第3章 六十話
イズルとリゼルグは休みを取っており、今ゼーノの手元に居るのはルーチェとアンリだけだった。
しかし、急を要する任務も無い。執務室で椅子に座って書類を広げているものの、ゼーノは自宅待機に近い状態にあった。
一体いつ、この部屋に入ったのだろう。執務室の机にある二段目の引き出し。そこに見慣れぬ白い封筒が収まっていたのは、つい三日前のことだ。いつもゼーノは、この引き出しに読みさしの本を入れてある。
見られている。自分が毎日、一人でいる時だけこの引き出しを開けることを知っている者がいるのだ。自分の習慣を知っていたから、この引き出しに手紙を入れたのだろう。
どうやって……。
宛先は「亡くなられた貴方のご友人の為に」とある。周囲を警戒しつつ便箋を取り出すと、タイプライターの整った文字が印刷されていた。
「ご友人が志半ばに断頭台の露を消えられましたこと、私も非常に遺憾でありましたが、あえてこれまで、貴方にご連絡差し上げることを避けておりました。しかし、今こそ、それを為すのに絶好の機会と考えましたので、こうしてお手紙でお伺いいたした次第です」
そして、その横にある文は、次の通りだった。
「ローンダイン殿が為し遂げられなかったことを、あなたになら託せると考えたのです」
これ以上は文面で伝えるのが危険だから、これより記す場所に来てくれ、そして、この手紙は今すぐ焼却してくれとあり、そこで手紙は終わっていた。ゼーノは三段目の引き出しを開ける。前任者が使っていた、灰皿とマッチが入っていた。手紙の主はこのことまで知っていたらしかった。
次の日曜日、アンリに留守を頼んで、ゼーノはソドムの駅に向かった。
そこで待ち合わせた手紙の主は、既に駅舎の前に立っていた。
「初めまして、というべきですかね」
若い男だった。まだ自分と同じくらい、二十代半ばと言った印象である。しかし、よく笑う男だった。
「というのもね、ぼくは貴方の話を、何度も伺ってるんですよ。ゼーノさん」
ゼーノは、男が差し出した手を握る。
「オールド・ワンと、ぼくを人はそう呼びます。でもローンダインさんはオルドと呼んでくれましたから、もし良ければ、貴方もそう呼んでください」
待ち合わせたのはソドムだったが、二人が向かったのは、そこから十駅先にある街だった。
まさか……。汽車を降り、ゼーノは駅前の広場を見渡す。そして、街外れの道を二人で歩いて行った。見覚えのある道を通って辿り着いたのは、街を見ろ押せる場所に聳え立った丘だった。石の墓標が並ぶ共同墓地である。
それまでゼーノの前を歩いていたオールド・ワンは、道を開けて、ゼーノに先に歩くよう促した。ゼーノは少し躊躇ったが、墓地の隅にある墓標を目指した。オールド・ワンは黙って後ろをついてくる。
立ち止まったゼーノの目の前に、枯れ草の散らかる墓標があった。もう何年も人の訪れが無いのだろう。墓石の表面には、ローンダインの名が彫られている。
背後のオールド・ワンが肩を叩いてきたので振り返ると、彼は持っていた手提げの中からワインを取りだした。黙ってそれを受け取るゼーノに、オールド・ワンは空いている方の手を墓標に向かって差し伸べる。
コルクを開け、墓前にワインを供えると、ゼーノはようやく口を開いた。
「この場所のことも、ご存知なんですね」
ローンダインには身寄りが無かった。ゼーノでさえ、養子のような、法的な親族関係があったわけではない。戸籍上、二人は赤の他人だった。オールド・ワンは、まるで目の前の墓石がローンダインであるかのように、懐かしそうに目を細めて言った。
「よくロンドさん……ぼくは、彼のことをそう呼んでいたんですけど、彼はぼくが訪ねる度に、貴方のことをお話してくれました。貴方を拾った日のこと、日ごとに上がっていく銃の腕前、つい先日、貴方が少尉の階級を授かったこと……。彼はそのことについて何も言いませんでしたけど、貴方の話をする時は、にやけてばかりでした」
ローンダインはストレートにゼーノを褒めることは無かったが、厳しい稽古こそすれ、ゼーノを見捨てることは無かった。ゼーノが上手くできなければ見本を示してくれたし、上手くいった時も「今の呼吸を忘れるな」と念を押してくれる。ローンダインは育ての親だったが、ゼーノにとっては「師匠」であり、目標でもあった。つまり、いつか乗り越えるべき「壁」である。
ゼーノも墓石に目を遣った。
「死ぬ間際に、彼から、万密院の真の目的を聞かされました。研究塔で行われていること、老人達の揺りかご、あるいは箱舟とも呼べる『不老不死』の法を作り上げようとしていること……」
「そして、彼は自分の誇りにかけ、命がけで真実を告発しようとしました」
「何故、手紙を俺に?」
それは、オールド・ワンが手紙を寄こしてきた時から抱いていた疑問だった。何故このタイミングなのだろう?今更この話をして、何になるのか?
