第五章 九十三話
アンリが踏みこんでくる。そう思うのと同時に響いたのは、呑気なミチザネの声だった。
「お疲れ様でした」
ニヤリと笑うミチザネの歪んだ表情は、戦意を喪失させるのに十分だった。
誰もが、ミチザネが何を言っているのか、何が起きたのか理解できなかった。一秒、二秒、……十秒。いくら経っても、アンリはその場から動かない。いや、動けないのだ。まるで体中の至る所を見えない糸で縛りあげられたように……アンリは沈黙していた。口を動かすことも許されないのか、アンリは瞬きすらしない。
「リゼルグ氏自ら剣を収めるだけの器量が、あなたにあって助かりました。お人好しですね、あなたも。この、どことも分からん馬の骨の言葉に耳を貸すとは。時間稼ぎに重宝しましたよ」
言いながら、ミチザネは鞄の中に忍ばせていた何かを取りだす。
「今あなたは、手足はもちろん、舌一つ動かせないことに驚いている。当然です、あなたは四肢の感覚を失っているのですから。これは、上下左右の感覚を失うのに似ている。三半規管が狂った――平衡感覚が壊れた状態に近い。この状態では、体を動かすことはおろか、前へ進もうなどとは思いも寄らない。まるで手足を斬り落されたダルマのような気分でしょうが、ご安心を。その腕に足に、ちゃんと五本の指がついています。瞳一つ動かせない今のあなたでは、確認しようもありませんが」
ミチザネが鞄から取り出しのは、薄紫色に光る三角形のオブジェだった。底は四角形になっているようで、ミチザネの骨ばった指とやせぎすの手の平の上に、行儀良く収まっていた。
「相手を無傷で捕縛するオートマータ。効果が出るまでに時間がかかるのと、射程距離が短いのが難点です。相手に幻覚を見せて神経系を麻痺させ、体の自由を奪う。こうした操術を得意とするマギテックやオートマータは多い。相手を傷つけないから足もつかない。一つあれば便利ですよ」
その言葉が届いているのかいないのか、アンリは頷きもしない。
「もっとえげつない道具もあるんですけどね。たとえば、対象周囲の空気の流れを止めるとか。空気が止まれば、酸素を取り入れることができない。一切手を触れず、縄や水を使わずに相手を窒息死させることができる。じわじわと、その恐怖を相手に味あわせることができる。ま、暗殺や拷問用ですね」
平衡感覚が狂うとはどういう状態だろう。そう言えば、長時間ぐるぐるその場で回ると、上手く体のバランスが取れないという話を聞いたことがある。試したことはないが、頭が重く、立ち眩みの時のような不快感を伴うらしい。それでもアンリは足を踏み出そうとして転んだ。彼自身、そんなことをしても無駄だと分かっていたろうに。
オートマータが十分効いているのを確認してから、ミチザネはアンリに歩み寄って、刀を取り上げる。
「もしエンジンルームにいる操縦者を警護する為なら、あなた一人でここにいるのは不自然です。もっと大人数でないと。恐らくですが、あなたがここにいる理由は……」
ミチザネの視線はアンリの顔から更に上、エンジンルームの扉に突き刺さった。
「あそこにいる誰かと一緒にいる為。あるいは『一緒に居てやる為』。そんな所ですかね」
ミチザネは刀を階段に立てかけて置いた。そして、アンリを振り返る。
「安心なさい。あなた達に危害を加えるつもりは更々ありません。誰も傷つけはしない。むしろ、誰も傷つかずに済む為にここへ来たのですから」
そこまで言って、ここまで来る間に払った数々の犠牲を思い出したのか、ミチザネは困ったような顔をして笑った。
「もうすぐ終わります。転寝をしている間にね。あなたが見ていたのは、悪い夢だったのです。それでいいでしょう?お互いにね」
そう言ってミチザネはイズルを呼んだ。イズルはアンリに近付いて、うつ伏せに倒れていた彼に手刀をくらわせる。観念していたのだろう。アンリは大人しく眠りについた。ミチザネの「誰も傷つけない」という言葉が救いだったのか、心持ちアンリの表情は穏やかに見えた。刀を構えた時に見せた、よく研がれたナイフのような鋭利さ、怜悧さが嘘のようだ。
「急ぎましょう」
ミチザネに言われるまでも無かった。俺達は我先にエンジンルームに飛び込む。飛び込んで、首がもたげるほど高く見上げた。エーギルの炎と呼ばれる巨大で透明な窯、その中で踊るように回っては消え、どこからともなく現れ、明滅する七色の光を。
それを見て、ミチザネはぽつりと呟いた。
「矢は既に放たれた」
ミチザネの吐いた絶望の言葉を実感するのは難しかった。
エーギルの炎により生成されたエネルギーは、既に魔砲へ転送された後だという。しかし、止める者がいなかったので稼働しっぱなしの状態になっていたのだ。もう間もなく、魔砲より神殺しの炎が放たれるという。
かつてソドムの地は不浄に覆われ、それを薙ぎ払う炎が、神の怒りによって放たれた。
これから起こることはそれと同じくらい、あるいはそれ以上に凄惨だろう。ミチザネの言葉を聞くとそう考えられた。けれど、俺達は突っ立っていることしかできない。それが分かった所で、どうしろと言うのか?
