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第五章 八十二話

 出発の準備をする為、俺達は客間を出て、宛がわれた部屋に向かうことにした。俺達に続いて外に出ようとしたミチザネを元首が呼びとめる。

「あなたはお待ちになって。少しだけ時間をちょうだい」

 俺やカタロス、フリードとルーシェは、誰ともなく顔を見合わせながら、黙って客間から出て行った。


※※※※※※※


客間の扉が閉じるのを見て、元首はほっと息をついた。ミチザネは椅子にどっかりと座り、足を崩した楽な姿勢を取った。時間をもらいたいと言いつつ、元首は黙っていた。二人揃って、互いの顔を見つめていた。

「お変わりないようですね」

 ミチザネの笑顔を見て、元首は目を細めた。

「あなたは少しやつれたわね。気苦労のせい?」

 元首は見た目に相応しい、少女のような喋り方をした。昔、本当に少女だった頃のように。

「あなたの所在は何度も探させたの。でも、どこにも記録が無くて。大陸にある全てのホテルの宿泊記録さえ洗わせたのよ。それでも、とうとう見つけることができなかった。もう、私だけになってしまったのだと思ってたのよ」

「あれから、一千と八百年ですか」

「光陰矢の如しって言うけど、思っていたよりも、時間の流れは速くなかったわね」

「一人で過ごすには長すぎる時間だ」

 一千と八百年。言葉にしてしまえば一瞬だ。

 ミチザネは思い出す。魔王と呼ばれた年端もいかない少女のことを。まだ人間として生きていたイーリスの剣さばきを。ふらっと現れて自分を拾い、和平後に、やはりふらっと消えた聖王のことを。そして……賢王と呼ばれ、四雄王の一角に身を置いていた自分のことを。

「ここへ来る途中、イーリスに会いましたよ。まだあの城に残っていました。覚えてますか?彼女そっくりのコッペリアを造ったでしょう?」

 元首は息を呑んだ。そして、静かに瞼を下ろす。記憶の断層に眠る化石となった思い出を掘り起こす為に。風化させまいと大事にしまってきた記憶だ。崩れないよう優しく拾い上げる。

「あの子は、私やあなたと違って人間として生きることを選んだわね」

「代わりに、自分の写し見を置いてくれと言ってね。まさか、アタシもまだ現役で動いているとは思いませんでしたけど」

「そんな彼女も、五十を過ぎた頃から剣を取らなくなったわ。衛兵達の稽古も弟子に任せるようになってね。晩年は庭いじりと馬の世話。時々、子ども達の話し相手。そんな感じだったわよ。戦場で鬼神として恐れられたのが嘘みたい」

「アタシは万密院の設立にかかりきりで、その後、すぐに研究塔の責任者になりましたから……。彼女が晩年どうしていたのか全然知らないんです。気にはなっていたのですが」

「元気だったわよ。いつも通りベッドに入って行って。明日も目覚めると本人も思っていたはずよ。でも、それっきっりだったの。どこも悪い所なんて無かったわ。寿命だったのよ」

「寿命ですか……。アタシとあなたには、もう一生縁がない言葉になってしまいましたね」

「神になり変わろうとして、いがみあった私とあなた。傲慢な私達二人が生き残って、みんないなくなってしまった。聖王も私が差し出した手を取らずに、何処かへ行ってしまったわ」


 元首は少しずつ、過ぎた日々のことを思い出していた。イブリースの元首を名乗る代わりに本名を捨てたこと。不死を得る代わりに人を捨てたこと。それよりも更に前、聖王達と共に旅をしたこと。

「あなた達と旅をしている時は散々な目にあったわね。半年も野宿したり、遺跡の中で迷って飢えて虫を焼いて食べたりね」

「あなたは最後まで抵抗していましたけどね」

 ミチザネがそう言うと、二人は同じタイミングでにっこりと笑った。

「あの頃の私達には何も無かった。お金も帰る場所も、もちろん永遠の命もね。その日暮らしをするのに精いっぱい。でも、見る物全てが新しかった。初めての土地、初めて会う人、初めて見る料理。初めて触ったヘリテージ。ずっと根なし草の生活をしていたのに不安なんて無かった。『次はどこへ行くんだろう』って先のことばかり考えてて。あなた達が一緒ならどこに行っても大丈夫だって思ったの。おかしいわよね。何を根拠にそう信じていられてたのか、自分でも不思議よ」

 元首は腕を曲げて、着物の袖をためつすがめつした。東の国で染め抜いた最高級品である。シルクのような手触りに思わずうっとりしてしまう。今の彼女は、望めばそれを何枚でも手に入れられるし、大陸有数の五星レストランのシェフを、いつでも呼び寄せることもできる。彼女の今の権限を以てすれば、手に入らないものなどほぼ無いのだ。

「あなた達と居た時の私には、何も無くて貧しかった。でも何故かしらね、みんなで一緒に居たあの時が、一番幸せだった気がするの」

 元首はもう笑っていなかった。彼女は着物の袖から人差し指を覗かせる。もう千年以上も前から変わらない、華奢な子どもっぽい指だ。彼女はその指で、空中にゆっくりと文字を書いた。それは「人間」と読めた。

