第一章 六話
俺が万密院にスパイとして潜入したのは、二年も前のことになる。場所は、ここから五十キロ近く離れた万密院統治下にある地方都市。奴らの技術と知識を万密院のものだけにしておくのが我慢ならない連中は多く、俺の依頼人も、そうした人間の一人だった。
潜入して早々、俺は万密院が所持する軍隊の一つ「グロワール・エペ」に配属された。表向き宗教団体として活動する万密院が軍事力を持つのは意外だろうか。勿論、公にはされていない。表向きは「自警団」ということになっている。
その名の意味は「栄光の前に翳される剣」。自警の為に存在するのは勿論、栄光=万密院の言う「救世主が訪れた世界」に現れる万難を排する為にあると言う。その為の慈恵に満ちた存在として、市民に宣伝されていた。
勿論、その為だけに、万密院が選りすぐりの兵を集めているわけではなかった。ただ、軍隊を維持する為に「自警の為」という理由が必要だったのは確かだろう。万密院は、あるものを探していた。
そして――それを邪魔する者を排除する為にグロワール・エペを創設した。俺のような人間がすんなりと採用されたのもそれが理由だ。親類は無く友人もいない。そんな人間ならいつ消えても誰も不審がらないし、たとえ退団して周囲の人間にエペの真相を漏らそうと、社会的信用の無い人間の言うことは誰も信じない。
だからか万密院にいる人間の中でも、エペの連中はどこか違っていた。
「お前か。今日から配属されると聞いている」
初出勤した時、廊下で俺を待ちかまえていたのは、ロングコートの軍服を着た男だった。
三十路目前だろうか。目深に被った帽子の庇から、触れると切れてしまうような視線で俺を見つめている。どちらかというと、軍人というより頭の切れる、若きエリート官僚といった感じだ。瞳の奥に冷えた知性が窺える。
「お前の部屋に案内しよう。ちなみに相部屋だ」
俺は黙って頷いた。互いに名乗らない。その必要が無いようだった。
エペの隊員には「寮」が与えられていた。決まった時間に寝起きと食事。寝る前には軽いストレッチをすることが義務づけられている。
通いは許されず、必ず入所しなければならないらしい。寮生というよりは囚人になったような気分で、俺は男の後をついて行く。俺が住むことになったのは、寮の一番奥にある部屋だった。
「入るぞ」
言うのと同時にノックをして、男はドアを開けた。恐らくこの部屋には、備品として支給された調度品しか置かれていない。この部屋にあるもので、人工的にデザインされた家具を見つけることはできなかった。
生きた人間の生活している部屋という感じがまるでしない。それは多分、この部屋の中がそうだからというより、その部屋の中に住む人間のせいだったのだと思う。
「エスペリオ、今日からお前と生活することになった新人を連れて来た」
男に呼ばれて、ベッドのシーツがもそもそと動く。くるまっていたシーツを剥がして、それはこちらに顔だけ向けた。そして、エスペリオと呼ばれた人物は、そろそろと床に足を下ろした。
少年のように見える。柔らかそうな巻き毛は灰色。生白い足がシーツから覗く。陶器のようだった。床に指先が触れた瞬間、ぺたりという柔らかい音がするのが不自然に思えた。
そしてエスペリオは……笑った。俺の中にある何かを見透かしてそれに気がついたかのように、何かを探り当てたかのように嬉しそうなその視線に、俺は思わず肩を退いた。
「こいつはルーチェ・イスタンテ・エスペリオだ。お前より二年ほど先輩に当たる」
仲良くしろとも自己紹介しろとも言わずにそれだけ言い、軍服の男は去っていった。
一瞬の沈黙。エスペリオはシーツを引きずって俺の目の前まで歩み寄る。そして、口を開いた。
「ゼーノはね、ああいう人だから気にしないで」
エスペリオは、床に下ろした細い足を使って近づいてくる。ゼーノとは、案内してきたあの男のことか。
エスペリオは俺の手を取ろうとする。俺は反射的に腕を退いたが、間に合わなかった。捕まった手の平が、彼の小枝のように細い指の中に収まる。
「僕はルーチェ・イスタンテ・エスペリオ。みんな、僕のことをエスペリオって呼ぶけど、誰か一人くらいはルーチェって呼んでほしいな」
エスペリオは笑う。鮮明に、それと分かるくらい微笑む。
「だめかな?」
俺はルーチェの問いに答えなかった。答えられなかった。それを俺に望むのかと。
ルーチェ・イスタンテ・エスペリオ。名前の意味は「鏡が照り返す一瞬の光」。鏡の照り返してきた光が眩しすぎて、正面から見据えることができなかった。
「……へーえ、なるほど」
と、静かに俺の話を聞いていたカタロスがぽつりと漏らした。。奴は「信仰」という言葉の響きから程遠い俺が、何故万密院に居たのか納得したようだ。
俺達は肩を並べて中央通りを歩いている。正面に万密院下にある教会が見えた。その入口からぞろぞろと市民階層の人間が出てくる。説法でもあったのだろう。俺は教会の頂上を見据えた。そこに十字架はなく、救世主と思しき青年の姿を模ったレリーフが設えられている。
かつて、この街を焼き払った唯一神はこう語った。
『我は嫉妬する神である』
神のくせに狭量なものだ。神は自ら創造した人間が他の神を崇めることに嫉妬し、他の神への信仰を全て禁じたという。
「どうかしましたか?」
教会のてっぺんをぼんやりと見つめている俺に、横からカタロスが声をかける。
「別に」
俺は言うのと同時に踵を返す。その後ろをカタロスがついてきた。横に並んで、俺の方を振り向きながら奴は言う。
「スパイ活動は順調だったんですか?」
「いや、失敗した。というより、思いがけない事故に遭って中断させられたというか……」
「事故?」
「牢に居たお前は知らなかっただろうが……一年半前、万密院下にある一部の教会が武装勢力の襲撃を受けた。理由も首謀者も未だに分からない」
その当時、市民は元より、万密院自身がその出来事に驚かされた。正面切って、堂々と教会を襲撃してくる奴らがいるとは思わなかったからだ。万密院やそのパトロン、万密院の力を利用することを考え始めていた政治家、あるいは万密院の教えに帰依する市民への何かの警告かと思われたものの、真相は掴めていない。
「それっきりだな。万密院とは」
俺はその混乱に乗じて、教会から姿を消した。恐らく死んだことになっているだろう。教会が復興した後、その裏の墓地に俺の名前を刻んだ墓石があって、その下に空っぽの棺が埋まっているのかも知れない。
「もうグロワール・エペの方々とは、連絡をとってないんですか?」
「……ああ」
俺はそう答えたが、嘘だった。一年前に、ルーチェから連絡を受けている。
白い封筒の後ろに見慣れた名前。一体、どうやって俺の居場所を知ったのか。手紙の内容は「生きているのなら会ってみたい」というだけの簡素なものだった。
返事はしなかった。その時すぐに、俺は住処を変えてソドムに移る。
しかし教会を見る度にルーチェのことを思い出していた。それは決して思い出などというような甘ったるいものではなく――強迫観念的に彼を思い出していた。
今でも思い出す。俺の目の前にあった、差し込む光を照り返す美しい鏡。
その鏡を覗き込んだ時。
鏡に映った自分の背後に見える、深い闇が恐かった。