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第3章 五十八話

 アンリはルーチェが苦手だ。仕事の手腕は正確でむしろ信用しているが、それに反比例するかのように、ルーチェの性格には未知数な部分が多い。どこに地雷が潜んでいるのか見当がつかず、扱いづらいのだ。こういうタイプは、アンリが最も苦手とする人種である。

 入浴を済ませたアンリは、ベッドのシーツを持ち上げた所で、テーブルに手袋が置きっぱなしになっていることに気付いた。つい三十分前、部屋を訪ねてきたルーチェのものだった。無いと困るものではないだろうが、今頃探し回っているかも知れない。手袋を拾って、アンリは部屋を出た。

 髪は手櫛でとかし、シャツとスラックスというラフな出で立ちで、ルーチェの部屋のドアを叩く。返事は無い。留守だろうか。電気もついていない。しかし、ノブを回すと、ドアを室内側へ押すことができた。

「!」

 ドアを開けて窓辺にいる何かに気づき、慌ててアンリはドアを閉めた。そこにいるのはルーチェだった。それは特に変わったことではない。ただ、着替えている最中だったのだ。知らなかったとはいえ、不躾なことをしてしまった。

「こんばんは」

 アンリが閉めたドアは、すぐに開いた。その先に居るルーチェが、薄く笑った。

「髪を下ろしてるアンリって、初めて見たかも」

 何か詫びの言葉を差し出そうとして、アンリは口を動かすが

「こっちの方がいいなぁ」

 そう言って、ルーチェは背のびをした。確かめるように、アンリの髪に触れようとしている。

「この方がさ、なんとく、小さい頃のアンリってこんな感じだったのかなって、想像できるんだよね」

 ルーチェはどうだったのだろう。アンリが万密院に入った時に、既にルーチェは居た。エペの結成前で、ゼーノのお付きといったポジションだった。ルーチェは「籠」の中に居る者達と違って作られた存在ではないが、かなり幼い頃から万密院に居たようである。

「これを」

 ルーチェは、自分の非礼を全く気にしていないようだ。用件を手短に済ませよう。そう考えたアンリが手袋を差し出すと。

 ルーチェは、手袋ごとアンリの手を掴んだ。強く握られる。考えるより早く、反射的に腕を引っ込めようとしたが、一瞬遅れて来た思考に従って、アンリは抵抗しなかった。ルーチェが、にっこりと笑いながら言った。

「明日出かける時も、その格好でお願いね」


 普段と違う装いは落ち着かない。しかし、頼みを断る理由も無かった。アンリは昨夜のラフなスタイルに、ジャケットを着ただけという格好で、街の広場でルーチェと待ち合わせている。同じ場所で生活していて、同じ場所へ出かけるのに、一緒に外へ出たりはしない。待ち合わせる前までは、お互い自由に行動すればいいと、アンリは考える。

 アンリとルーチェは時々こうして、揃いで街へと繰り出した。「咎負いの島流し」で共謀した二人は、監視の目を誤魔化しやすい場所へ移動する必要があった。まだこの後も、することが残っているからだ。その為の打ち合わせが必要なのである。

 時間きっかりに登場したルーチェは、チノパンにチョッキを羽織っていた。

「新しい靴が欲しいんだよね。あと、ブレザーも新調したいな」

 と、打ち合わせの為に街に出ているなどと言いつつ、ルーチェ自身は、普通に休暇を楽しんでいた。こういう風にルーチェの買い物に付き合い、喫茶店やレストランに入ってから、やっと打ち合わせを始める。ルーチェが「ボートを漕ぎたい」と言い出した時は、わざわざ湖畔まで行ってボートを借りる。

 しかし、さも束の間の休日を楽しんでいるかのように、監視をだまくらかしてやる必要がある。よって、ルーチェの行動は良い目くらましになるので、アンリは拒まなかった。

 いつも通る道を並んで歩いていると、ルーチェが囁いてくる。

「ほら、やっぱりね」

 何がやっぱりなのか?アンリは訊ねようとしたが、ルーチェに遮られる。

「前の女の子達」

 そう言って、ルーチェはフイっと視線を、斜め前に向かって投げた。向かいから少女が三人、肩を並べている。彼女達はアンリを見つめていたようだが、慌てて視線を逸らし始めた。

「ここでさ、いっつも待ち伏せしてるんだよ。僕達のこと。僕達っていうか、あの子達が見てるのはアンリだけだけど」

 無論、そのことにはアンリも気づいていた。しかし、それを気にかけたことは無い。

「アンリがいつもと違った格好をしたら、彼女達、驚くかなって思ったんだけど。聞きたい?彼女達が今日のアンリを見て、なんて言ったか。僕ならここからでも聞こえるんだけど」

