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第五章 八十九話

 俺達はゼーノが涙を拭うのを待った。静かに泣き晴らした後のゼーノは、むしろ吹っ切れたような顔だった。迷いを断ち切るような、覚悟を決めたような。だからだろう、俺達の質問に整然と、簡潔に答えてくれた。

「つまり俺は、万密院を裏切ったわけだ」

 時系列を整理して、ゼーノの話を組み立て直すとこうなる。ゲヘナは、かねてより万密院打倒の機会を伺っていた。彼らが具体的な計画を立て始めたのが二年ほど前。そしてカタロスが万密院の元を去ったことが、反乱の狼煙を上げる合図となった。

 しかし、ゲヘナだけで復讐劇の青写真を完成させたわけではない。そのきっかけを与えたのは、全く別の人間だと言う。ゲヘナがその人物の手を借りることで、計画は実現の運びとなった。つまりその援助者こそ、全ての発端なのだという。

「あなたがカタロス殿か」

 ゼーノに呼ばれて、反射的にカタロスは頭を下げたようだ。何故、下げる必要があるのだろう。おかしくて、場違いながら、思わず俺は噴き出してしまった。

「あなたの脱獄は二年前から計画されていたことです。何故、その男がゲヘナの肩を持つ気になったのかは分かりません。彼は、あなたがいなくなることで何が起きるのか全て予測できているようでした。何もかも見通していたからこそ、脱獄の手引きをした」

 カタロスは頷いて言った。

「知っています」

 黙るゼーノを見て、カタロスも淡々と続ける。

「その人は、僕の前にも現れましたから」

 ゲヘナに肩入れする誰かと、カタロスの前に現れたと言うオールド・ワン。この二人は同一人物なのだろうか?カタロスの言葉を信じるのであれば、そういうことになる。

 そして、その仮説は正しいだろうと思う。カタロスの脱獄は反乱を起こすのに必須だ。これが出来なければどんな土台を用意しようと、計画は全て砂上の楼閣になる。カタロスを脱獄させるよう仕向けたのは、他でもないオールド・ワンだ。自分でやらないと気が済まない性格だから、全て一から、一人で構想したのだろう。

 そして、自分の足でカタロスの元に出向いたのだ。他でもない自分自身の口でカタロスに告げたかったのだろう。開幕のベルが鳴ることを。もう後には退けないのだと。カタロスも、そして勿論、オールド・ワン自身も。

 こうしてオールド・ワンの手により、舞台の幕は上がった。役者は全て奴の手の上。脚本は奴の頭の中にしかないが、恐らく俺達は、その筋書きをほぼ正確になぞっているのだろう。この先の結末さえ、あいつは予測しているのだろうか?一体、何の為に奴はこんなことをする?

「男は突然俺の前に現れて、オールド・ワンと名乗った」

 ゼーノの言葉を聞いて、カタロスは「はい」と歯切れよく言った。再び短く頷きながら。その様子を見てゼーノは、幾らか気が休まったらしい。ゆっくり肩を下ろして、小さく息をついた。

「オールド・ワンが現れたのは……カタロス、あなたが連れ去られた直後だった。俺は知らなかった、万密院の中で何が起きているのか、誰が何を始めようとしているのか。オールド・ワンとは初めて会った。全くの他人だ。その口から聞かされるのは初めて聞く話ばかり。それなのに、俺は……あの男の手を取っていた」

 ゼーノがオールド・ワンから受けた提案はシンプルだった。「全て壊してしまわないか?塵芥一つ残さず、一片の影さえなくなるほど、全て消し飛ぶくらい完璧に……万密院を壊してしまわないか?」

 そのオールド・ワンの言葉は――他でもない、ゼーノ自身が、心のどこかでいつも願っていたことだった。

 胸の内を見透かしたようなオールド・ワンの提案に、ゼーノは凍りつき、次に瞬きをし、オールド・ワンの姿を瞳に焼き付け……背筋がぞくりと震えるのを感じたという。その震えは怖さが半分と、飢えた腹を抱えて甘露を目にした時のようにジリジリと焼けつくような、痺れるような渇望が半分と。

