第一章 七話
「ねぇ……」
ルーチェの声がした。奴は、開いた聖書を顔にかぶせて寝たふりをしている俺を起こそうと、近寄って来る。
「本当はこんなもの、読んでないくせにさ」
そう言ってルーチェは、聖書の隅をつまみ上げた。中庭の隅にある大樹の下で寝そべる俺。その横に、ルーチェが座る。
「明日、ここをならずの者が襲うらしいよ」
俺の狸寝入りに気付いているのかいないのか、ルーチェは淡々と語った。
「明日はゼーノ達が『ネフェリム』の発掘調査に向かう日だからね。その隙を狙ってるんだと思う」
ネフェリムとは、この街が神に焼き払われる以前、存在していたとされる人々の事を言う。神話の時代、空から降りてきた天使と人間との間に子どもが生まれた。
人間は、自分達の監視者である天使「グリゴリ」をかどわかし、彼らの知恵を得ることに成功した。その結果生まれたのが「ネフェリム」と呼ばれる巨人達だ。人間が天の智謀を得た証とも言えるものども。
男は武器を振るう力を覚え、女は男を誘惑する術を身につけた。神への信心は消え、街には略奪と姦淫がはびこるようになる。
それ故に神の怒りを買った。
「この間、大きな遺跡が見つかったでしょ?もしかすると、ネフェリムの中心都市だったかも知れない場所なんだってさ」
普段は子飼いの採掘家と護衛だけで済ませるものを、ゼーノ率いる第一部隊がわざわざ調査に出向くのはそのせいらしい。正確には、「指揮者がゼーノである」必要があったからだろう。彼はどんな逆境に遭っても揺るがない不屈の精神と、優れた策謀の持ち主だ。
「で、ゼーノの留守を狙った賊がここに忍びこんでくるってわけ。このタイミングは偶然じゃないと思う」
ルーチェは、一拍置いて、無言になった。
「この中に、スパイがいるのかも知れないね」
ルーチェの言葉を受けても、俺は寝そべったままだった。
「……で、上の判断は?」
「ゼーノが調査に向かうのに変わりはないよ」
ルーチェの歯切れの良い言い方に、うっすら瞳を開けた。ルーチェは笑っている。
「僕がいるからね」
こちらに向かって誰かが駆けてくる音がした。そして、軽い足取りに似合う声が俺を呼んだ。
「おいお前ら、もうすぐ昼メシ前の訓練が始まるぞ!」
ジェット・ガジェッティーノだった。エペの中にあって、彼の懐っこさは人目を引く。
「言われてなくても分かってるさ。今行くつもりだった」
立ち上がる俺を見て、ジェットは満足そうに頷いた。
「おし!じゃあ行こうぜ行こうぜ、なあ早く!」
散歩に連れて行けとせがむ犬のように、ジェットははしゃいだ。
「分かった分かった……」
俺はジェットに向かって一歩踏み出す。
ふと、背後から視線を感じた。
背中を這い回るような視線。どこか面白半分にこちらを見つめている。それがルーチェのものだとすぐに気づいて、俺は少しだけ背後を振り返った。
ルーチェは笑っている。うっすら微笑んで、俺とジェットを見つめていた。
翌日。賊が襲撃してくることはなかった。俺は、その情報源がどこから出回ったのか調査してみたが判然としない。
「それどころか、その話を誰も知らなかったっていう話だしな」
俺のベッドの上にジェットが寝そべる。ルーチェは留守だった。
「っていうか俺も、お前から聞くまで知らなかったんだけど」
続けざま、ジェットは「よっ」と言って身を起こした。そして表情に似合わない、緊張味のある口調でジェットは言う。
「となるとだ。あんまり呑気にもしてられないわな」
同感だった。ジェットは、俺と共にエペに送り込まれたスパイだ。俺もルーチェに聞くまで襲撃計画のことを知らなかった。デマの出所はルーチェだった可能性が高い。問題は、何故奴がそんな嘘をついたかということだ。
「気付いてるんじゃないか?ルーチェって奴、俺達の正体に」