「人は人間とも言うわね。何で、わざわざ『間』っていう字を足したんだと思う?多分ね、地球上の生物で唯一、『生と死』の間に自分達がいることを認識している生き物だからじゃないかしら。死ねば肉塊、生を受けない内は生き物ですらない。だから、その間から外れてしまった私達は、もう人ですらないわ」

 ずっと彼女は考えていた。人の形をしながら死の呪縛から解かれた自分を人間と呼べるのかと。

「永遠の命を手に入れた私達を、人は神にも近しい存在だと思うのかしら?いいえ、違うわ。永遠の命を得て手に入れた人生は、行きつく場所が無く、終わらない旅を続けてさ迷うだけ。これって、ただの亡霊よね。過去の姿のまま生き続けて、どこにも辿りつけない」

 それは、今まで誰にも聞かせたことの無い話だった。彼女は、それを語ることができる相手さえ、もういないと思っていたのだ。


 ミチザネは元首の言葉を見届けてから、一口だけ喉に紅茶を運んだ。温かい茶葉の味が臓腑に染みわたる。自分が生きているのだと実感できる。

 生きている、あるいは単に「死んでいない」だけとも言える。この二つはどう違うのだろう。ミチザネは静かに口を割った。

「それでも、前に進むしかないでしょう。進んでいる限り、またどこかで道が交わることもある。今のアタシとあなたのようにね。その足が、まだアタシ達にも残されている」

 ミチザネはリゼルグとイズルの顔を思い浮かべた。彼らが持つ、若さゆえの自信や不安。相手を疑い、それでも信じようとするまっすぐさ。ミチザネが遠い昔に通り過ぎてきたものを、彼らを見ていると思い出される。

「アタシと一緒に来た若い子達……出会ったのは偶然でしたけれど、一緒にここへ来れて良かったと思います。彼らを見ていると、若い頃の生意気な自分を思い出すこともありますが、教えられることもある。アタシ達には時間があります。永遠に等しい時間がね。ゆっくり決めればいい。これからどこへ行くのか決める時間も、そこへ向かう為の為の時間も、いくらでもありますから。やり直すことだって、やろうと思えば、いつでも何度でもできる」

 ミチザネの言葉を聞いても、元首はすぐに反応できないようだった。まばたきもせずに、じっとミチザネを見つめる。

 そして――ミチザネと再会してから初めて、元首はくすりと声を立てて笑った。

「全くもって、気の休まらない人生ね」

「終わらぬ生を持つ者の定めですよ。生きる限り問い続ける。何をすべきか、どこへ行くのか、どうやり直すのか。時間の制約を受けないアタシ達だけが、真の意味で、自由に決めることができる」

「気の遠くなるようなお話だわ」

「イーリスの言葉ですよ。古城に遺された写し身ですがね。彼女がそう言ったんです。道は歩いた後にできる。まずは歩かねばと」

 その言葉を聞くと、元首は口を結んで固まった。


 元首は何度もまばたきをする。やがて口を開こうとしたが思いとどまり、代わりに目を閉じた。すると、瞼の裏にイーリスの顔が浮かび上がってきた。それは初めて出会った時のイーリスであったり、元首と共にここへ残ることを決めた二十代後半の彼女であったり、みなしご達に絵本を読み聞かせる晩年の彼女の顔でもあった。とめどなく、イーリスとの記憶が目の前を通り過ぎていく。

 どの時もイーリスは手を差し伸べてくれた。しかし、彼女は甘えることを許さなかった。元首に対しても、弟子に対しても、子ども達が粗相をした時もそうだった。

 おそらく、彼女自身がそういう人間だったからなのだろう。自分の決断に責任を持つ覚悟、ありのままの自分を認める潔さ、そうしたものを自分に求めたし、他人にも求めていた。そして彼女には、いついかなる時でも、他人に手を差し伸べられる強さがあった。

 いつでも気がつけば、目の前にイーリスの手があった。倒れ地に伏しても、いつかまた起き上がる為に。

「……確かに、彼女がもし生きていたら、そう言ったでしょうね」

 元首はかぶりを振った。

「そう……彼女なら、きっと……。今の情けない私を許さないわ」

 元首は瞼を上げてミチザネを見つめた。

 彼女の眉が口が目尻が、ふっつりと糸が切れたように崩れた。

「ありがとう……」

 顔を伏せて、元首は袖で顔を覆った。頬を伝って袖を濡らす涙は温かい。まだ、自分が生きているだと実感させてくれる。

 ミチザネが元首に向かって、枝のようにしなった手の平を差し出す。肩にそっと添えられたミチザネの手からも、同じようにぬくもりを感じられた。

「ありがとう……」

 うわずった元首の声を聞き、彼女の濡れた瞳を見て、ミチザネは優しく微笑んだ。

「あなたに会えて……会いに来てくれて……」

 ありがとうと繰り返して泣き崩れる元首の肩を、ミチザネはそっと支えた。彼女の気が済むまでずっと。

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