第四章 六十九話
元首は棟の北側、日の当らない廊下の突き当たりにある階段を目指す。小さなランタンという心もとない灯りを頼りに、俺達は薄暗い階下へ進んだ。
まるで牢獄のようだった。狭い通路に鋼鉄製のドアが並んでいる。覗き穴がついたドアの前で、元首は俺達を振り返った。
「いきなり大声を出したりしないでくださいね」
と、不穏な前置きをして、元首はドアを開いた。
暫くは何も見えなかった。部屋の中は蝋燭一本無い闇だった。徐々に目が慣れるのと同時に、床の上で何かを引きずる音が聞こえてきた。後ずさろうとする俺を元首が制した。
「大丈夫、襲って来たりしませんわ」
何だろう、あれは。
まるでドブのようだった。大きさはワインの樽くらいだろうか。それが、壁伝いにズルズルと這っている。
「こちらに気づいたようですわ」
すると、ドブの中からヌッと突きだすものがあった。三又に別れた槍のようなそれを、俺達に向けながら方向転換している。
「マギには物の形状を変化させる特性を持ったものもあります。それを活かせないか、万密院は考えたようです。たとえば、水たまりに変身して屋内に忍び込む、とか」
ドブは更に、こちらに触手を伸ばそうとしてくる。身構えようとした俺を、元首が優しく窘めた。
「訪問客なんて珍しいから、あなた方の顔をよく見ようとしているだけですわ」
あの触手は、もしかして目なのか。まるでカタツムリのような……。
「この子は『成れの果て』ですわ。いえ、『何も成れなかった結果』というのが、正しいかも知れません」
……まさか。そんな。
「捨てられていたのです。この子もまた、先ほど部屋で見た子ども達と同じように」
生きている、のだろう。こんな姿になっても。人間で言うと何歳くらいなんだろうか。
いや、今も人間なのか?
これは、人間と言えるのか?
三又に分かれた目で、俺を見つめている。
「この子は光を嫌いますの。こんな所に閉じ込めておくのは可哀想ですけれど……」
この地下にあるドアの奥全てに、こういうものが居るのだろうか?元首は言うに、マギの特性の中でも、とりわけ姿や性質を変える「変容」という操作が一番難しいのだという。「変換」は既に存在するもの同士を入れ替える操作だが、「変容」は一から構成し直すので格段に困難なのだと。
特に生き物の場合は、どのような操作をすれば予測通りの結果にするのかを計算するのが難しく、また、操作に失敗した時、何に変わってしまうのか分からないのだという。
声が聞こえてきた。隣の部屋からだろう。鳥の鳴き声のように鋭い。
ドブがいる部屋から出て振り返った時、ドアの覗き穴から何か出ている部屋があることに気付いた。
見ている、俺達を。四つの目で見つめている。
「人の来るのが、珍しいからですわ」
と、元首が言ったきり、誰も口を利かなかった。
階段を上って廊下に出てすぐ、俺は横になった。情けないことにカタロスに抱きかかえられながら、ルーチェに似た少女が持ってきた水を飲む。腹の底で泥のように沈んだ気持ち悪さは、長く居座ってなかなか消えない。
意外にもカタロスは冷静だった。ふと見上げたカタロスの顔は今までになく険しく、思わず俺は視線を逸らしてしまった。例の子ども部屋まで引き返し、その隣の部屋で、元首が話の続きを始めた。
「当事者であるあなたに、全てお伝えしておかなければ、と思ったのです。あなた、私の横にいるこの子に見覚えがあるようですね?」
いつ切りだそうかと思っていた所で、いきなり話の矛先を向けられた。そう、ルーチェによく似たこの少女……。歳も同じくらいだろう。少女は、ルーチェと同じ声で言った。
「多分あなたが会ったのは、ルーチェって子でしょ」
予測していたものの、その名前を聞いて俺は肩を強張らせた。
「あたしはルーシェ。ルーチェの妹よ。もうずっと会ってないけど、多分、今もあたしと同じような顔をしてるんでしょうね」
「万密院で行われていた双子の実験、その被検体のひと組が、ルーシェ達だったのです」
万密院は、様々な条件で双子の実験をしたという。同じ遺伝子を持ちながら違う環境で育った場合、性別が違う場合、それぞれに別の能力を与えた場合……。恐らく、リムジェミニ量産に向けた実験だったのだろう、と元首は言った。
