第2章 四十話
アンリは研究塔の階段を昇っていた。謹慎期間中は訓練もできないのですることが無い。左手には、昨日燃えた花の代わりの百合の束。これは研究塔の敷地内で育った人工植物だ。既に地上には、自然発生の百合は存在しない。
「失礼します」
そう言ってノックしながら、アンリは中の住人の返事を待つ。
「はいはい」
最近投げやりになってきたアインスの返事を聞いて、アンリはそっと扉を開けた。
部屋の中に、アインスが居た。ただしその視線は、窓の外を向いている。ここ一カ月くらい、アインスが窓の外を見ていることが度々あった。
「じゃあ、やろうか」
そう言って、アインスはようやくアンリを振り返った。そして、サイドテーブル置きっ放しになっていることが常になったチェス盤を指差す。
アンリがテロリストとアインスに知れて一日。アンリの身の回りは、何一つ変わらなかった。それが二日、三日過ぎても、矢張り同じだった。
「告発されないのですか。私を」
ナイトの駒を動かしながら、アンリは淡々と訊ねる。アインスは駒を進めるのをためらう素振りを見せたが、質問には間髪入れずに答えた。
「そんなことできないよ」
「何故です?」
「ゲームの相手を失くすから」
「ゲームの相手ですか。どちらかというと、私はゲームの駒ですが」
「……前から思ってたんだけどさ、チェス駒の形って、何か意味があるの?」
「一応。必ずしも、駒の動きと一致する由来ではありませんが。それにより重要なのは、駒ごとに役割があるということです」
「役割?」
「一個軍隊築くのであれば、役割の発生は必然です。スポーツでは『ポジション』と呼ばれます」
「ふーん……。そういえば、訊いたこと無かったけど、アンリは、エペの中ではどういうポジションなの?」
「遊撃兵ですね。ゼーノ隊長が軍師、イズルが偵察兵、ルーチェが白兵、リゼルグが護衛兵、衛生兵と遠戦兵は別部隊です。隊長自身は火戦も得意なようですね。自ら前線に立つことは、あまりありませんが。
エペは、このように、五、六人の人員によって編成される『武隊』です。こうした数人での集まりですら、行動を共にするとなれば、役割が必要になる」
「役割ね……。僕はスポーツをしたことがないし、生まれてこの方ずっと一人だったから、よく分からないな」
「ゲームをする上で重要なのは、『誰を倒すか』ということと、『誰と一緒に戦うか』、です。個人の能力は合わさるとその倍以上の効果を発揮することがあるし、足の引っ張り合いにしかならないこともある。自分が誰に挑んでいるのか、今一緒にいる仲間と自分に何ができるのか、よくよく知ることで、勝利への道筋を作ることができます」
「なるほどね。チェスと同じ、か」
「まさしく」
「何で君が自分のことを駒って言うのか、分かったよ。分かった気がしてるだけかも知れないけど」
「そう真意から遠くもないでしょう」
「まあいいや。要は、駒も人も、使い方次第ってことでしょ」
「ええ。ですから、良き駒の使い手を見つけることも、駒にとっては重要な事です」
「それが君の言う、『あの男』ってわけ?」
「恐らく。今まで見た中では、あの男が最良のプレイヤーです」
「その男が君に、僕を殺すように言ったわけ?」
駒を摘んだまま――アンリは伏せた瞳を上げて、アインスを見上げた。そのまま駒を盤面に置く。相手のクイーンから反れるように。
「一瞬だけど、さっきアンリが『告発されないのですか』って言った時さ、少しだけ殺意を感じたんだよね。基本的に僕って、人からは、『恐れ』『殺意』『哀れみ』しか向けられないからさ。こういうことには敏感なんだよね。特に殺意はさ、命に関わるじゃない。まぁ、どれを向けられても相手を殺しちゃうけどさ」
君が初めてだよと言って、アインスは笑った。
「僕に殺意を向けて殺されなかったのは」
