第4章 七十七話
穴の底に叩きつけられたイーリスとリゼルグの目に、大量の埃が覆いかぶさった。先に体を起こしたのはリゼルグだった。イーリスがリゼルグの下敷きになったのだ。彼女は穴へ落ちた後、穴の中の壁を蹴って加速し、リゼルグよりも早く落下したのである。
尻の下にイーリスの背中があることに気付き、リゼルグは慌てて跳びのいた。しかし、イーリスは気にする様子も無く、傍らに落ちていた帽子を被り直した。まだ暗闇に慣れず手探りで前へ進むリゼルグと違い、彼女は目をつぶっていても歩けるとばかりに堂々と進む。どうやら、彼女には暗闇の中が見えているらしいのだ。
ふとイーリスが立ち止まって壁に手をやった瞬間、灯りがついた。電灯である。一千と八百年前、既に四雄王は、闇を自在に操っていたらしい。思わず目を顔を手で覆うリゼルグを見て、
「すまない。目を傷めたか」
そう一言こぼして、イーリスはリゼルグに歩み寄った。イーリスの目は、急激な光の変化にも動じない。やはり、彼女は人間ではないのだ。リゼルグは手を軽く振って「大丈夫さ」と意志表示する。イーリスはリゼルグの目が慣れるのを待ってから、先を行くことにした。
「出口までは十分ほどだ。気をつけろ。決して、私より前へ出るな」
道案内をイーリスに任せ、リゼルグは黙々と彼女の後をついていった。すると、すぐ地下水路に突き当たっった。向こう岸まで十メートルほどあり、飛び越えることはできそうもない。川を歩いて渡るしかない、とリゼルグが腹を括った瞬間、くるりとイーリスが振り返った。
作り物だと分かっていても……まるで意志を宿したように動く青い瞳にまっすぐ見つめられて、リゼルグは思わず身が固まった。澄んだ美しい瞳が、リゼルグを映しながら近付いてくる。
そして、彼女は何も言わずにリゼルグの膝の下に腕を入れて、彼を持ち上げた。丁度、花嫁抱きの格好である。リゼルグを抱きかかえたまま、イーリスは少しだけ後ずさった。慌てて、リゼルグは身をよじりながら叫ぶ。
「待って!下ろして!まずいって!」
リゼルグは抵抗を試みたが、
「舌を噛むぞ」
鋭くそう言われて、思わず口を閉じた。同時に、イーリスは彼を抱えたまま地面を蹴った。リゼルグは固く目をつぶる。
リゼルグはイーリスに抱えられたまま、川を飛び越えた。イーリスの跳躍は、リゼルグが瞬きをしたほんの一瞬の間に終わった。二人は水滴一つ浴びることなく渡河に成功した。イーリスの関節は頑丈で、背が高いリゼルグを抱えて着地しても何ともないようだった。腰が抜けてしまい、腕に抱えられたまま茫然としているリゼルグを見て、イーリスは首をかしげた。リゼルグはイーリスの顔を見ながら力なく笑い、振り絞るように言った。
「君には驚かされっぱなしだよ。初めて会った時から、ずっとね……」
ようやくリゼルグは、よろよろと地面に足を下ろして、その場にへたりこんだ。リゼルグが立てるようになるのを待つ為、イーリスは壁に背をもたせ、見るとなく正面を見つめた。
「せめて、おんぶの方が良かったなぁ……」
捕らわれの姫の如く、抱きかかえられた自分の姿を思い出して、リゼルグはげんなりし。珍しく、イーリスが呆れたように言う。
「たとえどんな格好でも、君は断固拒否したと思うがな」
イーリスが何も言わずに手早く事を済ませたのは、彼女なりの気遣いだったのかも知れない。リゼルグは、そう思いこむことにした。二人で深い闇の中を進むと、やがて風の吹く音が聞こえ始めた。
「出口が近いのかな?」
「いや、かまいたちだ」
「は、カマイ達?」
「有り体に言えば、疾風の刃のことだ。くらえば一瞬で死ねる」
イーリスは右腕でリゼルグを制した。
「壁や床から、かまいたちが時間差を置いて吹き出してくる。私が伏せろと言ったらしゃがんで、飛べと言ったら力いっぱい跳躍する。あとは全力で走れ。できるか?」
「……仰せの通りに」
リゼルグが頷いてみせると、イーリスは駆け出した。彼女の鋭い声に先導されて、リゼルグは必死で走り抜ける。七つ目のかまいたちを避ける時、一瞬が反応が遅れたイーリスの頭から帽子が吹き飛んだ。慌ててリゼルグが拾い上げようとすると
「飛べ!」
鋭い叫び声が聞こえたが、リゼルグはすぐに飛べなかった。つんのめりかけた所を、容赦なく真空の刃が襲いかかる。
そのままナマス斬りに……とはならず、引き返してきたイーリスに腕を引かれ、そのままリゼルグは進行方向へ放り投げられた。
「わああああ!?」
十メートルほど投げ飛ばされたが、なんとか受け身を取る。どうやら、ここが最後のかまいたちだったらしく、もう恐ろしい風の音は聞こえなかった。
慌てて身を起こしたリゼルグの目に映ったのは、腕をかばいながらこちらに向かってくるイリースだった。腕の傷口からパチパチと火花を上げている。リゼルグは慌ててイーリスに駆け寄った。イーリスは顔を上げる。
「そんな物の為に……」
そう言って、イリースはリゼルグの手を見つめた。そこには、投げ飛ばされても決して手放さなかった、イーリスの帽子があった。
「ごめん」
リゼルグは詫びながら、イーリスの頭に帽子を載せた。
「今やらないともう一生取り戻せないって思ったら、手が伸びてた」
「こんなもの、命に比べれば安いものだ」
イーリスは歩き出す。そして、そのままリゼルグとすれ違った。先を急ごうとする彼女の背中を、リゼルグの声が追いかけた。
「その帽子、よく似合ってるよ」
「……目覚めた時から被っていたものだ。いつから被っていたのかは知らない」
「君を作った人のことは知らないけど。帽子は多分、その人からもらったものなんだからさ、大切にしないと」
リゼルグの声に腕を引かれたように、イーリスは立ち止まった。
「思考は再現できない。命はいつか壊れる。でも、物は残せる。こうやって、君が誰かに望まれて生まれてきたっていう証拠をさ」
そう自分で言った言葉が、思わず胸に刺さった。リゼルグ自身は、とうとう誰にも望まれないまま、生まれた家を捨てたのだ。彼はイーリスを羨ましくも思うが、人ですらない彼女に感傷的な説教をする自分に、少し嫌気もした。
イーリスは、きつく帽子を被り直した。そして前を向いたまま、リゼルグに問いかける。
「出口まであと五分ほどだ。行けるな?」
「……仰せの通りに」