「止めることはできないのか?」
イズルの鋭い声に、ミチザネは静かにかぶりを振る。
「まずは、操縦者を引き離しましょう」
エーギルの炎、その窯の中に何かが居た。慌ててその腕と足を取って、カタロスとミチザネとリゼルグの長身組で引き上げる。まだ若い男だった。目をつぶっている。息をしているようだが、眠っているというより、死んでいるように見える。気を失っているのか。肌は白く、もやしのように頼りない体つきだった。しかし、髪はよく手入れされている。丁寧に櫛を通された髪は絹のような手触りだった。
「全く、若いってのは恐ろしい。加減を知らないんだから」
やけくそ気味に言うと、ミチザネは傍にあった台座の隅を見る。台座の上にあるレバーのような物を手前に下ろし、台座の表面にたくさん浮いているボタンを片っぱしから操作した。
「臨界点を超える出力で操作するなんて正気じゃない。死ぬ気か」
ミチザネが声を荒げるのを初めて見た。少し驚いたが、それどころではない。
「止めようと思ったら、魔砲を停止させるか、魔砲を破壊するか。二つに一つです。前者は魔砲を手動で操作しないといけないし、後者での使用に耐えうるような兵器がありません。ヘリテージを破壊できるほどのものというと、同じくヘリテージか、あるいは火山の噴火ような大災害でないと……」
「俺達にできることは、何もないのか?」
俺のダメ押しがトドメになったのだろう。ミチザネは口を噤んで、それっきりだった。イズルが口を開く。
「予想される被害は?」
ミチザネの言葉を聞く限り、この操縦者はかなり無茶をしたようだ。被害は万密院の周囲だけではすまないのではないだろうか。
「爆心地の直径五十キロメートル以内は地上から消えます」
……消える?
「これが地上にどのような影響を及ぼすかは未知数です。ただ、地軸は傾くでしょうし、それに伴い外気温も変化するでしょう。自転への影響さえ懸念されます」
「つまり、最悪の場合しぬ」
イズルが合いの手を入れると、ミチザネは盛大にため息をついた。
「地球ごと心中、なんてことになりかねません」
ここまで来て万事休すなのか?俺が訊ねようとする前に、ミチザネは眠っている操縦者を見下ろした。
「派手にやって派手に散るという魂胆か、単に知らずに操縦していたのか。全く、人は若い時ほど、死に急ぎ、潔いものです。年を取るほど、残された生にすがりつこうとするのとは真逆にね」
「死ねるかよ!」
気が付いたら、俺はそう叫んでいた。その場に居た全員がこちらを振り返る。
でも、どうすればいい……?
再び、葬列に並んでいる時のような静けさが辺りを包んだ。それぞれ、顔を伏せ俯いている。どれほどそうしていただろう。
気がつくと顔を上げていた。俺だけじゃない、リゼルグもイズルも……全員が同じ人物を見ている。視線が集まる先にカタロスが居た。
カタロスの声が聞こえたのだ。いつもそうしているように、むしろこいつは穏やかだった。それは状況に似合わず、落ち着いた声だった。
「僕にやらせてください。この災厄を止める努力を、ほんの少しの力をあなた達から借りることを、許してください」