第四章 六十三話
俺は半歩前に出る。そしてもう一歩、踏み出すのと同時に地面を蹴った。跳躍と同時に拳をかざして、ルーチェに躍りかかる。
ルーチェは笑ったまま目を見開き、後ろへ跳んだ。振り抜いた俺の拳はルーチェの遥か手前で空を切った。そのまま着地して構える。
「俺もお前も死なない。が、お前に手を出さずに済ますのは難しそうだ」
少し気を逸らしただけでは、こいつを振り切ることはできないだろう。一撃でいい。当てて気絶させることができれば。
ルーチェは上着の内ポケットからナイフを取り出した。こいつは俺を殺しはしないだろう。ただ、捕える為なら、きっと何でもする。
ただ“生きてさえいればいい”ということなら……死ななければいいというだけのことだ。死んでさえいなければ……。ルーチェはナイフを両手に一本ずつ構え、険しい表情を見せて言った。
「……今、僕が目の前にいるのに、違うこと考えてる」
そう……。俺はルーチェをいかにして撒くかを考えながら、案じていた。カタロスやフリードが無事なのかを。
エペでの訓練で組手をした時、こいつとやり合ったこともあったが……少なくとも、素手の殴り合いで勝てたことは一度も無かった。しかもノックダウンさせられるのではなく、後ろ手に縛りあげられ、馬乗りにされるという、情けない負け方だった。こいつ相手では勝利どころか、ダウンを取ることすら覚束ない。
だから、今ここで相対した時……。負けたと思った。退路を塞がれたと。
「どうして向かってくるの?どうして抵抗するの?負けると分かってるのに、おかしいよ……」
背後が絶壁で目の前を敵に囲まれた時、人はどうするだろう?敵の手にかかるよりはと、絶壁から飛び降りるか。飛び込んで玉砕するか。そして、相討ちを覚悟するか。
俺は、そのどれもするつもりは無かった。俺は後じさって、ルーチェに跳びかかる準備をした。ルーチェはかぶりを振る。
「おかしいよ、そんなの。正気じゃない」
俺もそう思うよ。
それでも、前へ跳ぶしか無かった。こいつの先で待っているはずのカタロスやフリードの所へ行くには、そうするしか無い。
確かに、純粋な殴り合いでは大きく後れを取る。正直、一撃だって当てられないだろう。正面から向かっていけば……。
俺はルーチェに殴りかかるすんでの所で足を止めて、ルーチェを見つめた。
けれど、それも一瞬。「何かやばい」と直感的に悟ったルーチェが半歩後ずさるが、それより早く俺は跳んで、ルーチェを抱きしめた。
「!」
これには、思わずルーチェも身を固くして驚いていた。俺は目を閉じる。
目を閉じて、ジャケットの袖に忍ばせていた閃光弾を取り出して、スイッチを入れた。
跳びかかる直前、上着に右手を忍ばせて、もう一発閃光弾が残っていることを確認した。フリードのバッグに入っていた支給品だった。袋に入れていても、いざという時使えないだろ――。買い出しの為に宿屋で荷物を整理した時、そう指摘した俺が持たされることになったのだ。
閃光をモロに見てしまったルーチェをそのまま地面に仰向けへ倒して、俺が拳を振り上げた時……。ルーチェが上半身を起こして、俺に頭突きをかました。
「てっ……!」
なんて石頭だ。一瞬、景色が吹っ飛び、視界が真っ白になった。俺はそのまま後ろへ倒れる。光にやられて目をつぶったまま、ルーチェはゆらゆらと立ち上がった。俺も慌てて立とうとしたが、膝に力が入らず、後ろにそっくり返りそうになった。四つん這いになって、なんとか距離を取る。
「……お前、どうやってここへ来たんだ?」
まだ頭がグラグラする。平衡感覚が麻痺しているような感じ。逃げようにも走り出した途端、前のめりに倒れてしまいそうだ。時間を稼ぐか……?あいつの目は暫く使い物にならない。盲目になっている以上、俺の方が有利なはずだ。俺がふらふらになっているのも、あいつには見えていない。
「俺達を尾けていたんなら、どうして俺達と“反対”の方向から出てきたんだ?ここは森の中だ。建物みたいに出口が決まっていない。俺達がどこから森を抜けるのか、お前には正確に分かってたってことか?」
自分で言っていて、確かにおかしいと思った。それに、どうしてこいつは、俺達の前にわざわざ出てきたんだ?
「捕えるだけなら、夜寝静まってからを襲うのが一番簡単じゃないか。それとも、こうやって俺達がバラバラになる瞬間を待っていたのか?」
だとすると、さっきの少年もこいつの仲間なのか?いや、そもそも、俺達をバラバラにする必要なんてあっただろうか?分散させることで、誰かを逃がしてしまう可能性がある。一体、何が目的なんだ?
「…………」
ルーチェは黙っている。少し、揺さぶりをかけてみるか……?
「お前は何の為に、俺達を捕まえようとしているんだ?あいつ……カタロスが何者なのか知ってるのか?お前は誰の命令で動いてるんだ?独断でここまで行動できるはずがない」
まるで壁に話しかけているような気分だった。俺が訊きたいことに何一つ言葉を返さないルーチェ。辺りは静かだった。風一つない。スズメ一匹いやしない。ざわめきの無い木々は、ハリボテのようだった。生きているもののいる感じがしない。見上げた空に浮かぶ雲も動いておらず、まるで時間が過ぎていないかのようだった。
まさか……。
俺は、近付いてこようとするルーチェに、あえて自分から寄って行った。上着の内側からナイフを取り出して、それを突き付けながら。
「質問に答えろ。それとも答えられないのか?知らないなんて言わせないぜ」
ルーチェは俺の声を頼りに、街灯の光に惹かれる虫のようにフラフラと近付いてきた。
「覚えてるか?あの時……、焼け落ちる教会の中で、お前が俺になんて言ったか」
「忘れろって言われても忘れられないよ。ちゃんと覚えてる。そこで君が、涙を流したことも」
「お前、エペに来る前はどこで何をしてたんだ?」
「…………」
じりじりと寄ってきたルーチェの足が止まった。
「何か一つでいい。何でもいいから、“俺の知らないことを言ってみろ”」
もしあの少年がゲヘナなら、恐らくマギテックだろう。何か特殊な能力を持っているはずだ。恐らく、それは……。
「お前は俺の質問に答えないんじゃない。“答えられない”んだ。違うか?」
ルーチェは答えない。俺は確信した。つかつかと歩み寄り――。俺はナイフをルーチェの喉元に添えて、そっと言った。
「消えろ。二度とルーチェの声と姿で、俺の前に現れるな」
その言葉を聞いたルーチェは、ルーチェとして振舞っていた者は……うっすらと笑って、透き通るように消えた。