第3章 五十二話
リゼルグ一行は、ミチザネと出会った翌日に万密院を出発し、南国への切符を買った。彼らはイタリアーナと呼ばれる国を目指す。列車に飛び乗って五分、ミチザネが取り出したトランプを中央に囲んで、三人はゲームを始めた。
「ダウト」
イズルがコールすると、リゼルグが渋々、山になった中央のカードを一枚取る。
リゼルグがダウトをする瞬間は、大体分かる。多分、ミチザネも気づいているだろう。しかし、ミチザネはニヤニヤ笑うだけで何もしない。目の前で獲物が狩られるのを見物しているようだ。しかし、その表情はハイハイする子供を見守るように穏やかで、慈しむように目を細めてすらいる。
「俺は八割しか読めなかったけど、あんたは全部分かってたんじゃないのか。いつリゼルグがダウトをしたのか」
ゲームが終わると、リゼルグは居眠りを始めた。列車の揺れを、揺りかごの揺れのように感じたのかも知れない。ミチザネは受け流すように飄々と答えた。
「誰しも、狩られると分かっていては近付いてこない。負けてやることも大切なんです。子供と遊ぶ時だってね、手加減はしてやるけど、手加減していることを見抜かれちゃいけないんです。子供なりに『侮辱された』と感じますから。それと一緒」
「お前にとっちゃ、こんなもん、お遊戯みたいなもんってことか」
「ノー、ノー、ノー。勝負を楽しむには、『思いやり』が必要っていう話ですよ」
「そのお前の目の前でボロクソに負けたけどな、こいつは」
イズルが視線を投げた先には、窮屈そうに体を折って眠るリゼルグとその寝息。
初めてリゼルグと会った時、イズルは捨てられた室内犬を想像した。毛並みは荒れているが恐らく血統書つき。ボロボロだがまだ首輪がついている。元々この世界の人間ではない。それが、一目見てすぐに分かった。
イズルは、リゼルグの近い将来を想像してみた。女王蜂は何もしない。他の蜂が運んできたエサを食べて生きていける。しかし、子どもを生む能力を失った途端、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていた蜂たちの手によって、巣の外へ捨てられるのだ。自らエサを取ったことがない女王蜂は飢えて死ぬか、捕食されるしかない。
リゼルグも、そのどちらかになるだろうとイズルは考えていた。飢えて死ぬか、捕食されて死ぬか。だから、二年前に別れた時、もう二度と会うことが無いと思っていた。
「気になってたんですけど、どうもお兄さん達、ただの仕事仲間って感じじゃないんですよね。何か個人的な関係がおありで?」
リゼルグを見るイズルの目に多少の変化を感じたのか、鋭くミチザネが切り込んできた。しかし、イズルの思考の切り替えも早い。
「どうもこうもねーな、他人だよ他人」
「ご冗談、ご冗談。リゼルグ氏が他人の為に、あなたの前であんな大見得を切ったと?命を張って?あり得ませんね。この坊っちゃん、素直ではあるが馬鹿でもありますまい」
ミチザネの言う「大見得」とは、「黄金の林檎」で、イズルとリゼルグが対峙した時のことを言っているのだろう。確かにイズルは、リゼルグが密告するという確信さえあれば、彼を殺すつもりでいた。リゼルグも、それを十分覚悟していただろう。
「リゼルグ氏は素直な方です。実に、素直に人を信じる。でも、誰を信じていいのかを考えるくらいの分別は、あるように見えますがね」
「臆病なんだよ。裏切りを想像するのが怖いだけだ。だから信じ込もうとする」
「それも美点だと思いますがね。自分の決断を、自分の判断で信じることができる。それはそれで覚悟のいることです。ふふ、なんとなく読めてきました。何故リゼルグ氏が、エペに入隊できたのか」
「覚悟だけじゃ敵の首は取れないぜ」
「上官殿があなたをエペに入れた理由も分かりますよ。リゼルグ氏には、あなたのような方が、セーフティーガードとして必要になんですよ」
「俺はいつだって、こいつを見捨てていける。必要なら仲間だって置いていくさ」
「そうした判断も、あなたなら的確にできるでしょう。いつ、どこで、その判断をすべきかを、誰よりも冷静に。そして確実に実行する。窮地にあってもうろたえずに最善の手立てを考えられる。そしてそんなあなたの判断を、リゼルグ氏は信じることができる。多分、あなたの上官はそこまで織り込み済みですよ」
「見てきたように言うじゃねーか」
「否定できます?」
「なんにも」
「まぁ、肯定もしてくれないでしょうけどね」
「よくもそんなに、しゃあしゃあ言えるもんだ」
「楽しいんですよ。若い子たちとお話するのが」
「縁側で茶ァ飲んでるジジィの発想じゃねーか」
「君も、あと二十年くらいしたら分かりますよ」
知らねーよ、そんなもん。知りたくもないし。とイズルが突き返そうとした時、列車が止まった。慣性によって大きくよろけたリゼルグの体が、危うく座席から転がり落ちる所だった。
リゼルグ達は「イズルの帰省」という名目で、一カ月の休暇を手に入れた。一カ月も穴を空けることにあっさり許可が下りて、リゼルグとイズルは肩透かしを食った。どんな詰問をされても、ちゃんと帳尻を合わせられるよう、二人で半日かけて完成させた台本が水の泡だ。
「もしかすると、ゼーノ上官殿にとって、あなた達の遠出は都合がいいのかも知れません」
駅で食事にありつく三人は、三様、好みのメニューを選んだ。ミチザネが魚のソテーを突きながら言う。
