第五章 八十八話
ルーチェの体は置いていくしかなかった。カタロスが黙って差し出したコートを上にかぶせて、俺達は先を急ぐ。更に下層へ降りる為の階段を見つけたが、自然と全員が足を止めた。
そこで出くわしたのは矢張りというか、俺のよく知る男だった。どう進んでも、いずれここに必ず辿りつく。だからここで待っていたのだろう。けれど、あえてここで、一人で待っていたのは何故なのか。
イズルとリゼルグは身構えたが、飛びかかろうとはしない。その様子を見てルーシェも踏みとどまった。そいつは帽子を目深に被り、一年半前に見たのと同じ、鋭い視線をこちらに送る。
グロワール・エペ第一武隊隊長、ゼーノだ。ルーチェがエペの中で一番懐き、信頼していた男だ。そして唯一、彼女と対等に渡り合える男。
「ルーチェはどうした」
ゼーノの冷たい声が周囲に冴え渡る。誰もが息を呑んで黙ったが、一番早く声を出したのはイズルだった。
「先ほど息を引き取りました」
そう言ってイズルは敬礼をした後、右手の握りこぶしを胸に手を当てて、両目を閉じた。喪に服す時のポーズだ。その動作は哀悼の意を示すという。
「ルーチェ……彼女は自分の命と引き換えに、彼をかばいました」
短い黙とうを終え、イズルは俺を指し示す。ゼーノはゆっくりと首を動かし、じっとこちらを見た。そしてイズルと同じように目を閉じる。すると「そうか」と言ったきり、口を閉じてしまった。
どれくらいそうしていただろう。俺達は、身の周りの沈黙に飲みこまれてしまいそうな圧迫感を感じていたのに、ゼーノは実に静かだった。ようやく彼は瞼を上げると、首を巡らせてルーシェに声を掛けた。
「君はルーチェによく似ているな」
ルーシェの泣き晴らした顔を見て、ゼーノは少し困ったように笑う。
「さすがに筋肉のつき方は違うが……骨格はほぼ同じと言っていい。目の形、鼻立ち、困った時にする上目づかい……。驚いた時に肩を震わせる仕草も、そっくりだな……。あいつに双子の妹がいることは体内に埋め込まれていたタグから分かっていた。君がそうなのだろう」
ゼーノの声は震えていた。涙は無かったが心は泣いている。その様子が伝わってくるから、誰も彼に何も言えなかった。
「あいつは最後、どうしていたんだ?」
今度は俺の方を振り返って言った。
「俺の手を握ったまま逝ったさ」
精一杯、それだけ言った。すると何故か……ゼーノは俺を見て優しく言った。
「ありがとう」
「あいつも、それで本望だったろう」と、その後に添えて。
ゼーノに攻撃の意志がないことは明白だった。俺達は武器を下ろし、立ったまま彼の話を聞くことにした。
「ルーチェは俺の娘だ」
ゼーノがルーチェが拾い、養女としたのは八年前のことだった。街の見回りをしている最中、ふと路地裏に目をやると、ゴミにまみれた体を蹴られているルーチェが目に入ったという。街の悪ガキ達が、よってたかってルーチェをサンドバックにしていたのだ。ゼーノがガキを追い払い、手を差し伸べようとした時、ルーチェは思いもよらない行動を取った。
「俺にナイフを向けてきたんだ。相手が一人なら勝てると思ったんだろうな」
ナイフを持って突きだしてきたルーチェの腕をゼーノが掴むと、彼女は唸りながら身をよじった。仕方なく腹に一撃を食らわせて黙らせ、目立つと思いつつルーチェを抱えて部屋に戻ったという。エペの寮は連れて帰れないから、自宅の方へ向かったそうだ。
「最初はなかなか口を利いてくれなかったな」
幸いゼーノは街の警護の任についていたので、毎日自宅を訪れる機会があった。ルーチェに顔を洗えと叱り、フォークの使い方を教え、言葉遣いの手本を見せたのはゼーノだった。そして、一緒に洗濯ものを洗い、街へ出て服を選んだりした。常にルーチェの前を行き、時に横に並んで歩く。幼いルーチェにとって、ゼーノが全てだった。
なるほど……。一年半前、ゼーノの部屋で介抱された時に浮かんだ疑問が、全て氷塊した。部屋にあった二人分の食器、ゼーノの手慣れた世話の焼き方。なんということはない、ルーチェに対してやっていたことを、そのまま俺にやっただけなのだ。
ルーチェがエペへ入団したいと言い出したのは五年程前のことだ。ルーチェにしてみれば自然なことだったろうが、ゼーノは彼女に入団希望書を書かせる直前まで、反対するべきか悩んだという。
「平凡でいい、ありきたりの人生でいい。小さくてもいいから、幸せを掴んでほしかった」
ゼーノの願いとは裏腹に、エペに入団したルーチェは腕を上げて、すぐに頭角を現し始めた。二人が親子であることは誰も知らなかったし、二人もそのように振舞った。
俺はルーチェと同室だったが、思えば、ルーチェはいつも俺に背を向けて着替えていた。風呂は入っているのだろうが、一緒に入ったことはない。エペは女人禁制だったから、誰に対しても徹底的に性別を隠していたのだろう。そこまでしてルーチェがエペに居たかった理由は、ゼーノに最も近い場所で、彼の役に立つ為だったのではないだろうか。事実、彼女はゼーノの武隊に自ら志願して配属されたそうだ。
「お前が来てから、ルーチェはまるで、気でも違ったようだったな」
ゼーノは小さく、くすりと笑った。
「大げさに言えば、嫁に出したような気分さ」
口を開けば俺の名前、どこを見ているかと言えば俺の背中、誰よりルーチェの変化に早く気付いたのはゼーノだった。
「ただ、不安でもあった。あいつは自分を冷静な目で見れないし、行動に自制がきかない。ブレーキのついていない汽車のような子だったんだ。案の定、お前を随分苦しめたようだしな」
そう言って、ゼーノは帽子を脱いで俺に頭を下げた。返す言葉は見つからなかった。
「かなうなら許してやってほしい。あいつはただ、知りたかっただけなんだ。お前のことを。自分自身のことを」
俺はルーチェが何を考えているのか分からなった。けど、それは向こうも同じだったのかも知れない。あいつもまた、こちらが何を考えているのか分からなくて、どう気を惹いていいのか分からなかったのではないか。
でもあいつは俺と違って、それを「恐れなかった」。積極的にこちらに向かって歩いてきた。けれど俺は、近づいてきた分、遠ざかることしかできなかった。もしこの距離が縮まっていたらどうなっていたのだろう?
「ありがとう」
最後に、ゼーノはもう一度言った。
これが初めてで、最後でもあった。この男の涙を見たのは。