「任意の能力を発現したリムジェミニを量産できれば、最早人類を支配できるようになったと言っても過言ではありませんからね」
ルーシェとルーチェは使い物にならないとみなされたのだろう。二人は捨てられたわけだが、ここで思わぬ事故が起こる。
「使いの者達が、捨てられていた子ども達を連れてイブリースに戻ったのですが……。途中、列車が事故に遭ったのです。そこで亡くなったり、救助されたり、あるいは、連れ去られたりして、何人かの子ども達が居なくなりました」
イブリースの応援が来た時、既にルーチェの姿は無く、ルーシェもいなくなっていた。少年兵として男を装いながら戦っていたルーシェを保護したのは、つい三年ほど前のことだと言う。
「万密院で生まれた子どもはみな、タグを体内にプラントされるのです。名前、形式番号、生年月日、諸々の情報が埋め込まれたタグを。名札をぶら下げて生活するよりはその方が楽ですし、ずっと正確に管理できますから。タグの読み取りには専用のオートマータが必要になりますけど」
ルーチェが再び万密院に舞い戻ることになった理由は分からない。矢張り誰かに拾われたのだろうか。
「もう、お気づきでしょう?」
元首は、じっと俺を見つめる。はぐらかしたり、冗談を言ったりするのが許される空気では無い。まるで、逃げ道を塞がれたような気分だった。
何に?何から逃げる――?
「あなたの能力は人ならぬ力。自然に発現するものではない。キンドルガルテンに住む者達のようにネフェリムの末裔であるか、意図的に発現させられたか。どちらかです」
俺だって、考えないわけではなかった。というより、薄々感じてはいた。
確信したのは、フリードの能力を知り、遺跡で数々のトラップを見た時だ。人ならぬ力を持った者が複数いるということ。そして、万密院で人工的にマギテックが作り出されていること。
それと気付かれずに人を殺す能力。どう考えても、あつらえられた能力だ。自然にそんな人間が生まれるはずは無い。
「先日の検査ではっきり確認できました。およそ十六年前、生まれるのと同時に体内に埋め込まれたタグ。今もあなたの体の中に、残っていましたわ。あなたの出生を証明するのが、万密院のこしらえた小さい板きれというのは皮肉かも知れませんけれど……おかげで、あなたのことがかなり正確に分かりました。母体出産で生まれたようですね。覚えていませんか?小さかった頃のことを」
「記憶にあるのは、体が吹っ飛ぶ勢いで列車が揺れたことだけだ。その前も後も、よく覚えていない」
本当に覚えていないというのもあるし、わざわざ覚えるまでもない、似たような毎日を送っていたというのもある。カムラッドの門を叩くまで、盗みをしたり、生きずりの旅人から身ぐるみはいだり、俺に出来る生き方は限られていたのだから。
列車に乗るまでのことも……あまり覚えていない。幼かったのだろう。事実、元首が言うに、当時のイブリースの記録によると、俺はまだ三歳の幼児だったそうだ。唯一話せた言葉は自分の名前だけだったと言う。
「そうでしょうね。覚えていたのなら、もっと早く思い出したでしょうから。生まれた年代的には、ルーシェ達と同じなので、彼女達のことは兄弟と言えますね」
「俺は何も覚えてない。意味の無いことだ」
「そうでしょうか。たとえお互い気付かなかったとしても、同じ場所で生まれ、同じ場所で過ごした人間がいるということは、幸せなことだと思いますわ。ここでまた出会ったことも、何かの思し召しかも知れません」
誰が何を思召したというのか。ジェットが死んだこと、イブリースへ行きついたこと、恐らくルーチェに再会するであろうこと、カタロスと出会ったこと……。誰が何の為に、こんなことをするんだろう。
「あなたはここで育ったわけではありませんから、こんなことを言われても、嬉しくないかも知れませんけれど」
元首は、隣部屋で子ども達と居た時と同じように、顔をほころばせて言った。
「お帰りなさい。我が同胞よ。あなたの帰りを、ずっと待っていました」