「例えば、謀反を企んでいるとかですね。もしかすると咎負いの失踪は、それこそ上官殿の手引きかも知れませんよ。咎負いの失踪が偶然だったとしても、この混乱に乗じて内乱を起こすことなんか企てているのやも……。そんな想像が頭の中を駆け巡っちゃいますね」
「そんなツテが隊長にあるとは思えねーけどな。あの人は子どもの頃、当時エペの隊長だったホニャホニャっていう奴に拾われて以来、ずっと軍人だし」
「ホニャホニャ……って、ローンダインさんのこと?」
「多分それ」
「なるほど、ホニャホニャ氏に拾われて以来、上官殿はずっと万密院下にあると」
「ま、分からねーけどな。あの人、結構まっとうだからさ。今の万密院のやり方についていけないってのはあるかも知れない。隊長はあくまで、ホニャホニャさんのやり方を信じて万密院に入ったらしいから」
「書庫にも記録がありましたが……。ホニャホニャ氏は処刑されていますね。彼が忠義を誓った、万密院自身の手によって。確かに、上官殿の心の中で反感の芽が育つには十分すぎる出来事でしょう」
イズルがデザートのリンゴを頬張り、三人は店を出た。目の前はビジネス街で、五分も歩けばリゼルグの兄が経営する会社「ウルスラグナ」が見えてくる。それは、リゼルグ達が知らない異教の神から取った名前らしい。
三人はビルに入って受付を訪ね、アポの確認を済ませる。リゼルグはあくまで商談相手として来ているのだから、これは当然の工程と言える。受付からの確認の電話に兄が出ることは無く、秘書らしき男性から応対があるだけだった。もちろんここでは、リゼルグは本名を名乗った。
兄とは、リゼルグが二年前に家を出たきりの再会だ。二年は、決して長い時間では無いだろう。しかし、人が変わるのには、十分な期間だと言える。現に、一地方の商社を経営しているに過ぎなかったリゼルグの兄は、今やこの地方有数の資産家である。ヨーロピアン全体で見れば、長者番付の上位十位に食い込めるか否か、と言った所だろう。
「お待ちしておりました」
そういう使用人の声も、極めて義務的だった。常に同じ声音、リズム、音量で言えるように訓練されている、そんな感じだ。応接間に通された三人は、出された紅茶に口をつける。
「リゼルグはともかく、俺とミチザネも、あっさり通されたな」
「確かに、不用心と言えば不用心ですね。アタシなんか、住所不定無職ですし」
「リゼルグだって、電話で本人かどうか確認しただけだ。しかも、こいつがリゼルグ本人だって証明できるもんは何も無い。戸籍上、死んだことになってるしな」
そして何より、静かすぎる。三人ともそれを感じ取っているようで、互いに視線を交わしたまま黙りこくった。三人は入ってきたドアを背に、窓の方を見るようにソファに座っている。すると、右斜め前にある扉がようやく開いた。ドアと壁の隙間から、ドアノブを握った男の右手が見える。
「動くな」
同時に、リゼルグの首筋に、冷えたナイフの刃が当たった。イズルはその気配に気づいていたようだが、あえて動かなかったようだ。リゼルグも予期していたからか、落ち着いている。しかし刃は、数ミリ動かせば、すぐに出血を起こせる位置にあった。相手はプロだ。
目的は何だ――?それが読めない以上、三人は大人しくしているしか無かった。ソファ越しの声が問う。
「お前の兄は、ある時に川に落ちて流されたことがある。それはいつだ?」
リゼルグは答える。
「……兄が十歳の時、誕生祝いで別荘に泊った時のことです。夜中にこっそり抜け出して、星空を見に行ったのが原因でした」
「お前の母親は、芝居が好きだ。特に、彼女の好きな舞台俳優は?」
「アルベール・バティーニュ。四年前の火災事故で亡くなっています」
リゼルグは冷静に答えを言い当てて言った。
「お前には教育係がついていた。そいつの名前は?」
「マナーはブライアン・ブローリ。世界史はアリエンヌ・シュヴェーヌマン、経済学はジロー・ダルデンヌ……。もっと言いましょうか?」
「最後。お前の兄は、お前のことを、何と呼んだ?」
イズルとミチザネにも聞こえるのではないかと思えるほど、リゼルグは大きく息を呑んだ。
「十秒以内に答えなければ、向かいの窓からライフルの弾が飛んでくる。三発きっかりな」
ナイフを当てたまま、男が事もなげに言う。リゼルグは隣に座るイズルの視線に気づいた。その瞳が、早く答えろと急かしていた。
「我々が本気だと信じていないようだな。弾が飛ぶ前に、まずお前の首を切る」
男が言い終わるのと、殆ど同時だったろう。リゼルグは答えを口にした。早足になるような、落ち着きの無い口調だった。
三、二、一……。十秒を過ぎても、弾は飛ばなかった。
「よし、上出来」
どこからか、そんな陽気な声が聞こえてきた。イズルもミチザネも最初は気付かなかったようだが、すぐに、背後のソファに隠れた男の声と同じものだと気付いたようだ。
男はナイフを収めるのと同時に、骨ばったその指でリゼルグの頭を押さえた。そのまま、指をリゼルグの髪に通して優しく撫でる。
「久しぶりだな」
半開きの斜め前の扉からは、紳士然とした男性が出てきた。おそらく電話で応対をした秘書だろう。リゼルグ達が振り返った先にも男が一人。偉丈夫と言っていいだろう。精悍な顔つき、がっしりした均整のとれた体つき。はっきり言って、リゼルグとは似ても似つかない。けれど瞳はどこか似ている。そう、多分、自分が笑う時もこんな目をしているのだろう。
そう思いながら、実に二年振りに、リゼルグは兄と握手を交わした。