第五章 九十四話
カタロスは真摯に言った。
「イブリースの本殿にあるジャマーの座標とコード、誰か分かりますか?」
カタロスが首を巡らせるが、答える声は無かった。
「まさか、あんた……」
代わりに怪訝そうなルーシェの声が聞こえる。顔をしかめた彼女の方を振り返って、カタロスは言葉を継いだ。
「このエーギルの炎を介して、イブリースのジャマーを起動させます」
その言葉を聞くと、ミチザネはかぶりを振った。
「無茶を仰いますな。ジャマーを起動して、魔砲が放つ『矢』を消滅させようとお考えでしょうが……。ここからイブリースのジャマーを動かすことができる人間など存在しません。遠隔での操作には、通常の数十倍ものエネルギーが必要になる。それに、ジャマーの効果範囲はイブリース本殿の半径三キロメートル以内がせいぜいです。五十キロメートルも離れた場所にある、魔砲まで範囲を拡大するのは不可能です。そうなる前にあなたの体が力尽きるのが先でしょう」
「座標が分からないのであれば、おおよその位置で計算します」
言いながら、カタロスは台座の上に並んだボタンを押して、パチパチと鳴らす。軽快な動きだった。まるで手慣れているような。
「N46,E20。チャンネルは364、コードはvoidよ」
耐えかねたように、ルーシェが早口でまくしてた。カタロスは顔を上げて微笑む。
「ありがとうございます」
「知らないわよ、どうなっても……」
そう言いつつルーシェがジャマーの座標とコードを教えたのは、カタロスの言葉に希望を見出したからだろう。彼女は、ふいと顔を背けて、しかめっ面をした。すかした顔をしているが、落ち着かないのだろう。足の爪先をかつかつ鳴らしている。無意識のうちにやっていたらしく、イズルに「大人しくしろ」と言われて、ようやく気付いたのだった。
「転送場所の指定が終わりましたが、このままでは不十分です
カタロスは周囲をぐるりと見回した。窯を囲むように柵が立てられ、俺達は柵の内側にいる。柵の外は空中だ。下がどうなっているのかは分からず命の保証はできない。突風のように、緑色の光の筋が、下から上へとせわしなく昇っていった。
「ミチザネさんの言う通り、このままではジャマーを動かせません。なので、炎の最下層へ行きます」
「……念の為に申し上げますが。この窯――魔導器を介しているからこそ、人の手で炎を操作できるようになっています。マナを集約する一方で、エネルギー過多を防ぐためのストッパーになっている。魔導器を介さずに、直で高密度のマナを扱えば、落雷ではすまないレベルのダメージを負うことになりますよ」
「そう、ストッパーがあるから最大出力が制限されてしまうんです。でも、炎を直接操作すれば、その制限もなくなる」
カタロスは事もなげだ。ミチザネは食い下がる。
「本気で言ってるんですか?」
「冗談では、こんなこと言えないでしょう」
「正気ですか?」
「そう言われなかったら、僕は自分を正気だと思っていたかも知れません」
カタロスはミチザネを見て、首をすくめた。
「分かっていますよ。自分が何を言っているのか、あなたが何を心配しているのか。こんな判断がまともじゃないことも」
下層へ行くという話になったものの、階段やはしごは見当たらなかった。イズルやルーシェも辺りを見回している。
「すぐに迎えが来ます」
再び、カタロスが台座のボタンを小気味よく叩く音が聞こえてきた。すると、足元に臨める光の洪水の中から、何か浮かび上がってきた。それは薄い鉄の板だった。板は柵の外まで来て停止する。お伽話で聞く魔法の絨毯のようだ。空中で静止している。まさか、これに乗れというのだろうか。
そう考えている間にも、カタロスは板の上に乗ってしまった。両足をしっかりと板の上に乗せて、こちらを振り返る。そして手を伸ばした。
その目は俺を見ている。
「一緒に来てもらえませんか?」
板の上は人三人分とかなり狭い。俺は静かに右足を乗せて、カタロスの手を取った。長身のカタロスに支えられながら、板の上に立つ。なるべく足元を見ないようにした。必然、カタロスの顔を見ることになる。
いつになく真面目くさった顔。吹っ切れたような笑み。その片隅に……有無を言わせないような凄みが見え隠れしている。
一体、お前は何を考えているんだ。
どうするつもりなんだ。俺を連れて。
カタロスが鉄の板の上から台座のボタンを押すと、板は光の洪水の中へ、ゆっくりと沈んでいった。
