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第五章 八十七話

 思っていたよりも、ルーチェは冷静だった。ああまでしておびき寄せた俺を前に、ルーチェはむしろ、柔らかい物腰を見せた。そして何も言わない。

 何を考えているのかと思わず身構えたが、単に俺を見つめているだけだった。一年半の間にどう変わったのか、それを見定めようとしている。俺は変わっただろうか?分からない。ルーチェは何も変わっていないように見える。人の記憶は曖昧ですぐ劣化する。けれど本当にルーチェは、記憶の中にあるそのままの顔だった。

 お互い黙って対峙しているのを、カタロスとイズルは見守り続けてくれた。しかし、また一歩こちらに近付いてくるルーチェを見て、イズルが素早く声を掛けた。

「道を譲ってもらえないか?急いでるんでな」

 彼としては精いっぱい、当たり障りのない言葉を選んだつもりなのだろう。しかし、ルーチェは納得しなかった。

「君とそこの大きい人はいいけど、彼は駄目」

 奴は俺を置いていけと言う。敵対が決定的になり、ルーチェをどかす以外に道はなさそうだった。俺は黙ってナイフを構える。攻撃の意志表示をする為に。ルーチェは肩をすくめた。

「ただ話をしたいだけなのに」

 そう言って、奴もまた、懐から二本のナイフを取りだした。

「素手で君を受け止められる自信が無いから使わせてもらうよ。安心して、傷つけたりしないから」

「どうしてお前がここにいる?」

 そう訊いてみる。俺がすぐに向かってこないのを見て、ルーチェはいくらか安心したようだった。

「もうすぐ始まるんだよ」

「何がだ?誰が何を始める?」

「空があると知れば鳥だって籠を出たくなる。アンリはそう言ってたよ」

「アンリ……?」

 アンリという言葉に反応して、思わずイズルがオウム返しに訊ねた。

「先生がどうしたって?」

 続けざまイズルが訊ねると、ルーチェはけだるそうに答えた。

「自分に羽が生えていることを思い出したら、飛ばずにはいられないんだってさ」

 全く意味が分からなかった。しかし、ルーチェは自分なりに要約したつもりらしい。何を言っても無駄だと悟り、俺は飛びかかる準備を始めた。

「気遣ってもらえるのは有難いが、お前に荒技を使わずに、この場を切り抜けるのは難しいだろうな」

 エペに居た間、ルーチェ相手に有利を取れたことは一度もない。けれど、逃げることも許されなかった。物理的にも精神的にも。

 どうにか隙を作れないか。そう思った瞬間。むしろ、ルーチェの方から飛びかかってきた。

 全力で体重を前に圧しつけながら、ルーチェはこちらに向かってくる。しかし――何故か奴は、ナイフを投げ捨てて、俺に向かって飛び込んできた。タックルのような重い一撃だ。かわそうとしたが、肩と肩がぶつかり合う。重心が崩れて倒れ込む直前、鋭い音が響いた。空気を裂く、鉛玉の音だ。

 一体どこから――?色んなことが一遍に起きて、すぐには考えられない。けれど……俺に覆いかぶさったルーチェの首から、ワインのように深く赤い血が流れ出しているのを見て、正気に戻った。

 振り返ると、こちらに銃を向けている男の姿があった。エペの制服を着ている。とっさにイズルが投げた苦無をかわして、もう一度、こちらに標的を定めていた。

 不意に体が軽くなった。顔を上げると、身を起こしたルーチェの顔がそこにある。その二つの瞳が、襲撃者を見つめている。その目つきは仕事をしている時や、俺を見ている時とも違った。

 それは血に濡れたように、ぬらぬらと輝いている。言葉はなくとも、「殺される」と実感させられる凄みがあった。

 悪魔……。その表情を見てすくみ上がる俺を置いて、ルーチェは跳び出した。男の方へ向かって。

 一体どこにそんな力が残っていたのか、ルーチェは素手で男を殴り倒した。骨が痛んで軋んでも、皮膚がめくれて手の平に血が滲んでも、殴るのをやめない。味方に襲われるとは思わなかったのだろう、男は不意を突かれて、あっという間に殴り殺された。男が息絶えても、ルーチェは力尽きるまで拳を振るい続ける。

 イズルも口を開けたまま茫然として、ルーチェをやめさせようとしなかった。しかし、首から流れる血の量が限界を超えたのか、ルーチェはばったりと倒れた。

 膝が笑い、上手く立ちあがれない。俺はカタロスに手を引いてもらいながら、恐る恐るルーチェに近付いた。奴にまだ息はあるが、長くはない。

 俺達がやってきた通路の方から、揃わない足並みが聞こえてきた。振り返るとミチザネ達一行だった。無論、その中にはルーシェもいる。

 遅かった。既にルーチェの命は失われようとしている。自分の目に飛び込んできたルーチェの痛々しい姿を見て、ルーシェは息を呑んだ。一目見て助からないと悟ったのだろう。彼女はなりふり構わずに、自分の片割れに向かって走り寄ってきた。

「お姉ちゃん!」

 そう叫びながら、ルーチェの元で足を崩し、跪いた。そしてルーチェの体を抱きかかえる。ルーシェの声が聞こえているのかいないのか、ルーチェは黙っていた。

 姉……?

