第四章 六十五話
少年がベッドで目を覚ました時、見知らぬ女がスープを運んできた所だった。少年は自分が何者なのか、それまでどのような生活をしていたのか、全く思い出せなかった。
女は何も訊かなかった。ただ、少年の額に載せたタオルを黙って取り換えた。
女が住む小屋は「墓場」と呼ばれる森の中にあり、少年は森の前で行き倒れていたという。雷が鳴りやまない嵐の夜のことだった。
女は何も訊かない。女は少年に狩りの仕方を教え、冬の寒さをしのぐ毛皮のコートを少年に与えた。春が来た時は、森に生える野草を取りに出かけ、少年は黙ってついて行った。この草は煮込んでスープにできる、これは手に触れることすら危険だと、少年を傍らに女は語った。
女は何も言わない。けれど、女は少年を傍に置いた。
少年にも、過去を思い出そうとしたことがある。けれど、過去のことを思う時間より、女の背を追っている時間が増え、いつの間にか過去を思い出したいと思わなくなった。女が死んだ後も。
生前、女は少年に銃を授けた。狩りで使っているものと違う、ハンドガンと呼ばれるものだ。身を守る為に使えと、一度だけ少年に使い方を教えてくれた。
もし必要なら、人に向けて使いなさいと。女は病床に伏せったまま、そう言った。
少年が語った過去はたったこれだけで、五分とかからなかった。
女が何故この森で生活していたのかは分からなかった。もしかすると彼女は「墓守」だったのではないか、ゲヘナの生き残りだったのでは?そう考えるのは不自然じゃないが、なにせ真相は藪の中だ。
少年がネフェリムのクローンなのは間違いない。女は少年を同胞だと思って、世話をしていたのかも知れなかった。
少年に名は無いと言う。女につけられた呼び名はあるらしいが、俺達がそれを知ることは無かった。
「ずっとここで生活するつもりですか?」
人の訪れの無い寂しい場所だからだろう。カタロスがそう訊ねると少年は訝しんだ。
「他にどうしろと?」
迷う必要があるのかと問い詰めるような、躊躇いの無い答えだった。
「外の世界には、あなたと同じような力を持った人達の集まる場所もあるんです」
そう言って、カタロスはフリードを一瞬見遣る。
「ここでの生活に不満は無いでしょう。大切な場所だということも分かります。けれど……」
「俺は、他に生き方を知らない」
鳥籠の鳥は檻を空け放たれても、飛び方を知らないから空を飛べない。こいつは、それと同じだ。
空があっても飛べない鳥は、地上から空を見上げるだけだ。
少年の気勢に圧されて、カタロスはすっかり黙ってしまった。フリードが加勢する様子も無い。フリード自身もキンドルガルテンを焼き払われ、ジェニーを攫われて、行き場を失くした状態なのだから当然だった。
俺は少年から後じさった。もうここに用は無い。
少年は俺達を見逃す気のようだ。早く撤収するのに越したことはない。さっさとイブリースに向かわないといけないのだ。
けれど俺のつま先は、少年の方を向いたままだった。
「その銃、弾はあと何発残ってる?」
俺の言葉に少年は首を傾げた。
「猟銃も使ってるんだろ?弾はどうやって補充してる?」
「…………」
「外の世界を知らないわけじゃないんだろ。弾を買う為に、街へ行ったことがあるはずだ。そこで見ただろ?森の外にいる人間がどんな生活をしてるのか」
「あそこにあるのは、俺と関係無い、他人達の生活だ。そんなものは、どうだっていい」
「関係無いんじゃない。お前が関わろうとしないだけだ」
「見逃してやるとは言ったが、許すとは言っていない。さっさと消えろ」
「……どうして女が、お前にハンドガンを託したか分かるか?」
「彼女を語るな。何も知らないお前に、何が……」
「俺の想像だけどな……。理由の一つは、俺達みたいな侵入者を撃退する為。もう一つは……外の世界へ出たお前が、危険な目にあった時に身を守る為だと思うけどな」
もしそうだとしたら、女は自分の代わりに、その銃を連れて行ってほしかったのだろう。一緒に居てやれない自分の代わりに。
「他にも女から託されたものがあるんじゃないか?腕輪とか首飾りとか、今、お前がしてる指輪とかさ」
少年は慌てて手をひっこめた。中指につけた銀の指輪に嵌まっている青い石は、サファイアだろう。
「金目の物も用意してあったんだ。多分、女はちゃんと、お前が外へ出た時のことを考えてる。そいつを金に換えれば、何もしなくても、街で二年くらいは暮らせる。お前をここに閉じ込めておきたいなら、そんな物を渡したりしないだろうよ。金になるものがあるって分かれば、外に出ることを考えるようになるからな」
勿論、指輪が大切な物だったから金に換えずにいただけ、というのもあるかも知れない。けれど、そんなに大切な物なら人に託したりしないだろう。墓場まで持って行きたがる方が自然だ。
「勝手だ……」
少年は顔を伏せて、肩を震わせた。
「俺は、ずっと、一緒に居たかったのに……」
生前、女は何も語らなかったという。自分のことも、少年のことも。
ここに居ろとは言わなかったし、出ていけとも言わなかった。
「多分、女は待ってたんだろ。お前が決めるのを。ずっとここに居るなら、それでも良い。けど、外へ出るのなら、その為の用意がいる。いつお前がそう言ってもいいように、準備してたんだと思うぜ。お前を拾った時からな」
いつか来る別れを予期して、女は手筈を整えていたのだ。いずれ自分の手の離れるだろう、少年の未来を見据えて。初めて飛び立つ鳥が、大空に向かって翼を広げることができるように。自身の病死によって、別れは予想より早く来てしまったのかも知れないが。
女は何も言わなかった。それは、少年自身に全てを決めさせる為だ。少年にとって、森の中が世界の全てで、彼女の言葉は絶対なのだから、あえて何も言わなかったのだろう。彼女が言えば、きっと少年は、それに従ってしまう。
「もし外に出るんだったら、考えとけよ」
ここから先は、こいつの問題だ。俺は言いながら、そっと顔を背けてた。
「名前。他人と生活するなら、呼べないと不便だ。女からつけられたもので呼ばせたくないなら、別の名前を考えておけ」
そう言えば、お互いに名乗っていなかったことを思い出して、俺は名前を告げた。
「必要なら、この名前を人に訊いて訪ねろ。手は貸してやる」
はっぱを掛けてしまったのは俺なのだから、多少責任があるかも知れない。いつになくそう考えて、俺は名乗ってしまった。もっとも、「どうにかしてやる」とは言っていないのだから、保障してやっているわけではない。
「邪魔したな」
背を向けて歩き始めた俺に、一瞬躊躇って、カタロスが追いすがってきた。途中で何度か振り返るので、俺もつられて後ろを見たが、少年はずっと立ちつくしていた。
考える時間はいくらでもある。あとは決めるだけだ。大空を見上げるか、大空から見下ろすか。空はいつもそこにある。羽を広げれば、いつでも行けるはずだ。