「それが、今日の打ち合わせにとって重要なことですか?」

「……アンリ、怒ってるの?僕が、アンリで実験したみたいになってるから」

「いいえ」

「アンリも気づいてたでしょ。彼女達のこと。気にならなかったの?」

「特には」

「何で自分を見てるんだろうって、思わなかった?」

「考えても私には分からないので」

「分からないっていうより、どうでもいいって感じだよね」

 不意に核心を突かれて、アンリは立ち止まりかけた。そう、「分からない」と「どうでもいい」は違うのだ。「分からない」は理解できないという意味で、単なる能力不足のことだが、「どうでもいい」は関心が無い、つまり、それに対して心をシャットアウトした状態である。

 そう、彼女達がどうなろうと何を考えようと、どうだっていい。そんな風に思える自分が居る。

 アンリに生まれた一瞬の隙を見逃さず、ルーチェは声をたてて笑った。

「へーぇ。アンリでも、そういう顔、するんだ?」

 どんな……?どんな、顔だろう?

 アンリは、ルーチェを振り返った。

 不思議そうに自分を見つめるアンリを見て、ルーチェはたちまち機嫌を良くした。

「いいもの見ちゃったなぁ。多分、一生忘れないよ、僕。今日のこと」


 仕立て屋でブレザーを選ぶルーチェの瞳は、かつて見せたことがない真剣さを放っていた。凄みといってもいい。靴を選ぶのにも「履き心地が悪いけど、見た目はこっちの方が……」などと言って、店の中を往復している。結局、靴屋を出るのに一時間かかった。まるで女の買い物である。

「なんとか決まって良かったけど、お腹空いちゃったね」

 荷物を持ったまま付き添い続け、ようやくアンリは、レストランで昼食にありついた。目の前でルーチェがパンをちぎっている。

「かなり慎重に服を選んでいましたね」

 嫌味ではない。アンリの素直な感想だった。普段のルーチェはさっさと買う物を決めてしまうのに、今日は長かった。ルーチェは、さも当然であるように言う。

「だって、そろそろ会えるんでしょう?」

 誰に……?勿論、彼にだ。あの日、教会で咎追い共々見逃したあの少年。

 すると今日の買い物は、あの少年と会う時に着る正装を調達する為のものだったのか。

 ルーチェは執拗に彼に拘っている。しかし、彼に対する敵意は感じられない。これほどまでに、彼と会うことに執着する理由は何なのだろう。

 アンリが黙っている理由を推し量ったのか、ルーチェは

「もしかしたら、僕、死んでたかも知れないんだ。知ってるでしょ?一年半前にあったテロで焼け落ちた教会の中に、僕と彼が居たんだ」

 知っているも何も実行犯である。アンリは黙って頷いた。

「その時にね、彼に頼んだんだ。僕のこと、殺してよって」

 炎に焼かれたり、瓦礫に押しつぶされて死んだりするよりはマシでしょ?と言って、ルーチェは肩をすくめた。

「そしたらさ、彼……。僕が殺してって頼んだらね……」

 ルーチェは寂しそうに笑った。

「泣いたんだよ。彼。どうしてだろうね」

 殺してほしいと頼まれて泣く人殺し。そんな話は聞いたことが無い。

「訊いてみたいんだ。どうしてあの時、泣いたのか。憎くて殺し合うわけでも無いのに、痛みがあるわけでもないのに……彼は何が辛かったのかなって、思うから」

 もしできるなら、あの時のことを訊いてみたい。そう言って、ルーチェは話を締めくくった。

 それが、ルーチェがあの少年に拘る理由……?

 たったそれだけ?

 万密院を裏切るほどの価値が、この問いの中にあるというのか?

 アンリは、再びパンを細切れにし始めたルーチェを見つめる。

「あ、あとね」

 ルーチェは顔を上げる。

「ああいうシチュエーションの中で涙を流せるって、素敵なことだと思うな」

 多分、僕、あの時のこと、一生忘れないと思うよ。そう言うルーチェは、薄く笑っていた。


 何がおかしいのだろう?何が楽しくて笑うのか。アンリはルーチェが笑う意味を理解できなかった。そして、恐らく訊ねても、理解できる類のものではないのだろう、と判断した。

 世の中にはこんな風に、分かろうとしても理解できないものがある。同じ言葉を話すのだからお互い理解し合えるだろうと考えるのは、大きな誤解だ。

 時々こんな風に、理解することを諦めるしかない人間が存在する。こういうタイプは、アンリが最も苦手とする人種である。

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