ジェットの言う通りだった。ルーチェは俺達に揺さぶりをかけたつもりだったのかも知れない。するとそこに、疑問も生じる。
「だとすれば……どうしてルーチェはそのことを黙ってるんだ?俺達がスパイかも知れないことを、誰にも話していないのは何故だ?」
今の所、俺達に監視がついている様子は無い。手紙だって、検閲を通すが、出したり受け取ったりできる。夕方の散歩の時間にだって、自由に街中を出歩くことを許されていた。
「どうも嫌な感じだよなぁ……」
そう言ってジェットは寝ころぶ。シーツの上にあった枕が、奴の肩の下敷きになった。すかさず俺は警告する。
「おい、それは俺の枕だぞ。潰したりしたら承知しないからな」
「へいへい……・。お前って、実は綺麗好きだよなぁ。この窓の桟だって、毎週お前が掃除してるんだろ」
「実はって何だよ。それに俺は普通だ。お前がズボラなだけだろ」
「はいはい……」
そう言ってジェットは枕を抱きしめて寝転がる。潰れた枕が、ジェットの腕の中で窮屈そうにしていた。
「おい……」
俺は言おうかどうか迷った。しかし試しに、冗談っぽく、言ってみることにした。
「おい、殺すぞ」
ジェットは枕を抱えたままこちらを見た。ジェットは俺の能力を知っている。手を翳すだけで人の命を奪えることを。
不意にジェットは腕を伸ばした。ジェットの指の節々が、俺の頭に触れた。
「できないよお前には」
そう言ってジェットは、俺の頭を撫でた。
確か弟がいるのだと聞いた。だからなのか……慣れたような手の動きが、俺には新鮮だった。
「お前は殺したくて人を殺すような人間じゃないから無理だね。お前は犯罪者だけど悪人じゃないから」
俺はジェットの手をはねのけた。ささくれだった指が、潔く頭の上を離れる。そこへ追従してくるジェットの声。
「『その能力を持って生まれて良かった』って、思ったことはある?」
「別に……」
俺はこの能力のお陰で食いぶちを繋ぐことができる。暗殺者として生きていけるのも、この力のお陰だ。この力すら無かったなら、こうしてジェットに出会うことも無かっただろう。それが望む望まないに関わらずの、偶然の出会いだったとしても。
「……ごめん。変なこと訊いた」
そう言ってジェットは憂愁の表情を見せる。初めて見た彼のその表情が意外で、思わず息を呑んだ。
ボスッ。
瞬間、俺の顔に枕が命中した。
「ははっ、甘いなぁ」
なっ……!
「そんなことで俺がビビってると思ったら、大間違いだから」
そう言って、ジェットは再び腕を伸ばしてくる。
「触るな……!」
俺が抵抗を見せると、ジェットは楽しくして仕方がないと言わんばかりにニヤリと笑った。
そして、素早くベッドから倒れ込んできたジェットが、俺の脇腹をくすぐる。
「くそっ!」
なんとか向こう脛を蹴りあげてやると、ジェットは思わず俺から手を退いた。
「いってー!にゃろう!」
自分から仕掛けてきたくせに――。そう言う暇もなく、俺達は床の上を転げ回ってどつきあった。
数分後。肩を怒らせて息をする俺を見て、ジェットは笑った。
「はは!ひでー顔!」
こいつ……・本当に殺されたいか。口元を拭うジェットは、俺を見て満足そうに言った。
「取っ組み合いの喧嘩なんて久しぶりだな。小さい頃は、よく兄弟喧嘩もしたけどな」
ジェットの家は三兄弟だそうだ。ジェットはすっくと起き上って、俺に手を差し伸べた。
躊躇ったがその手を取ることにした。ジェットの柔らかい手の平を握って、背中を起こす。
「まぁ、また暴れたくなったら、いつでもお兄さんに言いなさい」
そう言ってジェットは部屋を出て行った。ちゃんと閉めろと言っているのに、今日もドアを半開きにしたまま帰って行った。
「ったく……」