「最近、あなたの部下達の行動がおかしいと思いませんか?」
まるで見てきたように言うものだ。何故そんなことを知っているのか、と口を挟む隙も無く、オールド・ワンが畳みかける。
「でも、あなたは彼らの行動を看過している。しかも意図的にです。彼らの中に、裏切り者がいるかも知れないのに。それは……あなた自身が、万密院がいっそ崩壊してしまえばいいと、そう思っているからではありませんか?」
ゼーノが忠誠を誓った万密院は、もうこの世にない。ローンダインが死んだのと同時に消えたのだ。
今のゼーノは与えられた任務をこなすだけで、そこに心は無い。強いて言えば、そこにあるのは義務感だけだ。それも結局は、他の場所へ行くことが出来ず、万密院に留まるしか無いので、仕方なく果たしている義務だった。
ゼーノは、顔を伏せて言う。
「彼が死んだ時、俺は泣けなかった」
処刑の前夜、ローンダインはゼーノを呼びつけて言った。ゼーノは翌日に何が起こるか、分かっていた。これが、最後の会話になるだろうことも。そこでローンダインは何を言ったか。思い出話や、はたまたゼーノの将来を心配するような言葉では無かった。
「俺が死んでも泣いてはいけない」
ローンダインとゼーノは、立場上は上司と部下で、人前ではそのように振舞った。もし親密な態度を見せれば、ゼーノも毒牙にかかると考えたのだろう。ローンダインは最後に、その言葉だけ託した。死を目前にした彼がゼーノに対してできることは、もう、それしか無かったのだ。
そしてゼーノは……。泣かなかった。
泣けなかったのだ。ローンダインとの約束だったからというのもあるが……自身が第二の犠牲者となることを恐れたのである。死ぬのが、怖かったのだ。
我が身かわいさに、涙さえ流さなかった自分を、ゼーノは呪った。人前で普通を装ってみても、自室に戻ればベッドに倒れ込んで、何も考えずにひたすら横になった。けれど、矢張り涙は出てこなかった。どこかで見張られているかも知れないと思うと、布団の中ですら泣けなかったのだ。
「平気ですよ」
と、オールド・ワンは言った。ゼーノが振り返ると、彼は優しく笑った。
「今なら誰も見ていません。絶対保障できます」
理由は言えませんけれど、と言って少し困ったような顔をするオールド・ワンの言葉を聞かないうちに、ゼーノは地面に膝をついた。声を上げて、しかも人前で泣くというのは、初めての経験だった。
その間、黙ってオールド・ワンはゼーノに付き添っていた。暮れなずむ夕日が、やがて地平線の向こうへ消えようとした時、ゼーノは立ち上がろうとした。すると、オールド・ワンが静かに、ゼーノに手を差し伸べた。
夕日がオールド・ワンの顔の半分を照らし、もう半分は、すっかり陰になっていた。まるでそれぞれが、全く別人の顔に見える。驚いて、ゼーノは思わず、オールド・ワンの手を取るのを躊躇った。その様子を見て、オールド・ワンは笑って言った。
「ぼくはあなたに、選択肢を与えに来たんです。つまり、『行動を起こすなら、今しかない』ということです」