第2章 四十一話
午後の診察が終わったメレグは、レストランへ向かった。最近は、どこに居てもオールド・ワンの視線を感じる。どこか人の居る所で気を紛らわせたい。そう思って、メレグはわざわざ一駅先の店を選んだ。と言っても、適当に目についた店に入っただけだ。何か頼んで、出来る限り、ここで気分を落ちつけてから帰りたい。パスタと前菜、食後に紅茶を頼んで、メレグは窓の外を見る。
カタロスの話だと、万密院の中では、内部分裂まで起きそうな気配がある。危機的状況の時こそ、人は団結すべきだが、えてして結果は逆になる。一番の原因は「相手への不信」だろう。元々万密院は、規則・恐怖・利害で統制された組織である。どれか一点でも欠ければ、互いが互いを食い合うようにして崩壊するだろう。利害関係を失った者は、他に先んじて利益を確保しようとし、恐怖を乗り越えた者は恐怖の根源を断つことを考え、規則から脱却した者はどんな手段を使っても自分を守ろうとする。どれにしろ、万密院崩壊の一手になりえる。
既に食事は終え、二杯目の紅茶に手をつけていたメレグの所へ、ボーイが寄ってきた。まだメレグのポットには、十分な量の紅茶が入っている。
「……何か?」
「こちらを」
そう言ってボーイは、一揃いのカップとソーサーをテーブルの上に差し出す。ミルクも用意されていた。メレグはストレート派だ。滅多にミルクは入れない。
そこで
「紅茶だって、聞いたからさ」
聞きなれた声がした。
「だから、自分で頼んで持ってきた」
デカンタの中で、淹れたてのコーヒーが波打っている。色は、向こう側を全く見通せないストレートの黒だ。
「カタロスくん達は、無事ロックイットを脱出したよ」
コーヒーの入ったデカンタを片手に、オールド・ワンが微笑んだ。
不運は唐突に訪れるが、オールド・ワンは、彼自身がそうしたいと思った時に訪ねてくる。彼は、気まぐれのような不運と違って、狙った獲物を射止めるまで追い求める。
自分にそうできる力があると知っているからだ。
「不思議に思っていたんですが」
「何?」
最初からそこが自分の席だったように、オールド・ワンはカップにコーヒーを継ぎ足している。
「どうしてあなたは、彼らが捕えられるのを阻止できなかったのですか?あなたの『目』が、彼らを監視していたはずです。だからこそあなたは、彼らに迫る追っ手を、全て返り討ちにすることができた」
「あれ?知ってたんだ。ぼくとしては、影から救いの手を差し伸べるあしながおじさんのつもりで、二人には黙ってたんだけどな」
「ジェット氏に追っ手が来ていたなら、当然、彼らにも刺し向けられていたでしょう。それなのに彼らの生活には何の変化も無く、むしろ、ジェット氏が死ぬまで、自分達に刺客を向けられていることに気付いていないようでした」
「その言葉、半分は予想で、半分は推測って所だね」
「ええ。ですが、あなたが今、事実であることを認めてくれました」
「そうだね。でもそうだとして、そのことに何の意味があるだろう?」
オールド・ワンはポケットに手を突っ込む。「不作法な」とメレグが注意する前に、ポケットに突っ込んだ彼の右手が、テーブルの上に差し出された。その指の間からこぼれてきたのは――
「サイコロ……?」
二組みのサイコロだった。サイコロはテーブルの上を転がって、メレグの目の前で止まる。
「ねえメレグちゃん。ゲームを楽しむなら、君はどの人になりたい?観客?それともプレイヤー?」
「…………」
「ぼくの一族は観客になることを選んだ。ラジオと一緒でね、飽きるのが嫌だからたくさん番組が欲しいってんで、世界のあちこちに『目』を放っている。世界は大きな舞台で、その中で人々はヒーローであり、ヒロインであり、ヒールであり、エキストラだ。誰かの住むアパートも由緒ある遺跡も、彼らにとっては、舞台の上にあるセットに過ぎない。選挙や戦争はイベントの一つだし、人々の噂話はこれから起こる事件のイントロダクションで、何気ない人々の仕草全てが伏線になりえる。ワールドワイドで変わり続ける、終わりの無い番組の誕生だ。全世界をリアルタイムで中継中、ってとこだね」
巨大スクリーンと、辺りを覆い尽くすほど存在する映写機。そんなものを、メレグは想像する。気に入らない映像はカット、もしくは上映中止だ。そのままフィルムを入れ替えてやればいい。
「でもね、それじゃ面白くないんだよ。ひたすら長いだけのフィルムを見させられるなんて、ぼくには耐えられない」
オールドワンはテーブルの上からナプキンを一枚とって、そこにマス目を描いた。すごろく、という奴だろう。あみだのようになったマス目が並んでいる。オールド・ワンはサイコロを一つまみして、手の平の中で転がす。
「一番楽しいのはどれだろう。観客?それともプレイヤー?」
オールド・ワンはテーブルの上にある入れ物から角砂糖を二つ取り出して、マス目の上に載せた。角砂糖を駒に見立てているのだろう。
「違うね。ゲームマスターだよ。ゲームの創造主が、一番楽しい」
安全圏でスリルを楽しむ観客。ゴールに待つ報酬を目指すプレイヤー。創造主はプレイヤーの道のりに、様々な障害を仕掛ける。
オールド・ワンは、サイコロを振った。創造主が作る道の上を、角砂糖は進む。神の定める法に則り、オールド・ワンが用意したサイコロの出す目に従って。