アインスのやせぎすの指が、素早くアンリの手首を掴んだ。記憶は一瞬で読めるらしく、抵抗しても無駄なようだった。
「へーぇ。君は、僕と心中したって構わないと、そう思ってたのか。もし任務に失敗すれば、自爆して、僕もろとも消えろ。そんな要求を呑むなんて、矛盾してるよ。生きる為の力が欲しくて駒をやってるんでしょう?」
「さて、私をどうされますか」
明らかに追い詰められる側にあっても、アンリは淡々としていた。
「ここまで露見したわけです。私がスパイであること、私があなたを殺すことも厭わないこと……。さすがにあなたも安穏としてはいられないでしょう」
「…………」
「あなたの能力で私を殺すことは容易い。あの男は駒を失う。私はただ死ぬだけ。あなたが躊躇する理由は無い。新しい遊び相手は、上に要求すれば用意してもらえるかも知れません」
「……ふざけるな」
一瞬、何が起きたのか、アンリには分からなかった。やがて、初めて聞くアインスの罵声に――アンリは口を閉じた。
アインスは、今までアンリが見てきたどの表情よりも凶暴に、感情をむき出しにしていた。
「君は僕を恐れたり、哀れんだりしない。おべっかを使わない代わりに、蔑んだりもしない。僕とイーブンにゲームをしてくれるのは、君だけだ」
そのまま、アインスは顔を伏せった。
「君だけなんだよ……」
どうするべきか考え、やがてアンリは、結論を出した。
このままでいるしかないだろう。
自分には何もできないが、逆に、何もしない方がいいように思える。
よく分からないが、そんな気がする。
こういった気の迷いやあやふやな判断が、戦場での生き死にを致命的にする。
それを良く分かっているはずなのに、何故かアンリは、大人しくしていた。
「ただ死ぬだけなんて、言うなよ……」
しゃくり上げるアインスの声が聞こえる。
「……アンリは、頭がいいけど、馬鹿だよ」
この言葉にどう答えるべきか。アンリは、自分が的確な答えを返せるとは思えなかった。そして多分、ここで求められているのは、明確な「解答」ではないとも考えた。だから、正直に、思ったことを伝えた。
「……そうかも知れません」
数日が過ぎた。アンリが訪ねても、アインスはシーツに包まっているだけだった。更に二日過ぎて、ようやくアインスは、ベッドから体を起こした。
「おはよう」
早朝、まだ日差しの弱い折に訪ねると、アインスはすっかり目が覚めているようで、しっかりした口調でそう言った。
何があったのだろう?
しかし特に追求せず、アンリは花瓶に生けた花を取り替えた。サイドテーブルに置かれたチェス盤の上には、駒が並んでいる。
「?」
駒はどれも八の側に集められ、唯一白のキングだけ、一の側に置かれている。よって全ての駒が、白のキングの方を向いていることになる。敵対している、とも言える状態だ。
「ねえアンリ」
アンリがチェス盤に気づいたことを見計らったように、アインスが口を割った。
「最高の駒、最高のプレイヤー。最高のゲームをするのにはまだ一つ、何か足りないと思わない?」
え――?
アンリがその問いに考える暇もなく、アインスの白い手が、アンリの腕を掴んだ。アインスは、反対の手で、そっとチェス盤に手をかける。そして
ひっくり返した。
駒がパラパラと床に落ちる。駒は少しの反動を見せて、しかし、すぐ大人しくなる。アインスはチェス盤の角を、そっと持ち上げた。
「最高の舞台だよ。戦場って言ってもいいかも知れないけど」
多分、それが最初で最後だった。
アンリは思わず、身じろぎした。
初めてアインスに、未知を感じた。本能が回避しろと告げる。未知の何かを。
「やってみたくない?」
アンリの手を握るアインスの力は逃がすまいと、爪がアンリの手のひらに食い込むほど、力強い。
「やってみたくない?」
アインスは、笑って言った。
「最高のゲーム」