第三章 五十一話
メレグは部屋を出て行った。遠ざかる足音を聞きながら、オールド・ワンはテーブルの隅に置いたナプキン立てに手を伸ばす。長い指を器用に操って、ナプキンの飛行機を作った。それを窓に向かって飛ばしてみる。静まり返った屋敷の中では、飛行機が空を切る音すら聞こえてきそうだ。オールド・ワンは腕時計を見る。十七時になるまで、三十秒を切っていた。
危ない所だった。これ以上長引けば、無理にでもメレグとの会話を打ち切るつもりだったが、彼女の方から身を引いてくれた。夜道の一人歩きは危ないから、陽のある内に帰るとのことだったのだ。
秒針が十二に合う直前、オールド・ワンは部屋の出口を見た。メレグが閉めていったはずの扉が、開いている。
そっと音も立てずに、扉は開いた。
「変わらないよね、君は」
そう言ってオールド・ワンは笑う。こうなることを、もちろんオールド・ワンは予測していた。あの子は時間に正確だからと。
「いらっしゃい、よりも、おかえりって言うべきかな?」
椅子に座ったまま、オールド・ワンは顔を上げる。直接会うのは半年振りだった。どこか変わった、と思う。どこがと具体的には言えない。
いいさ、それについては、これからじっくり、彼と話しながら考えることにしよう……。
「ただいま戻りました」
そう言って男は頭を下げた。オールド・ワンが教えた作法を忠実に守っている。
「どっちがいい?昔みたいにヘンリーって呼ぼうか?それとも、アンリの方がいい?」
オールド・ワンの前に立ったアンリは、
「どちらでも」
微笑むオールド・ワンの前に椅子を引いて座った。
戦災孤児として拾われたアンリだったが、自分のような境遇の人間をオールド・ワンが集めているらしいことを、すぐに知った。しかも集められた子どもはカテゴリ分けがされている。アンリは諜報員になるべく育てられた。オールド・ワンの独断と偏見で、子ども達の育成方針が決まっている。もっとも、オールド・ワン自ら教育に手を出すことは殆ど無い。アンリのように、寝食を共にした例は稀だと言える。
アンリは三年前から万密院に潜入しており、テロに失敗して以来、エペに残り続けている。しばらくそこで好きにしていろ、というオールド・ワンの指示だった。恐らく、万密院内の情勢を自分に探らせ、必要とあれば行動を起こすように仕向ける為だろう。もっとも、万密院の中にはアンリ以外の「駒」が潜んでいるらしく、オールド・ワンは万密院内の状況を手に取るように把握していた。ただし、アンリが万密院の中で「仲間」がいると思えた状況は一度も無い。お互いにお互いがスパイであることを知らないまま、駒達が同じ主の下で働いている。
「そろそろルーチェを抑え込むのが難しくなってきました。本当に『彼』に会わせてもらえるのか、私の言葉を疑い始めたようです」
「こっちは計画通りなんだけどね……。無事『彼ら』はロックイットを脱出して、ゲヘナの焼き討ちにあった。彼らはこの後、イブリースに助けを求めに行く可能性が高い」
「もしそうでなかったら?」
「それでもいいさ。違うルートを通った場合の対処も用意してある。でもその可能性は低い。ロックイットから出る便は全部キンドルガルデン行き、そこから歩きで他の町へ行くのは不可能、そして彼らはほぼ一文無し。そうだろう?」
アンリは頷いた。咎負いたちを捕獲した時、金目の物は全て懐に入れた。そうするよう、オールド・ワンから指示されたからだ。ただし、武器は奪うなと言われた。「この先、彼らにとって必要になるかも知れないから」と。
「もし私が追跡隊に選ばれなかったら、どうするおつもりでしたか?」
「簡単さ、追跡隊が捕まえた所を横取りすればいい。今だって、そういうことになっているだろう?『彼ら』の動向はぼくの方がよく知っているから、訳もないさ」
アンリとルーチェは、犯人の捕獲に失敗した、ということになっている。だから謹慎をくらった。実際には、アンリ達は咎負いたちを捕獲した後に、ロックイットへ彼らを置き去りにしてきている。このことは、アンリとルーチェしか知らない。ルーチェには、いずれ『彼』に会わせてやると約束して、黙らせることにした。
「何故、彼らをロックイットに放り込んだのですか?考えられる結果は、他にもあった。どちらかが死ぬ、あるいは相討ちになって死ぬ、彼らが脱出を諦めて島に定住する。二人揃って島を出る確率が、考えられる可能性の中では一番低い」
ロックイットを脱出する為のルールは、アンリも知っている。オールド・ワンから聞かされていた。だからこそ、オールド・ワンの指示が不可解に思えた。
「あそこはチェックポイントっていうか……。ターニングポイントなんだよね。ルート分岐っていうか。別にさ、どれになっても良かったんだよ。二人揃って脱出する方が、一番面白いとは思ったけどね」
どれになっても良い……?