何がお兄ちゃんだ。俺はふと、ジェットに握られた手の平を見返してみる。
まだ手に残っている感触は暖かった。この後、差し伸べられるメレグの手の冷たさを思えば、なおさらだった。当時の俺は、そんなことを知る由もなかったけれど。
俺とカタロスが揃いでアパートに戻ると、ドアの前に誰か居た。俺が身構える前に、そいつは澄ました声音で声をかけてくる。
「こんばんは」
オールド・ワンだった。しかし、その表情にいつもの気安さが無い。カタロスも奴から尋常でない気配を察したようで、横に並ぶ俺に不安げな視線を寄越す。
「君たちと一緒に来てほしい所があるんだ。急を要するものでね」
いつも悠然しているオールド・ワンの「急を要する」という言葉と、否定を許さない強い口調。俺は横にカタロスを並べて、オールド・ワンの案内する場所に向かった。
そこは見慣れた場所だった。階段を上がり、ノックをして返事を待たずに扉を開ける。
「メレグちゃんは奥の部屋にいるよ」
そう言うオールド・ワンの先導で、カタロスと一緒にメレグ診療所の奥に向かった。
そこは今まで一度も入ったことがない部屋だった。入ったことが、あるはずが無かった。
部屋に置かれたベッドの前にメレグが立っている。
「では、これから報告させていただきます」
俺とカタロスは、並んでベッドの端に立った。
「……よろしいですね?」
メレグの透き通った声に相槌だけ返す。
そして久し振りに対面する、死体となったジェットを、俺はしげしげと観察した。
一年半もあれば、この年頃の少年はあっという間に変わる。しかし良く見れば、変わったのは髪型と身長だけで、表情は変わっていないように思えた。きっと、中身だって変わっていなかったのだろうと、なんとなく想像する。
「ジェット・ガジェッティーノ。本人で間違いありません」
ここはメレグ診療所の遺体安置室。ジェットの検死をしたのはメレグだという。だとすれば、その言葉を信じるしかなかった。彼女は、腕は確かなのだから。メレグはジェットの身体にかぶせたシーツに手をかけた。
「ご覧になりますか?あまり趣味のいいものではありませんが」
話は既にオールド・ワンから聞いていた。ジェットの身体に、二目と見れない拷問の痕が残っているのだと。
「顔だけは傷つけられなかったのが不思議です」
そう言う静かなメレグの声。確かにその通りだろう。けれど、俺には想像できていた。きっと、どんな拷問を受けても――ジェットは笑っていたのだろう。俺の記憶に残る、あの無邪気な笑顔で。執行人達も、あの笑顔だけは傷つけられなかったのだ。
哀れに思えたからではない。恐ろしくなったからだ。
どれ程傷つけても、決して口を割ろうとしない彼の意志と、自分達をを見つめるまっすぐな視線とに。最期までジェットはそう在ったのだろう。この穏やかな表情が、何よりの証拠だ。
ふと思い出した。以前、一度だけ考えてみたことがある。もし俺がジェットより先に死ねば、彼の言うとおり、こいつが俺よりも「お兄さん」になることもあるのだろうと。
その機会は永遠に失われた。
「では、検死の結果を報告させていただきます」
メレグの声が淡々と続ける。俺は横に並ぶカタロスの視線を感じた。カタロスは俯き加減に、身を切られるような顔をしてこちらを見ている。
何故そんな顔をするのだろう。目の前にいるこの男は、お前にとって赤の他人なのに。その表情は、誰に対するものなのだろう?
ジェットか、あるいはジェットを失った俺に対するものなのか。
そんなものはいらない。
この世界に生まれ、この職業で生きていくことを選んだ時から、それは必要のないものだった。
俺もジェットも、果たされない約束はしない。
だからあの時――ジェットの「また言いなさい」言葉に答えなかったのだから。