第4章 七十二話
確実に近づいてくる「それ」の姿は、すぐに知れた。思わずリゼルグは目を剥く。イズルは怪訝そうに眉を顰めて、更にナイフを二本取り出した。
それは少女の面影を残した、二十歳になるかならないかくらいの女だった。ハンチング帽から覗くネイビーブルーのショートカット、髪と同じ色をした大きな瞳。とても身軽な格好をしていた。ショートパンツを履いて、その小さな体をマフラーとブーツに包んでいる。
彼女は腹に受けたはずのナイフを抜かずに、一定のリズムで近づいてくる。腹をかばったりせず、むしろ刺さったナイフに気づいていないかのように歩いていた。
「!待って……」
イズルの殺気に気づいたリゼルグの叫びも空しく、女の両膝に、容赦なく二本のナイフが突き刺さった。迷い無く投げられたナイフは、正確に女の膝を貫く。
それでもなお足を踏み出そうとした女は、よろけて前のめりに倒れこんだ。そこで、ようやく気づいたように膝のナイフに手をかける。
「どうなってんだ……」
舌を打ちながら呟くイズルに、リゼルグはブルブルとかぶりを振った。
どこにナイフが刺さっても……女の体から血は一滴も流れなかった。
「止まりなさい」
一言一句、丁寧にミチザネが言うと、女はナイフを抜こうとした体勢のまま静止した。息も止めてしまったのかと思えるほどじっとしている。まるで意志を失って死んだかのように。ミチザネは女に近づこうとした。
「よせ!」
イズルが言葉で制したのを無視して、ミチザネは女の傍でかがみこんだ。しげしげと女の顔を見つめる。
「ふうむ」
そして、ミチザネは女の服の中へ手を入れた。そのまま両手で服の中をまさぐる。
「おいっ!!」
イズルは慌ててミチザネの傍へ駆け寄った。イズルは乱暴に、女からミチザネをひきはがす。
「何してんだてめぇ!」
「……忘れていました。彼女のことを」
自分を見上げながら怒鳴りつけるイズルのことは、てんで上の空で、ミチザネはぽつりと呟いた。
「コッペリア……。彼女は人の姿をした、意志なき機械ですよ」
ミチザネの言う彼女――コッペリアとは、この城を警備する為に配置された人型のオートマータなのだという。
「文献にも残っていましたが、何せ一千年以上前の話ですからね。まさか現存していて、今も動いているなんて思いもしませんでしたよ」
「どうやって動いてるんだ?」
「マギの力で動いています。地表には微弱ながら、常にマギが流れていますからね……。今この子は省エネルギーモードで動いているようです。」
そう言って、ミチザネはコッペリアの頭を撫でた。
「主の帰りを待って、今もこの場所を守っているのですよ。私達のことを侵入者と認識したようですが、攻撃して良いのか判断がつかず、とりあえず後をついてきたようですね」
「人の形をしてるなんて、趣味が悪いな」
「相手を油断させる為ですよ。かなり精巧にできていますからね。まさか機械だなんて思わないでしょう?」
そう、だからイズルとリゼルグは慄いたのだ。いくら傷を負っても倒れないホラー極まる姿を見て、ゾンビなのではないかと勘違いしてしまったのだ。
「そんなことはありえないと分かっていても、実際に見せ付けられたら認めるしかありませんからね」
「しっかし、よく出来てるな」
「会話もできますよ。けれど、この子の中身は回路とコードと、こぶし大くらいの動力炉と本体コアだけ。確か、この辺に制御盤があるはずです」
そう言って、ミチザネは再びコッペリアの服の中に手を入れた。
「これでアタシ達を味方と認識するはずです。本来は無線コントローラで指示を送るものなんですが、緊急用に、必要な機能だけ制御盤からも使えるようになっています」
確か設計図を見た時はこの辺にあったはず……。独り言をこぼしながらミチザネが手際よく操作をこなすと、コッペリアが、がくっと肩を震わせた。
「こんにちは」
ミチザネが声をかけると、コッペリアは顔を上げた。まるで人間のように瞬きをしながら、ミチザネを見つめて答える。
「ご機嫌麗しゅう」
「声まで人間みたいだな」
コッペリアの声は、凛としてよく通るが細い声だった。
「こっちの言葉が分かるんだね。ちゃんと返事してる」
「ええ、擬似人格があるので、独自の思考パターンも持っています。ただ人工無能なので、会話と言っても、設定されたパターンを返すだけですけどね」
「人工……何だって?」
「意志や感情を持たない、ということです。ただ、データベースに登録されている情報が膨大ですからね。かなり本物の人間に近い反応をしてくれます」
「疑似人格って言ったな?」
「ええ、この子のモデルになった人物とも言えます」
「じゃあ、こいつは本当に居た人間なのか」
「……おそらく」
それまでまじまじとコッペリアを見つめていたリゼルグだったが、にっこり笑いながらコッペリアに話しかけた。
「君の、お名前は?」
コッペリアはリゼルグの方へ向き直った。黒みがかったネイビーブルーの瞳でリゼルグを捕える。一千年も昔から変わらない澄んだ瞳だ。
「……イーリスだ」
イズルとミチザネは顔を見合わせた。
「こいつ、コッペリアって名前じゃないのか?」
「コッペリアっていうのは総称ですね。この手のオートマータは、みなコッペリアと呼ばれます」
「君はイーリス」
リゼルグはイーリスの手を握った。血が通わないせいかとても冷たかったが、機械の体とは思えない程柔らかかった。
「僕はリゼルグ」
リゼルグの顔を見上げながら、イーリスはじっとしていた。リゼルグの顔を記憶しているのだろうか。
「……承知した、リゼルグ殿」
「こうして見てると、本当に生きてるみたいだね。いや、生きていたんだよね……この人も」
「ええ、一千年も昔に」
イズルは万密院で習った先史の授業を思い出していた。
「正確には、一千年と八百年くらい前、か……」
リゼルグは背中がむずむずするような思いがした。彼女は予めインプットされた会話パターンを再生しているのに過ぎない。けれど、そんな彼女のどこかに、生きた人間らしい仕草や反応が無いか探してしまう。
リゼルグの複雑な表情を見て、ミチザネも困ったように笑った。
「形だけは、こうしてトレースできます。形を似せたものはいくらでもできる。でも、その意志や感情までは再現できない。それだけが、難しいんですよ」