「アンリ、テーブルトークアールピージー……TRPGのこと、覚えてるね?」
昔、オールドワンと一緒に遊んだボードゲームのことだ。簡単に言うと、プレイヤーが架空のキャラクターになりきって冒険を楽しむゲーム。必要なのは複数のプレイヤーと、一人のゲームマスター。ゲームマスターはシナリオを作って、プレイヤーに目標を与える依頼人になったり、道行きを邪魔をするモンスターになったりする。
「ゲームマスターの思い通りにゲームが進まないことはしょっちゅうだよ。でもね、そこでいかに素早くシナリオを修正して、プレイヤーに違和感無くゲームを続行してもらうか……。これがゲームマスターの醍醐味なのさ」
「あなたは、どこまで関与しているのですか?どこからどこまでがあなたの方策で、どこから先が、個人の意志による行動なのか……。私には把握できません」
全てが彼の手の内、ということは無いだろう。さすがに無理がある。けれど、「一体どこまでが」ということが分からない以上、全て疑わしいのだ。何もかも、オールド・ワンが用意した舞台の上で動く、セットや役者に過ぎないのではないかと。
これが、オールド・ワンが多くの人間を統率できた理由だ、とアンリは考えている。誰も実体を掴めない。だからこそ、付け入る隙を見せない。まるで、霞みを相手に組み手をするようなものである。
「不満かい?」
身を起して、オールド・ワンはテーブルの上に肘をついた。そのままアンリの顔を覗き込む。
「いいえ」
変わらない、とアンリは思った。この男は自分を拾った時から何も変わらない。覗きこんでくるオールド・ワンの顔は、初めて自分に手を差し出してきた時と同じ顔をしている。
もうこれで終わりか……。最後に見る風景が、戦火の煙が立ちこめる灰色の空とは、つまらない。でも、所々澄み渡る部分が見えただけでも、何か得したような気分になる。そうやって、後は死を待つばかりになったアンリの前に現れたのが、オールド・ワンだった。
「ぼくは、どっちでもいいんだけどね」
そう言って、彼は選択を迫ってきた。自分の手を取るか、死神の手を取るか。
アンリ自身も、どちらでも良かった。しかし、戦場で悠然と立つこの男に少しだけ興味があって、彼に選ばれる道を選んだ。
結果は想像以上だった。オールド・ワンは、駒として使われるのに申し分無い軍師だった。
「珍しいよね、アンリがぼくのやることに疑問を持つなんて。でも、一度だけあったかな。拾ったばっかりの頃。何でだったか忘れたけどさ。多分、あれっきりだよ」
言われても、アンリは思い出せない。そんな昔のことを覚えておく必要が、彼には無かった。ただ忠実に課題をこなす、目標をクリアする為に必要な道筋を組み立てる。それがアンリにとって大事なことだったし、これがアンリの生き方そのものと言えた。
「ぼくが何故、この任務に君を選んだか分かる?」
「扱い易い人間だからでは?」
「逆だね。君が一番、読めないんだよ」
息を呑んで黙るアンリを前に、オールド・ワンは笑った。
「アインスっていう子とはどう?上手くやってる?」
急に振られた別の話題にも、アンリは慌てずに答えた。
「問題ありません」
「一緒にいて楽しい?」
「分かりません」
「違うって言わないんだ?」
「…………」
「はっきりしないなぁ、アンリらしくないよ」
「判断力が鈍った、ということかも知れません」
「それか、君が成長したっていうことかも。もしかすると君の言う通り、ただの退化なのかも知れないけどね」
「どちらだとしても、こうして判断に迷うことに、意味があるでしょうか?」
「そんなことわざわざ訊くなんて、君らしくないな。迷っても、必ず何らかの決断する。君はいつもそうしてきただろ?多分、今の君は……判断に迷ってるんじゃなくて、不安なんだと思う。判断することを怖がっている。君が答えを欲しがるのは、いつだってそういう時だよ」
そうなのだろうか。彼の言うことに納得はできない。けれど、はっきり否定できる根拠も無かった。
そろそろ停車場へ向かう時間だった。オールド・ワンが、席を立つアンリに握手を求める。
「いつでも帰っておいで。親ってのはさ、子どもの成長を見るのが楽しみな生き物なんだから。どういう形でもね」
アンリはオールド・ワンが父だと思ったことは無い。もちろん、一緒に食事を取ったし、小さい頃は風呂に入ったり、まだ字が読めなかった時には、本を読み聞かせたりしてもらった。
ただ、どちらかと言うと、アンリは彼のことを恩人だと思っている。なので、オールド・ワンの言葉は意外だった。
「悲しいなぁ、ぼくのこと、そういう風に思っていてくれなかったのか」
アンリが目を瞠ったのを見て気づいたのだろう、オールド・ワンは苦笑しながら言った。
「私のことを、一番読みづらいと仰いましたね。この言葉の意味が、よく分かりませんでした」
「ああ、それね。簡単に言うとさ、『楽しみにしてるよ』ってこと。期待してるって言ってもいいのかな。君が一番、大穴だと思うんだよね。まぁ、そういうことだよ」
少年のように屈託無く笑って、オールド・ワンは手を離した。そのまま手を振って、アンリを見送ろうとする。
「アンリ、ぼくに拾われたこと……後悔してる?」
「いいえ」
そんなことをオールド・ワンに聞かれたのは初めてだった。それでもすげない表情を変えずに、アンリは答える。
「アインスといると楽しい?」
「……分かりません」
「もっと、彼のことを見ていたいと思う?」
どうだろう?アンリは思い出す。アインスは言っていた。最高のゲームを、自分とやらないかと。一体どういう自信があって、そう言ったのかは分からない。
ただ、言ったことは必ずやる。アインスはそういう男だった。そう思い出した時、アンリの答えは自然と出ていた。
「できることであれば」