 目の前に出されて手を伸ばさずにはいられない、そんな果実を与えられたように。ゼーノは貪るように、一心にオールド・ワンの話に聞き入ったという。

 そしてゼーノは出来る限り、オールド・ワンに協力した。自分が指揮するエペの第一武隊はもちろん、その他の武隊にどんな人物がいるのかつぶさに説明した。各武隊の遠征スケジュールから、最もエペが手薄になる時間を伝えた。そしてオールド・ワンの言う通り、「それ以上のことは、何もしなかった」。ゼーノは、あくまで自分が知っている範囲の事柄を伝えるのみで、後は普段通り過ごした。周囲に怪しまれ、腹の内を探られないようにする為に。

 ゼーノは振り返り、イズルとリゼルグを見て苦笑いを浮かべて詫びた。それは初めて見る表情だった。二人もそうだったのだろう。きょとんとしている。

「……不義理な上官ですまんな」

 ゼーノの言葉を聞くなり、二人は顔を見合わせた。そして計ったように、同じタイミングで笑う。笑い方は違うが、どちらも痛い腹を突かれたような、けれど、腹がよじれるくらいおかしむような……そんな感情がない混ぜになったような表情をしている。

 二人の様子を見て、ゼーノは僅かに口元を緩めた。けれど、それも一瞬だった。瞬きする間に、ゼーノの顔から人間らしい感情が影をひそめ、いつもの険しい顔つきに戻っている。

「お前達は、この先へ行くのだろう?」

 どう答えるべきか。イズルもリゼルグも口を閉ざす。ゼーノは半歩、斜め後ろに下がった。

「時間は、あまり残されていない」

 そう言うとゼーノはこちらを向いたまま、更に後退した。

「急げ。止めると言うのであれば、全力でな」

 ゼーノは俺達に道を譲ると、少し口元を緩めた。笑った……ように見えたが、気のせいかも知れない。

「正味、ゲヘナの行く末に興味は無い。俺が心底、万密院を壊滅させたいと願うなら、もっと早く行動していただろう。けれど、そうしなかったのは……単に、今の状況から逃げ出したかっただけだからに過ぎない。確固とした信念があったわけではない、けれど、このままでいるのも嫌だ。そう悶々とするだけで、結局、俺は何もしなかった。ただ、差し出された手を取り、言われるままここへ来ただけに過ぎない」

 回りくどいが、邪魔をするつもりは無いという意思表示のつもりらしい。

「リゼルグ、イズル」

 静かに名前を呼ばれて、二人は姿勢を正した。

「最後に、お前達に会えて良かった」

「最後?」

 これもまたほぼ同時に、リゼルグとイズルがオウム返しに訊ねる。

「俺は万密院を離れる。この戦い、結果がどちらに転がっても、そうするつもりだった。この名前も捨てる。亡き義父にもらった名前、手放すのは惜しいが……一緒には連れていけない」

「つまりこれからは、過去の経歴を捨て、全くの別人として生きていく、ということですね?」

 ここで初めて、ミチザネがゼーノに口を利いた。

「失礼、挨拶が遅れました。アタシはミチザネと申します。リゼルグ氏、イズル氏とは奇妙な縁があったのでしょう、ここまで同行させていただきました」

 何故かミチザネは遠い目をした。まるで記憶を辿るような、走馬灯を見るような、そんな瞳だ。

「おっしゃる通り、別人として生きるなら、過去を捨て、名を変え姿を変える必要もありましょう。それでも、思い出だけは道連れにできます。たとえ、もう手の届かない存在になったとしても、記憶を思い起こせば、いつでも彼らはあなたの前に現れ、声をかけてくれる。目を閉じればすぐに会える。そこに距離や時間の概念は無い。初対面の人間に何を言うかとお思いでしょうが……。本当にそれだけが、唯一人間のみに許された慰めであり、励ましでもあります」

「お忘れなきよう……」という言葉で最後を結び、ミチザネは腰を折り、ゼーノに頭を下げた。

「……俺の部下の二人が、世話になったようだな」

 そして「ありがとう」と続け、ゼーノもまた、帽子を脱いで頭を下げた。彼は帽子を目深に被り直すと、親指を突き立て、通路の先を差し示した。もう行け、ということなのだろう。

 リゼルグとイズルは顔を見合わせ、敬礼した。じっと、一瞬だけゼーノを見つめる。そして、二人揃って駆けだした。俺達もその後に続く。振り返ると、こちらを見守るゼーノの姿があった。相変わらず口元が緩んでいる。今度ははっきりと、微笑みと分かる形を作っていた。

 けれどその微笑みは、俺達に対する手向けというより、自嘲だったのかも知れない。そんな、複雑な表情だった。

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