のように忙しなく輝きながら。
「そうやって前へ進むあなたと一緒にいることで、本当に久しぶりに、『ああ、僕は、生きてるんだな』と思うことができました。もう、ずっと忘れていた感覚……二度と取り戻すことは無いと思っていた」
ありがとう。
短いが、これほどシンプルに心へ届く言葉も無いだろう。そして、思い出したようにカタロスは振り返る。背後の光の柱を。
「元を辿れば、全て僕一人が始めたこと。だから、僕が全て終わらせます」
カタロスはそう言ったが、俺にはその言葉の意味が分からなった。どうともとれるのに、何一つ明確な答えが得られない曖昧な言葉。けれど、それが全てを正確に言い当てていることを、俺は知った。
「ここからジャマーへエネルギーを転送し、ジャマーの影響範囲を拡大します。世界全土へと」
「世界……?」
ジャマーはマギによる干渉を「どこか遠く」へ飛ばし、無かったことにできるという。もし、それが世界中で起きるのであれば……
「マナを動力とする全てのオートマータは停止し、マギテックもその能力を失います。正確には、マギを操作しても何の効果も得られなくなる、ということです」
「それは……」
「つまり、この世からオートマータやヘリテージが消えるのと同じことです。ネフェリムも力を失い、みな等しく人の子になる」
できるのか、そんなことが。驚きがそっくり顔に出ていたのか、カタロスは俺の疑問に何ということもなく答えてくれた。
「できますよ。その為には、常にこのエーギルの炎を動かす力、炎にも及ぶであろうジャマーの干渉を跳ね除ける力が必要になりますが……僕ならできます。エーギルの炎を最大出力で稼働させても、神の子だから死にませんしね。ただ、そうする為には、炎を直接操作しなければいけませんけれど」
俺はカタロスのその提案に、素直に賛成できなかった。それは要するに……。
俺が察したことに気付いたのだろう。だからこそ、カタロスは断固とした口調で宣言した。
「僕を動力とした永久機関。そうなることで、エーギルの炎の効果は永続的なものになる」
力を巡り争うことも、悲しむことも、富める者と貧する者が生まれることもない。少なくとも、ネフェリムとその遺産によって血が流されることは、もうない。カタロスはそう言うのだった。
そう語るカタロスは、むしろ落ち着いていた。いつからそんな覚悟を決めていたのかと驚くくらい、堂々としていた。それだけ決意が固いということでもある。
「安心してください、死ぬわけではありませんから。ただ、ミチザネさんが言った通り、エーギルの炎を操作している間、僕には意識がありません。だから、次に僕が目覚めるのは、エーギルの炎が停止した時です。これだけのものを破壊できる兵器は地上に存在しませんから、壊れるとしたら経年劣化によるものでしょう。すると、エーギルの炎が停止するのは数千年後、あるいは何万年も後……。少なくとも、もう、あなたはこの世にいないでしょうね」
何の前触れもなく、自然な動作で……カタロスは、俺を抱きしめた。大樹の幹から伸びる枝のように長い腕は、すっぽりと俺の体を覆ってしまう。
「あなた達、人もまた、神の子です。血は繋がっていなくとも、同じ父の元に生まれた。今となっては唯一、僕が言葉を交わすことができる存在。そう……兄弟とも言える。形は違っても、能力は違っても、こうして触れ合うことができる。
きっと、この世からマギの干渉が消えた時、オートマータを失った時、人々は混乱するでしょう。けれど、僕は信じます。それでも、人はまた新しい道を見つけるだろうと。あなたのような人に支えられて、励まされながら……。
そして、願います。あなたが生きたはずのこの先の五十年、百年先の未来が、明るいものであることを」
それを守る為に、僕は行きます。そう聞こえた。
それっきりだった。カタロスはそっと俺から身を離して、走り出した。光の柱の前に来ると柵に手をかけ、軽やかに飛び降りる。
音も無く、カタロスは光の柱の根元に向かって落ちて行った。
カタロスが落ちて行ったということを認識できた瞬間、俺は柱へ駆け寄った。一瞬、視界がぶれて驚き、そしてすぐに衝撃がやってきた。足がもつれて転んだのだ。肩から床に転がり、慌てて身を起こす。そして、カタロスが居たはずの、柱の前まで走る。
眼下に臨めるのは、光の柱だけだった。渦巻くように立ち上ってくる緑色の光は、何事も無かったかのように上昇していく。そこには、人の影さえ見えない。何も聞こえない。カタロスの声も。
もう何もない。
どれくらい光の柱の根元を覗きこんでいただろう。ようやくそれを理解して、俺は柵に身を預けたまま、膝をついた。涙は出なかった。声さえ漏れてこない。けれど、感情が沸点を越えて体中を支配していくのが分かる。いくら呼びかけようと、もうこの声に応えるものはいない。もう、カタロスはいない。俺の前で泣かない。二度と笑ったりしない。全て、俺の前から去ってしまったのだと分かって、ただ、何も考えずに座りつくしていた。
目の前の光の柱が一瞬消えかける。しかし、瞬きする間に、その光は視界を覆い尽くすほど大きく広がった。そして、光の柱は天を目指す。空へ羽ばたくように高く早く。
俺は知らなかったが、エーギルの炎から放たれたエネルギーはジャマーへと向かい、ジャマーから生じた緑の光が、地上の各地へと降り注いだという。人々はそれを流星、天の川、あるいは神の涙とまで言い、天変地異の前触れであるとか、救世主が降臨する予兆であるとか、様々な憶測を流した。
けれど、俺は知っている。この光が、ある男の命そのものであること。あるいは思いであり、暗い道を照らす光であれとして、地上に使わされた希望の象徴であることを。
きっと、ずっと忘れないだろう。
かつて神の裁きによって焼かれた地を、かつて神の子であった者の願いが光となって覆い尽くす。
人々がマギによる時代が終わったことを実感するのは、この数か月後のことだった。