第一章 五話
目が覚めたら朝だった、と思ったらカーテンの隙間から入ってくる日差しは強い。もう昼だった。
「しまった……」
俺は素早く身を起こし、朝の内に片づけておくつもりだった洗濯カゴの中身に目をやった。しかし、ごっそり中身が消えている。
「!?」
俺は慌ててベッドから飛び降り、カゴに手を伸ばしたのと同時に声がした。
「目が覚めましたか?」
シュンシュンと、キッチンで湯気の立つ音がする。テーブルの上には揃いの食器が二つ並び、その中にはサラダが行儀よく盛られていた。
「すみません勝手に野菜を使って。あと、お金もちょっとだけ借りていきました」
何をしている。カゴの中身はどうした?何故こんなことを――?
どれから言うべきか迷って、結局どれも言えなかった。
「今日はいいお天気ですね。早くカーテンを開けちゃいましょう」
そう言って目の前の男は、カタロスは笑う。
あの日――俺がカタロスを連れていった時、オールド・ワンは言った。
「カタロスくんと君に家に泊めてあげてもらえない?」
奴が出してきた条件はそれだけだった。理由は分からなかった。奴はただ、俺に金だけ寄越して笑った。
「まずは一か月。一か月経ったらまたおいで」
相変わらず人好きがしそうでいて、付け入る隙のない笑顔だった。
さっぱり理由が分からなかったが、オールド・ワンの言い方は確信に満ちているようだった。
奴は何かを期待している。少なくとも、俺とカタロスを一緒に生活させることで、それが起きるのだと確信している。しかしそれが何なのかは全く分からない。
だから苦手なんだ。
あいつも、あいつが見せる笑顔も。近くで見ているのに底が知れない。
俺とカタロスは向かい合って、スープの皿をつついていた。スープは美味かった。手料理を自宅で食べるのは久しぶりだった。
「この皿どうしたんだ?」
俺はスプーンでカタロスの皿を指し示す。この部屋には食器が一つずつしかない。この部屋に住むのは俺一人なのだから当然だった。
「さっき材料を買いに行った時に、一緒に買ったんです。食器棚の中によく似たお皿があったのを思い出したんで、これにしました」
そんなことは訊いていない。が、確かによく似た皿だと思った。カタロスは少し困ったような顔で笑いながら言う。
「あの食器棚、大きいのにお皿が一つずつしかないなんて、寂しいですよ」
そんなの、俺の勝手だろ。
「食べたものは置いておいてください。僕が片付けますから」
そう言ってカタロスは、俺より先に席を立った。
食べ終えた後の食器は軽く、片づける為にシンクへ向かった。あいつは放っておけと言っていたけど――。俺はシンクに水を張って食器を入れる。二人分の食器を収めたシンクは狭く見えた。
カタロスは窓枠に手をかけているらしく、キリキリと音と立てて窓を開けた。そう言えば、窓を開けるのは久しぶりだった。遮るもののない陽の光が床を打ち付ける。
「あ、それと洗濯物」
洗っておきましたら干しましょう。そう言って、カタロスは俺の後ろを通りすがっていった。洗濯物は列をなしてたなびく。風に吹かれて、思い思いの方向へはためいていた。
「…………」
いつも自分でしていたそれを他人がするのを見るのは、妙な気分だった。
部屋に残してくるつもりだったがついていくと言うので、俺はカタロスと一緒に街を出歩くことにした。仮にも脱獄者なのだから外をうろつかない方がいいと思ったが、そもそもこいつの顔を知っている人間はほぼ皆無らしいので、そんな心配もいらないという。
矢張りおかしい。こういう状況が発生した時の為にも、看守は囚人の顔を把握しておくべきなのだ。
カタロスの脱獄から二日経った。それなのに指名手配書が出回ることもなく、脱獄者が出たというニュースさえ流れない。
「脱獄したことさえ知られるのはまずい」というのことなのか……。つまり、存在を知られることさえ憚れると?そうとしか思えなかった。
「わっと」
後ろで間抜た声がした。カタロスが通りすがりの人間とぶつかったらしい。
「何やってんだよ」
冷たくそう言っても、カタロスに堪えた様子はない。振り返る俺を見て、カタロスは照れたように笑たった。
「いやぁ……こうやって長い間出歩くのも久しぶりで」
それはそうだろう。あの狭い監獄の中では、三歩も歩けばすぐに壁にぶつかってしまう。どれだけあの中で鍛練をしていたとしても、長時間の歩行に足がついていけないのは当然だった。
