第2章 三十九話
ノックをする前に、声がした。
「入りなよ」
いつもそうだった。ノックする前に、必ず中から声をかけられる。
「いつもいいって、言ってるのに」
アインスはむくれながらアンリを出迎えた。アインスはシーツを頭からかぶってくるまっている。
アンリとルーチェは、手配犯を捕えることができなかった。よって、アンリはエペの任務から暫く外れることになり、今はアインスの訪問だけがアンリの仕事である。早い話が謹慎だ。
「ふーん、アンリでも失敗することがあるんだね」
「恐縮です」
「ねぇ、アンリ」
アインスはシーツから顔を出した。
「前にも言ったけど、僕の先祖はね、不老不死の研究の為に、色々な能力を持つ遺伝子と交配されてきたんだ。その結果、子孫の僕には、色んな能力が不完全な形で引き継がれた」
アインスが横目に花瓶の花を見遣ると、まるで蝋が溶けるように、花弁が燃え盛った。
「この能力も、本当は、大勢の人間をいっぺんに殺す為のものだった。でも僕の場合は、目の前にいる相手にしか効果がない。それも、一度に一人の相手にしか使えない。だから、兵器としての有用性は低い」
アンリはコップに入った水を、焼けた花弁にかけて消火する。花弁は縮れ、生前の姿は見る影も無かった。
「他にも、こんな能力がある」
そっとアインスは、コップを持ったアンリの手を握った。
「触れた相手の、記憶を読むことができる」
アンリが身を翻した時には遅く、アインスは得心が言ったように笑った。
「今までブラッシングを頼んでたのはただの気まぐれじゃなくてね、君の記憶を読みたかったからなんだ」
振り返っても、アンリは依然、仮面のような表情を崩さない。アインスは、もう一度笑った。
「君はテロリストだ。ここではない遠い所、今から十年近く前、少年兵として紛争を経験している。その時に君を拾った男がいて、彼が君を士官学校にやって、一人前の兵士に育てあげた。君は、ある時はゲリラ兵士として、諜報員として活躍した」
そうだろう?と言って、アインスは首を傾げる。
「二年前に起きた事件は、君が主犯だろう。祭りの最中に、教会が爆破されたっていう事件のことさ。本来、翌週に決行するはずだったのに、早まった部下が、先に事を起こしてしまった。君にとっても、これは、計算外の出来事だったんだ。それでも手際よく撤収させて、何の痕跡も残さなかったのは、素晴らしかったと思うけどね。その後、君は万密院の内情を探る為にエペに入隊した。ヘンドリクセンという、他人の身元を使ってね」
「……それで大体、私の記憶の全てですね」
「それでも、訊きたいことがあるんだよ。一つ目、君の本名は?」
「分かりません。拾われた時に、初めてヘンドリクセンという名前を与えられました」
「二つ目、どうしてテロリストになんか?」
「仕事の内容は、重要な問題ではありません。ただ、私を拾ったあの男の元でなら、自分の能力を最大限に活かせる。そう思いました」
「能力、ねぇ……」
「あの男風に言うなら、人生はゲームなのです。世の中にはルールがあって、誰もがその中でランクづけされる。弱肉強食、とも呼ばれるシステムです。その中で自由に動き回るには、より高いランクへ上がる為の『力』が必要です。
私は無力な少年兵でした。だから分かる。自分を生かすも殺すも、自分次第なのです。死んだ後に絵を評価される画家のように、埋もれたり認められなかったりした力は、無意味です。自分を生かす力と、それを発揮できる舞台だけが、私には必要なのです」
「それが……誰かの駒として生きるってこと?」
「駒だからこそ、誰に使われるかは、自分で選びます」
「ふぅん……」
アンリから顔を背けて、アインスは再びシーツに包まった。
「僕は自分で能力を選べない。使われる相手を選べない。この薄い扉一枚、突き破って外に出ることだってかなわないんだ。完全な負け試合だよ」
アンリが手を伸ばすと、それを察知したのか、アインスは更に身を丸くする。
「レストランで外食する。服屋で試着する。本屋で立ち読みする。夕食が用意された家へ帰る」
風呂で一日を回想する、明日着る服の準備をする、ぼんやり明日することを考えながら、眠りに就く。
「どこに行けば、そういう力が手に入るんだろう」
それから数日、アインスがゲームをやりたいと言いだすので、アンリはチェス盤を買って、研究塔を訪れた。
アインスは他にすることも無いせいか、教本を片手に、すぐ腕を上げていった。といっても、割と無鉄砲な駒の進め方をするせいで、アンリには敵わずにいる。それでもアインスは楽しいらしく、ベッドサイドには常にチェス盤が置かれていた。
「前は、こんなことを考えたことがなかった」
駒を進めながら、アインスは独り言のように漏らす。
「僕には、研究塔の中の出来事が全てだったからね。それさえも、全部壊れちゃえばいいって思ってたけど」
言いながら、アインスは窓の外を見た。万密院の建物が邪魔をして、街並を見ることはかなわない。
「アンリのせいかもね。言ってみれば、君は、外の国から来た人なわけだし」
黙って進めたアンリのナイトが、アインスのポーンを取った。
「……ねぇ、アンリ。ルールがあってランクがあるなら、どうすれば、高いランクに上がれるのかな」
「ゲームに勝つことです。ルールとランクだけでは、ゲームとは呼べません。その中での、ランクをめぐる争い。人はそれを、ゲームと呼びます」
「なるほどねぇ……」
「それが何か?」
「ねぇ、アンリ」
アインスのビショップが、アンリのナイトを取った。
アンリは、顔を上げる。
「ねぇアンリ、ゲームをしよう。それも、とっびきりに楽しい奴をさ」