 誰が?

 こいつが?

 姉……。

 ようやく俺が近づくと、ルーチェは震える口を小さく動かした。「誰?」と訊いているのだ。もう目が、うっすらとしか見えていないのだろう。耳も聞こえていないようだ。

 とっさに俺はその手を握る。いつだったかルーチェに手を握られたことがある。女のような指だと思っていたが、本当に女だったのか。あの時の感触を覚えていたらしく、ルーチェは手を握ったのが誰か分かったのだろう。俺の名前を呼んだ。もう声は出ていなかったけれど。

 そして、それが最後だった。意志を失った人間の体は重い。その変化に気づいたルーシェは、姉の体もろとも床に伏して、静かに泣いた。幼い頃に生き別れたままの姉となれど、やはり肉親なのだ。この世にたった一人、血を分けたもの同士。ルーシェはその片割れを永遠に失ってしまった。

 暫く喉をしゃくりあげながら泣いていたが、不意に顔を上げて、ルーシェは俺を睨みつけた。そして噛みつくように言った。

「説明しなさいよ」

 何があったのか。

 ……説明しろだって?

 俺にだって分からない。リゼルグは顔を伏せ、ミチザネもどこかよそを向いている。

 俺が黙っていると、イズルが淡々と説明してくれた。

「こいつが陰から俺達を狙ってたんだよ。それが、ルーチェは気にいらなかったみたいだな」

 そう言って、イズルは血の海に浮かぶスナイパーの死体を、親指で指し示した。そう、あの時の様子はまるで……

「かばっているように見えました」

 カタロスの言葉を聞いて、全員が一斉に彼の方を見た。

 そう、そうとしか思えなかった。ルーチェが俺を狙撃から守ったように見える。偶然ではなく、そう意図したような動きだった。

 あいつは、俺の背後にいる銃を構えた男に気づいて、とっさにかばったのではないか。そう考えれば、何故その後、男に向かって行ったのかも説明できる。

 けれど腑に落ちない。どうしてルーチェは、そんなことを……。

「心当たりがないって顔ですね」

 ミチザネが図星を指してきた。普段の余裕ある態度とうって代わり、厳かな表情と声だった。

「よくよく思い出しなさるがよろしい。彼女を弔う気があるのであればね」

 命に換えてまで庇われたのですから。そう続けて、ミチザネは黙とうを始めた。

 思い出せと言われるまま、俺は万密院で過ごした半年間のことを、記憶の奥底から掘り出していった。粗末に扱っていたせいで、所々荒いが思い出せる。

 冷たくあしらっていたのに、あいつはいつも俺に声を掛けた。物好きな奴だと思ったが人懐こいわけではなく、集団でいる時は、むしろ大人しいくらいだった。それを不思議に思ったものの、深くは追求しなかった。本当によく観察していて、食堂で出る飯に俺の好きなものが入っていると、「あげよっか?」などと言って、好物をフォークで指し示しながら笑顔を見せた。毎回断っていたけれど。

 そして、あの日の記憶が蘇ってきた。年の一度のお祭り、アインフェスト。仮装して、ルーチェと一緒に見回りをした。俺をパートナーを選んだのも、衣装を決めたのも、着飾る通り女たちを気にする素振りを見せたのも、全部あいつだ。そして、教会にある銅像を熱心に見つめていたのも。


 思い出したら、全ての記憶が繋がっていくのを目のあたりにした。どうしてルーチェが俺を執拗に追っていたのか、ずっと分からなかったが、ようやく理解できた。

 理由は簡単だ。俺に会いたいという、本当に、それだけだったのだろう。結果としてその行動は俺を苦しめたが、多分、あいつにはそんなつもりは無かったのだ。ただ、他にやり方が分からなくて、結局こうなってしまったのだ。

 エペの一人として、軍人としてしか生きたことしかないルーチェには、自分が何故そんな行動を取るのか、自覚さえ出来ていなかったかも知れない。分かっていれば、こんな回りくどい方法を取らなくて良かったはずだ。

 あいつには悪意が無かった。ただ、知らなかっただけだった。

 自分が何を望んでいるのかを。その為に、どうすればいいのかを。

 今それを理解した所で、ルーチェにかけてやれる言葉は無い。あいつももう、何も言わない。体はここにあるが、それは抜け殻なのだ。


 俺はルーシェに断って、ルーチェの体を抱きかかえた。じきに失われるぬくもりが、両腕から伝わってくる。

 そして思い出した。焼け落ちる教会の中、ルーチェに殺してくれと頼んだことを。

 俺は心底、ルーチェを恨んだ。

 あの時、殺してくれれば良かったのにと。

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