「(久し振りって……いつからあの中に居たんだ?)」
カタロスはまだ若い……ように見える。いくら多く見積もっても、まだ二十代のはずだ。もしこいつが二十代前半だとしたら、かなり早い時期からあの刑務所の中にいたことになる。
十代やそこらで、刑期一万年を宣告される。
一体どうすればそうなるのか。
見た限り、そうした過去の片鱗さえ見せないカタロスだが、警戒するに越したことはない。俺のそんな懸念とは関係なく、語りかけるカタロスの声は呑気で、しかもまた余所見をして、通りの向こうから走ってきた子どもとぶつかりそうになっていた。俺は慌ててカタロスの腕を引っ張る。
「おっとっと」
よろけたカタロスの身体は――見た目はひょろっちくても――それなりに、年相応を思わせる重量感があった。予想外の重さが身体にかかり、危うく俺まで転びそうになる。
それを悟られまいと平静を装い、通りの端までカタロスを引っぱった。そしてそのまま前を歩き始めようとする俺を、カタロスの声が呼び止める。
「あ、そうだ」
振り返ると、カタロスはふふっと短く笑った。
「どうでしょう?この服」
そう言ってカタロスは、着ているコートの襟をつまみ上げる。牢から身一つで出てきたカタロスは、当然着替えを持っていなかった。今カタロスが着ているのはオールド・ワンのお古だ。オールド・ワンは「確かここにあったはずなんだけど」と言って、長い間開けた様子のないクローゼットからこの服を取り出した。「いい感じだろう?」と奴が言う通り、シルエットはシンプルながら、刺繍された紋様は美しかった。
手触りも上等。まるで四、五百年前の貴族が着ていたような服だった。長身のオールド・ワンが着ていたコートは、カタロスの身体にぴったりフィットしていた。
よく似合っている。すれ違う女どもが面白いくらいに、カタロスの方を振り返る。控え目な、つまり飾る感じのない小奇麗な顔立ち、なんとなく奴を取り囲む上品な雰囲気、自然な笑顔、加えて長身。女にしてみればこれ以上ないくらい、都合よく作られた存在なのだろう。もっとも中身は、シャツのボタンのかけ違いに、最後のボタンに手をかけてから気づくような子どもなのだが。
「別に……。お前だって、それが良いって言って選んだんだろ」
「ええ」
「まぁ、悪くない」
カタロスはにっこりと笑った。そして思い出したように話しはじめる。
「今すれ違った人……黒いローブを被ってましたね」
「ああ、万密院の連中だろ」
俺は吐き捨てるように言った。
「万密院……」
カタロスはおっとりと繰り返した。
「ああ。『いつか救世主がこの世界に現れる』とか説き伏せる、頭のいかれた連中のことさ」
万密院が信奉するのは、神ではなく「救世主」だ。この街には「神によって一度滅びた」という伝説がある。万密院は「救世主が不在であった為、神はこの地を焼き払われた。『救世主の到来』により、悲劇の繰り返しは避けられる」としている。
普通、救世主というと「神の遣わしたる御子」ということになるが、万密院はあくまで「救世主は神の手によってではなく、人の中から生まれてくる」としていた。
また、神の全能性を否定している為、万密院は商業による繁栄を認めていた。むしろ、奨励している。しかしそれも「いずれ来る救世主の為であれ」と説いて、万密院が――技術革新、及びそれによる世界の発展の為にという名目で設置した――院立研究所に納税するよう、商人達に強いている。
商人に技術や道具を与え、それを利用した商売で生じた利益を回収する。それが万密院のやり方だった。ただ、それは裏での話で、表向きは霊験あらたかな組織として認知されている。特に貧民層は、万密院の教えに魅力を感じるらしい。
「救世主の到来により、真に人類は救われる」という他力本願な教えは、弱者が掴む藁としては最適なものなのだろう。そんな風だから搾取されるとも知らずに。
この国は議会制を敷いている。王の存在は形骸化し、完全なお飾りだ。金持ちの好感を買って議席を増やそうとする政党から援助を受け、商人達からは「協力」という形で道具を与えて金を巻き上げる。堅実ながら賢い万密院のビジネスモデルが、そこにあった。
そんなことを話してやると、カタロスは感心したように洩らした。
「へぇ……。随分詳しいんですね」
「ふん……」
まぁ、それはそうだろう。ただ、思い出せることはそれほど多くない。
俺が万密院の人間だったのは、本当にほんのひと時のことだったのだ。