第五章 八十三話
その日の夜、時計の長針が二時を通り過ぎた頃、イズルはベッドの中から這い出した。同じ部屋で寝ているリゼルグとミチザネは、穏やかな寝息を立てている。キュッと首を締めてしまえば、すぐにでも聞こえなくなる消え入りそうな寝息だった。二人の瞼をめくって眼球運動を調べ、脈を測る。寝ていることを確信して、イズルは音を立てずに部屋の外に出た。足音を盗んで本殿の中を歩き回る。イズルが目指したのは、元首のプライベートルームだった。そこへ迷うことなく向かう。猫が散歩道を行くように軽快な足取りだった。
元首の部屋のドアは鋼鉄製だった。鍵穴は見当たらない。代わりに、人差し指程度の長さの細い溝があった。カードタイプの鍵を使っているらしい。イズルは上着の内側からトランプを取り出した。ただのトランプと違うのは、紙ではなく銀で出来ていることである。塗装で紙に似せてあり、画用紙のような厚さだが、冷えた手触りは間違いなく金属のものだった。
溝にカードを滑らせた後、もう一度同じことをしてみると、ドアは音もなく空いた。一度目で溝から鍵の情報を読み取り、二度目で読みとった情報を使って鍵に偽装させ、ロックを解除したのだ。人も草木も寝静まった夜の闇に紛れて、イズルは部屋に足を踏み入れた。
元首の部屋には扉が三つあり、その一つは寝室に繋がるものだった。鍵はかかっておらず、イズルがノブを回すと抵抗することなく開いた。天蓋つきのベッドの上で、シーツをかぶった元首が、寝息も立てずに横たわっている。イズルは風のようにさっと元首の傍に立った。眠っていることを確かめて、元首の耳元で囁く。
「自分から呼んどいて、それはないだろバアさんよ」
その後、何度呼んでも目を覚まさない元首を叩き起こして、イズルと元首は真夜中の茶会を開いた。イズルはそこで初めて、エペが探している少年と咎負いが、自分達とほぼ時を同じくしてイブリースに辿り着いたことを知った。元首は小さな欠伸をする。
「ちょっとひと眠りするだけのつもりだったのだけど、すっかり寝入ってしまっていたわ」
ごめんなさい、と言う元首に露骨な不機嫌さを見せつけながら、イズルは早口にまくしたてた。
「一応、俺は俺の仕事はしたわけだが、この場合はどうなるんだ?ちゃんと報酬は出るんだろうな」
「間違いなく。耳を揃えてお渡ししますわ」
その言葉を聞いて、いくらか腹の虫が収まったのか、イズルは一息ついてからぽつりと言った。
「そりゃどうも」
「むしろ感謝したいくらいですのよ。まさか、あなたがミチザネ……さんを連れてきてくださるなんて、思いもしませんでしたもの」
「偶然だけどな。連れていくかどうか迷ったぜ。えらい胡散臭い奴だからな。バアさんの知り合いだと知ってりゃ、変に疑わずに済んだわけだが」
「私だって、まさか彼があんな場所にいるなんて知らなかったんですもの」
ようやく口を休めて、盛大にため息をつきながら、イズルは姿勢を楽にした。椅子の背凭れに深く身を預ける。そして、ため息に乗せて呟いた。
「出来すぎてるぜ、全くよ」
「それは同感ですわね」
イズルが隠れ里の大老から命を受けたのは、半年ほど前の話だ。まず西の国にあるイブリースへ行き、元首に会えとだけ言われ、言われるまま船に乗ったのだ。砂の中で埋もれるように建っているイブリースへ辿り着くと、元首と名乗る少女らしい人物の前へ通された。大老曰く、彼女の依頼を聞き届けろとのことだったが、イズルはそれ以外、何も聞かされていない。
依頼の内容は簡潔で「万密院にいる咎負いの所在を洗い出し、可能なら連れ出すこと。いかなる手段を用いて構わない」とのことだった。これまでに何人も失敗して始末され、既に派遣された者も咎負いの所在を掴めないでいるという。そこで、影として名高い瀬戸の一族に声がかかったのだ。その中でも、隠密行動に一際秀で、更なる成長を期待されているイズルに白羽の矢が立ったという。
イズルはエペの入団希望者として万密院に潜入し、暫くはその一員として活動していた。捕らわれの咎負いを探しながら。しかし、咎負いが誘拐された(つまりリゼルグに先を越された)ことで話はややこしくなる。
指の先ほどでも構わない、何か手掛かりをと黄金の林檎へ足を運んだことで、状況は更に複雑になった。絡み合った電話線のようにもつれ合い、それでも最終的には、目的の場所に繋がることができた。
「結局、あんたは目的の咎負いをまんまと手に入れたわけだな」
「こういう形になるとは思いませんでしたけれどね。彼は、万密院が我々に対して持っている唯一のアドバンテージ。どうしても彼を、万密院という鳥籠から自由にする必要があったのですわ」
「俺は報酬を頂戴したらネーデル共和国辺りで羽休めするつもりだが、どうする?」
「追加で報酬をお出ししますわ。契約書もすぐに準備させます。彼らと……咎負い達と一緒に、エーギルの炎へ向かってもらえませんか?」
「信用できるのか?そいつらは」
「信用できるかというより、信じたいのです。彼らは信じられると思いたいのですわ、分かります?」
じっと元首に見つめられ、イズルも視線を投げ返す。しかし、先に瞳を逸らしたのはイズルだった。
「ま、亀の甲より歳の甲ってな。今回はバアさんの勘を信じてやるよ」
「素直ですわね」
「正直、俺だって分からねぇんだ。連中が信用できるかどうか」
そして、生きて帰ってこれるかどうか。
いつものイズルなら勝算の無い賭けには乗らないし、無謀な賭け方もしない。しかし、もう二度と揃うことが無いであろうカードの取り合わせを見て、チップを差し出したいと思ってしまったのだ。命をそっくり預けた、たった一枚のチップを。
こんな判断、正気ではない。そう思いながらも、イズルは契約書に血判を押していた。