第4章 七十八話
リゼルグの腰には剣が差してある。イズルと万密院を出てからは一度も使っていない。イーリスはリゼルグの剣を見た。
「私がまだ人間であったなら、手合わせ願いたかったものだ」
拳を振り上げれば象を気絶させ、一蹴りすれば壁が割れる。そんなオートマータ相手に決闘など望むべくもない。
「最初は、ただ言われるまま剣を握ったんだ。好きで覚えたわけじゃないんだ」
リゼルグは自分の手の平を見つめる。
「この剣だこだって、勝手についたものさ」
「それとて才能だ。人が言うことに素直に従える、無邪気さというのもな。私には、興味の無いことを一秒だって続けられる自信がない」
「そんな立派なものじゃないよ。ただ、何も考えて無かっただけさ。剣を握るのは好きじゃなかったけど、他にすることが無かったから」
リゼルグの両親が課す教育は、どれもリゼルグの関心を引かなかった。それでも、成人するまでは無心になってやることができた。言われるままに動くことができたのだ。
それに、リゼルグは大抵のことを及第点でやり遂げることができた。秀才ではないが、頭も手先も器用だったのだ。しかし、彼が課せられた以上のことをすることは無かった。デッサンの授業もそつなくこなしたが、授業以外で筆を取ることは無かったし、訓練以外で剣を振るうことも無かった。
決して無能ではないし、できることが無かったのではない。ただ、やりたいことが無かったのだ。
リゼルグはイーリスの剣を見つめて言った。
「イーリスは、どうして剣を覚えたの?」
「最初は、ただ必死だった。村を焼け出され、剣一本で生きていかなければならなかった。剣奴に身をやつした私を拾ったのが聖王だ。まだ彼が国を平定する前の話だ。私は彼とその仲間たちと共に、大陸を渡り歩いた。いつも、この剣と共にあった」
剣奴とは、闘技場で戦う奴隷のことである。フェンシングのようなスポーツと異なり、相手の命を奪うまで戦う。ライオンなど動物が相手の場合もある。どれほどの時間を剣奴として過ごしたのか分からないが、剣奴になった者が生きて闘技場を出るのは、並大抵のことではない。人間であった頃から、彼女の強さは健在だったらしい。
「剣は人に対して使えば凶器だが、人の為に振るえば盾となる。聖王と旅をして知ったことだ。それまで私は、ただ目の前の敵を斬ることしか知らなかった」
今日まで研ぐのを欠かしたことが無いのだろう、イーリスの刃は鏡のように光を照り返している。
「君は、ここを出たらどうする?」
イーリスは何の気なしに聞いたつもりなのだろうが、リゼルグは何も言えなかった。
直近の目的として、イブリースに向かうのだが、その後は何をしよう?もし問題が丸く収まったとして、その後は万密院に戻るのか?戻れるだろうか?いや、そもそも、あの場所へ帰りたいのだろうか……。
「見た所、その服は軍服のようだが、君はあまり軍人らしくない」
「実家から勘当されてね。自分から飛び出したんだけど、その後どうするか、全然考えてなかったんだ。運よく今の武隊に拾ってもらえて、そのまま居続けてるだけだよ」
リゼルグはクロスラインの名を捨てれば自由になれると信じていた。しかし、檻の中で育った鳥に空は広過ぎ、大地は険しかった。身を立てる術を知らず、身元さえ捨てた彼に出来る仕事は、そう多くない。彼は盗賊の一味に加わったが、そこでさえ落ちこぼれた。
彼の出家は自由への解放ではなく、ただの現実逃避だった。自分は「自由」という言葉に夢を見すぎていた、と自覚した頃には、もう遅い。前に進めず立ち尽くし、後に戻ることもかなわなくなっていた。
「馬鹿みたいでしょ?僕は外に出るまで、本当に何にも知らなかったんだ。自分には何もない、何もできないってことさえ」
「物腰や話から察するに、君は良家のご子息だったのではないか?何故、家を出る気になった?」
イーリスは、リゼルグをまじまじと見つめながら言った。あれだけ拒んでいた家での振舞いが、今もまだ自分の中に息づいているのだと、自覚させられる。
「兄貴が家を出たんだ。僕には兄弟がたくさんいるんだけど、その人は一番歳が近くてさ。家を出た後に一度だけ、こっそり会いに来てくれたよ。一人で始めた事業がようやく軌道に乗ってきて。ろくな食事をしてないし、狭いあばら屋で寝起きしてて、あまり眠れていないはずなのに……すごく楽しそうだったんだ。単純でしょ?兄貴が羨ましかったんだ、僕は」
「しかし、その功績も一日にして成るものではあるまい」
「兄貴が会いに来たのは、家を出てから一年くらい経ってかな。その間、すごく苦労してたはずなんだ。あの時の僕は、そんなことにも気付かなかったけど。ただ、目の前の兄貴を見て、自分も家を出たいって思ったんだ」
「兄上殿が家を出た時、彼はどんな気持ちだったと、君は考える?」
「え?」
気がつくと、イーリスは眉尻を跳ね上げて険しい顔つきをしていた。
「兄上とて、最初から事業が成功すると確信していたわけではあるまい。彼もまた、自分の腕一つで身を立てる必要があった。兄上の手腕は確かなようだが、彼もまた、ゼロから始めなければならなかった。彼もまた、まだ何者でもなかったし、何かできるわけでもない。最初は無力だったはずだ」
兄テオドールは家を出る時、何を考えていたのだろう。そんなことは分からない。一つ確かな事は、彼に「事業を起こして成功させてやる」という意志があったことだ。
「君に足りないのは力ではない。覚悟だ。覚悟が無いから決められない。行動できない。現状も変えられない。覚悟を決めれば、自然と人は力を身につけようとする。失敗しても、やり直すことを考える。覚悟があれば、その意志を引きだせる」
「諦めるな、ってことか……」
「まだ誰も諦めていない。君が決められずにいるだけだ。君は、いつまでも決定を先送りにしている」
「……何も言い返せないな」
リゼルグは力なく笑った。イーリスは笑っていない。しかし、先ほどの険しさは影を潜め、リゼルグの言葉を待っているようだった。転んだ子どもに手を差し伸べず、じっと見守る親のような瞳だ。
「本当に何も言えないや」
リゼルグはもう一度笑った。
「今は、まだ」