第三章 四十九話
キンドルガルデンから最寄の町まで馬を使い、その先は鉄道で移動することにした。街に着いたのは、キンドルガルデンを出て半日後のことだ。宿を取って部屋から案内されるまでの間、夕食を囲む間、駅で切符を買う間。誰から言い始めたわけでも無いのに、全員黙ってそれらの時間を過ごした。互いに目も合わせない。
停車場に止まった列車は旧式だった。列車が一般的に使われるようになったのはここ最近だが、それよりも前に、列車そのものは存在していた。二十年ほど前からあったらしい。主に軍事用として使われていた。こいつはお役御免になって、こんな片田舎で余生を過ごしている。優雅なものだ。とても血と硝煙の中を駆け抜けた老兵とは思えない。内装も旅客用に改装され、食堂車まで付いている。
それぞれ無言で席に座り、誰彼となく窓の外を見始めた。誰からというわけでもなく目を逸らして、いつからともなく、寝息が立ち始めた。カタロスとフリードだ。カタロスはともかく、フリードが居眠りをするのは意外だった。ジェニーのことが心配なのではないのか?いや、思い返せば、フリードはここに来るまでの間も冷静だった。むしろ、静かすぎるくらいだ。それが彼なりの心配の仕方なのか、単に恐れを抱いて思考停止してしまっているだけなのか、俺には分からない。眠ってしまったのは、単に今になって疲れが出ただけなのかも知れない。
ふと喉が渇いて、食堂車へ行こうと席を立った。瞬間、列車が揺れて体が傾く。慌てて俺は、隣に座っているフリードの膝に手をついてバランスを取った。
すると……まるで、銃を向けられて思わず身を引くような素早さ、つまり、反射的とも思えるような速さで、フリードが俺の手首を掴んだ。
俺は唾を呑んで、フリードを見遣る。
「…………」
フリードは寝ている。寝ぼけて俺の手首を掴んだのだ。指を触られた赤ん坊が思わず相手の指を握り返すのと同じ、無意識の動作だったのだ。(もちろん、俺にそんな経験は無かった。あくまでこれは、ジェットから聞いた話だ)
「(ジェットね……)」
自分の方が長く組織にいるからと、常に兄貴風を吹かすうっとうしい男。うっとうしいが、嫌いにはなれなかった。好きになろうともしなかったけど。
それなのに、奴のことを思い出す時はいつも、奴が俺を呼ぶ所ばかり思い出していた。
そう思うのとほぼ同時に、フリードが目を覚ました。
「ジェニー……」
そして、奴の第一声がこれだった。
一体何をどう見間違えてそうなったんだ?俺とあの女……腹立たしいことだが認めてやれば、あの女の方がずっと背が高い。おまけに奴は金髪で俺は黒髪だ。似ても似つかない。
「ジェニー、どこ……?」
どうやら、フリードの意識は夢の中に置き去りになったままらしい。
「……あぁ」
俺をまじまじと見つめてようやく我に返ったフリードは、慌てて俺の手を離した。
「すまない」
「必死だったな」
フリードの手の動きは、俺に腕を引く隙を全く与えなかった。自慢じゃないが、俺の仕事は専ら暗殺と偵察だった。身を隠すこと、かわすことには人一倍長けているつもりだ。
能力の差を埋めるものがあるとすれば、それは真剣さだ。必死さとも言う。
「夢でも見たか?」
まだこちらをまじまじと見つめるフリードは、怖い夢を見て親に泣きつく子どものような顔だった。これは俺自身、記憶がある。恥ずかしい話だが、まだカムラッドに拾われたばかり頃のことだ。その時は仕方なく、ジェットの慰めの世話になった。と言っても、夜通し話をしただけだったが。
「……俺がキンドルガルデンに来た時のこと。まだ調査隊に加わる前、ジェニーと初めて会った時」
行き倒れたフリードを引きずって大人達に助けを求めたのは、ジェニーだったと言う。
「俺は子どもだったから、まだ知らなかった。俺が見ているものは、みんなには見えていないって」
ここで誰が死んだ、これは誰が使っていた物だ。自分が街に来る前にあったことを、フリードはどんどん言い当てた。街の住人はフリードから遠ざかった。ただ一人、ジェニーだけがフリードの話相手だった。もっともジェニーは、おままごとで「子ども」の役をやってくれる男の子が欲しかっただけらしい。確かにそんな役をやりたがる男はいなかっただろう。
フリードが木登りをしたことが無いと知ると、ジェニーは彼の手を引いて丘の上を駆け上がった。フリードが砂遊びを知らないと言うと、泥だらけになりながらトンネルを掘る方法を教えた。
「ここからちゃんと相手の顔が見えれば、穴は完成よ」
そう言いながら「覗き合い」ごっこを、砂場でよくやったと言う。
いつだってフリーの手を引くのは、ジェニーだった。彼女だけがフリードのことを、友人の名前として呼んだ。
「ジェニーが、どこかに行く夢を見た」
フリードは、自分の手を離してそのまま遠ざかる彼女の背中を追いかけたという。距離は埋まるどころか、ひたすら開ていく。
まるで自分が現実にいることを確かめているように、それが夢であったと確認するように、フリードはすがるような瞳で俺を見ていた。
「お前もあの女も、どこにも行かないよ」
そう、どこにも行かないのだ。死んだ時は、ただ終わるだけ。ジェットの死体を見た時に思ったものだ。ジェットはここにいる。でも、俺と奴との距離はあまりにも遠い。こんなに近くに居て、手を触れることもできるのに。
「まだイブリースに着くまで時間はある。休んでおけ」
そう言って俺は、落ち着かない様子のフリードの横に座った。水を取りに行くつもりだったが、それは後でいい。今のフリードは、一人にしておくと何をし始めるか分からない。多分それは、本人が一番良く分かっている。だからこそ、俺が席に座ったことに対して何も言わなかった。この狭くて何も無い列車の中、俺が用があって席を立ったことくらい、すぐ分かるはずなのに。
「……次に目が覚めた時は、もう大丈夫。ごめん」
俺は、その言葉を聞かなかったことにした。再びフリードは眠り始める。
手を引かれた時の記憶。俺が思い出すのは、いつも、ジェットが俺の前を行く時だ。振り返って奴は言う。俺の手を握りながら、「俺の方がお兄ちゃんだから」だと言って。
「!」
ぎくりとして振り向くと、フリードが俺の手を握っていた。また夢を見ているのか、無意識なのかは分からない。やっぱり、反射でやっているのかも知れない。手がそこにあれば、思わず握ってしまうのだろう。
俺が思い出すのは、ジェットに手を引かれて、名前を呼ばれた時の記憶だ。フリードもそうなのだろう。思い出のシンボルとは、記憶に留めたい体験そのものではない、こういう些細な何かだったりする。