緑色の光の螺旋は、下へ行くほど濃くなっていく。まだまだ先は遠そうで、るつぼと化した洪水の底は、全く見えなかった。俺は、さっきからずっと気になっていることを口にした。
「随分詳しいな、ここのこと」
前にもここへ来たことがあるのだろうか。台座の操作といい、最下層のことといい、勝手知ったる様子だった。カタロスは外の方を向いたまま答える。
「自分達で作ったものですからね」
返事を聞いて、俺は、しばらく黙っていた。十秒ほどそうしていただろうか。ゆっくりとカタロスの方を振り返った。矢張り奴は外を向いている。
俺は、もう一度、カタロスの言葉の意味を確かめようとした。
そして、言葉通りに受け止めるしかない事実を受け入れた。覚悟を決めて、カタロスに訊ねる。
「ネフェリムなのか」
お前は。
「…………」
遠い昔、神の遣わしたる者と人との間に生まれた子ども。親殺しを目論見んだ結果、楽園を追い出された者たち。
「いいえ」
不意にカタロスがこちらを向いた。何故だろう、この非常事態にあって、奴はとても落ち着いている。けれど、その表情が、声が、痛々しかった。涙も枯れた目で無理に泣こうとするような顔だ。
「ネフェリムは、僕の息子達です」
カタロスには一生添い遂げることを誓った妻が居た。
ロックイットでそんな話を聞いたが、その女は既に、この世にいないのだろう。寿命が尽きたか、あるいは神の怒りに触れて殺されたか。
いずれにしても、ずっと昔の話だ。気が遠くなるくらいに昔の。
「僕は、かつてグレゴリと呼ばれた者です。神の使いとして地上に降りて以来、地上で生きてきました」
遥か昔から。
カタロスはそう言って、俺にナイフを貸してくれと頼んだ。
かつて神に与えられた使命を忘れ、人間の女に惚れて結ばれた男。その二人の間に生まれたのがネフェリムだという。言ってみれば、グリゴリとは……全てのネフェリム、マギテック達の父だ。
「覚えていますか。ロックイットでのこと」
俺が固まって動かないのを見てとると、カタロスは勝手に俺の上着の内側からナイフを取りだした。
止める間もなく、カタロスはその白い手首に刃を入れた。血がふつふつと湧き出て糸を作る。重力に引かれて、血の糸が床に垂れて行く。
しかし、血の糸は少しずつ細くなり、やがて消えた。カタロスの手首についた傷はもうない。
何が起きているのか分からなかった。
「死ねないんですよ、この体は」
確かに、ロックイットで過ごした夜、カタロスは『死ねない』と言っていた。
そして、その言葉が、額面通りの意味だとは思わなかった。死なないのではなく、『死ねない』のだと。
「神の子ですから寿命もありません」
カタロスは服の袖で丁寧にナイフを拭くと、そっとナイフを元の位置に戻した。
「神を殺せるのは神だけです。主が僕に死ねと命ずるだけで、僕は消えてしまう。けれど主は……父はそうしなかった」
そうしてくれなかった。
そう続けて、カタロスは顔を歪めた。ずっと、しまっていた思いのたけをぶちまけたような表情だ。眉も目尻も、口元もめちゃくちゃで崩れている。
「主の裁きにより、家族も友人も、みんな死にました。けれど、僕だけは死ななかった。仲間を、子どもを、妻を、目の前で殺されて、なお生きろと。それが、最後に聞いた主の言葉でした」
多分、それがカタロスの咎に対して、神が用意した罰なのだろう。そして、それは神が予想した通り、カタロスを苦しめた。
この世で唯一の神の子、ネフェリムの始祖。どこへ行っても自分が争いの火種になる。大地を焼け野原にし、川を血の海に変え、空を死の灰で覆い尽くす。一体、何度繰り返されてどれほど続いたのか。その争いも、カタロスが捕らわれの身となることで一応の終わりを見る。
その時から、カタロスは一人、地獄の最下層で生き続けることになった。生が永遠なら、その苦しみも永遠。終わることすら許されない人生だ。
「だから、あなたが僕の前に現れた時、本当に嬉しかったんです」
そう言って、カタロスは俺の手を取った。カタロスの持つ温かみが、薄い手の皮一枚を通して伝わってくる。
「オールド・ワンさんから聞かされていました。あなたの力をことを」
俺は思い出す。カタロスと初めて会った時のことを。最高に場違いな穏やかな笑顔を。その優しい声を。
「あなたの力なら、僕を殺せる」
相手の体ではなく、精神だけを焼き殺す力。
俺は我に返った。しっかりとカタロスの顔に焦点が合う。何度見てもその表情は変わらない。初めて会った時と同じ笑顔を見せて、カタロスは言った。
「僕は、あなたに殺されたかったんです」