第四章 六十二話
まだ大人になりきていない少年なのに、表情だけが異様に冷めている。自分を取り巻く現実を受け入れた、物分かりの良い、冴えた瞳だ。着古したジャケットと擦り切れたズボン。活力があるが肌は荒れている。その格好から、普段どんな生活をしているのか大体想像がついた。恐らく、彼もゲヘナの一族なのだろう。
俺達の前に現れた少年は名乗りもせずに一言、
「後ろを向け。そのまま歩け。二度とこの森に入るな」
勧告というよりは恐喝だった。少年の人差し指がコルトの引き金にかかったまま、その銃口が俺達に突きつけられている。
「確かに、ここはお前らの私有地みたいなもんだ。勝手に入ったのは謝る。でも、どうしても行かないといけない所がある。早急にだ。仲間が一人、いや、それ以上の人間が死ぬかも知れない。それを止める為に」
なるべく(俺としては珍しく)紳士的に、必要なことだけ伝えたつもりだった。
「何を信じろと……?」
少年は目を細めて、ほんの少し片眉をはね上げた。
「どうとでも言えるだろう。何とでも取り繕える。聞こえなかったのか……?出ていけと言っている」
取りつく島も無い。カタロスが俺に加勢しようと、口を開いたが
「あと三秒だ」
少年がそう言い終えるのとほぼ同時だった。閃光弾のように強烈な光が目の前に弾け、頭の中をチリチリした感覚が走り回った。何の予備動作も無かったからダメージを防げなかった。これがこいつの能力なのか。一体どんな力なのかは分からないが、体に直接ダメージを与えるわけではなさそうだ。少なくとも、どこか体に変わった所は無さそうに思える。もしかすると……目が慣れた後、右手がなくなっているなんてこともあるかも知れないが。俺は思わず、左手で自分の右腕を掴んだ。まだ視界が回復しない中、俺はカタロスとフリードを呼んだ。返事は無い。
ようやく目の自由が利くようになった頃、体をぐるりさせて辺りを見回したが、カタロスとフリードどころか、リスの子一匹見当たらなかった。もちろん少年も消えている。
二人とはぐれたのか……?しかし、二人も閃光を受けているのだから、とてもどこかは行けなかっただろう。だとすると、あいつに攫われたのか……?
けれど、あいつだって、そう遠くへは行っていないはずだ。
「(くそ、フリードと離れたのは痛いな……)」
奴の能力なら、少年の足取りを掴めただろう。
たられば、と考えていても仕方がない。歩き回って二人を探すしかないだろう。ただ、他のゲヘナに遭遇する可能性が格段に上がってしまった。俺の能力はあくまで「一対一」の時に効果を発揮する。囲まれてしまうと勝ち目は無い。
早速、人の気配だ。足音を隠す様子も無い。随分、余裕じゃないか……。歩幅が足音の通りなら、まだ子どもといった感じだ。とはいえ、あの少年とも違う。しかも、まるでスキップでもするような……。
俺が予期した通り、そいつは左斜め前の木の影から姿を現した。それも丸腰で。それどころかそいつは、こちらに両手を広げて近付いて来ている。
「随分……余裕じゃないか……」
逆に、俺はそう言うのが精一杯だった。カタロスやフリードはどこへ行ったのかとか、早くイブリースに辿りつかないと……という焦り、そんなことは全部どうでもよくなってしまった。
笑っている。そいつは。何が可笑しいのか嬉しいのか。あるいは、両方かも知れない。
再会のシチュエーションとしては唐突過ぎる。けれど、こいつにとっては予定調和の「満を持して」という状況なのかも知れない。
「Hello,my dear.」
声も無く動いた奴の唇は、そう言っているように見えた。
ルーチェ・イスタンテ・エスペリオとの再会は、思ってもいない形で始まり、奴にとっては願ってもない形での再会だったのだろう。
ルーチェは俺から十メートルほど距離を置いて立ち止まった。俺が睨みつけて、奴のことを牽制しているからだ。
「握手とかハグとか……他にすることあるのにさ。黙って睨んでるだけだなんて、ひどくない?」
親友との再会を台無しにされたとばかりに、ルーチェは口を尖らせた。
「ジェットを殺す必要は無かっただろう」
俺は努めて、つまり意識的に、責めるような口調でルーチェに言い捨てる。ルーチェは、ニコリと笑うだけだった。俺はすかさず、ジャケットに仕舞い込んでいたナイフを取りだす。
「無駄だよ」
ルーチェは一層愉快そうに、口の両端を吊り上げて三日月の形を作る。
「怖くないんだよ僕は。死ぬのが、ちっとも怖くないから」
そんなことは分かっていた。何せあの時、俺に「殺せ」と言ってきたのは……他ならない、こいつなのだから。
それでも俺はナイフを向け続けないといけない。俺はお前の思い通りにはならない、お前の手から離れるのだと意志を示す為に。
「いいんだよ。殺しても」
歌うような声だった。口調は内容に反して優しい。こんな場所、こんな相手、こんな内容でなければ、きっと心地良い声のはずだ。
「……死なないさ、お前は」
こいつを殺せば自由を得られるだろうか?自由にはなるだろう。けれど、俺は一生「ルーチェを殺した」という足枷を嵌めて生きていくことになる。自由があれば、どこにでも行けるだろう。だが、どこへ行っても、この足枷をつけたままだ。そんなものは、自由とは呼べない。
それに俺は、カタロスに向かって言ったのだ。死んだからと言って終わりにはならない。無かったことには、してくれないのだと。
俺は、一歩前に踏み出した。あえて自分から……そうしないと、まるで死んでしまうかのように。
「俺もお前も、死なないさ」
生きて自由になる為に。