第2章 三十八話
エペで士官候補生の育成を始めたこと、ゼーノがローンダインに見せた覚悟、ゼーノをいっぱしの士官に育て上げたローンダインの手腕。
どれが欠けても、自分が指揮官に成長することは無かった、とゼーノは思う。ゼーノには土壇場で覚悟を決められる腹があったし、運よくタイミングにも恵まれ、ローンダインという上司を得ることができた。有能な上司は部下の良い所を上手に引き出してやれる。優れたシェフと同じだ。彼らは材料を選ばない。そして、素材を一流の物に仕立て上げる。
ゼーノが士官学校をトップの成績で卒業したのは十四年程前、わずか一年で卒業するという偉業を成し遂げた。今もこの数字が最短記録になっている。しかも、ゼーノが貴族の家庭に生まれたのではない、平民出の子どもということも、彼の業績を伝説化させていた。
しかしそれらは、ほんの始まりに過ぎなかったのだとゼーノは知る。エペの門をくぐった後に、彼はようやく、ローンダインの真意を知った。
八年前のことだった。珍しくローンダインが外に出ようと言うので、二日の休暇を取り、彼とゼーノは隣の街へ来ていた。私服で出かけ、観光客が利用する警備が手薄な宿をあえて選んだのには、何かわけがあるのだろう。ゼーノはローンダインの行動を、冷静に分析していた。
二人は部屋を別々に取り、ローンダインは一番奥にある部屋を選んだ。その手前がゼーノの部屋になる。他の宿泊客を寄せ付けない配置だ。ゼーノは今、ローンダインの部屋にいる。
「万密院は民衆が期待するような組織ではない。逆だ。彼らは民衆の期待を利用している」
エペに正式に配属されて五年。ゼーノも、百人ほどの部隊を率いる立場になった。そのゼーノを前に、ローンダインが淡々と話す。
「万密院がヘリテージを利用するのは、人々の生活を豊かにする為ではない。人々の生活を豊かにするのは、ヘリテージを公に利用する口実が必要だからだ。俺達エペがそうであるようにな」
エペは自警団という名目で作られたが、その実態は、国家を相手取って渡り合える防衛力を持った軍隊である。それを公然と設立する為に、自ら「自警団」などという呼称をつけた。
しかし、街の警護はエペ全体の仕事の一割にも満たないし、つまる所、人員もその程度しか割かれていない。
ただ、エペの全容を知る者は万密院の中にしかいない。その上、エペに配属されるのは天涯孤独、あるいは社会から存在を抹殺された者と決められている。エペからの情報漏えいをシャットアウトする為だ。よって民衆は、この事実を知らない。
「お前も、研究塔を見たことがあるだろう」
万密院の敷地の外れにある塔のことだ。中に入ったことは無かったが、ゼーノも外観だけは見たことがある。用が無ければ、まず寄りつかない場所だ。塔に近付こうとすると、すぐ衛兵に呼び止められてしまう。常にその四方を衛兵達が囲っていた。
「あの場所が何の為にあるか知っているか。知らないだろう。俺もこの立場になってから、ようやく知った」
そこでゼーノも初めて知ることになった。研究塔での人体実験、そこで飼われるものの生活と末路。そして、何の為に実験が行われるのかを。
「馬鹿馬鹿しい……。不死の兵士など」
ゼーノがそう口にしたのは、心から、その発想が馬鹿馬鹿しいと思ったからだ。しかし、もしそれが実現したらと考えると、恐ろしくもある。
未だ研究の余地があるネフェリムの遺産、これからも発展するであろう技術。それらを囲い込み、私利私欲に利用する者。そして、その強欲者を守る為に必要な最強の軍隊。
何より恐ろしいのは、不死の軍隊が完成を見れば、万密院がそれらを意のままに操るのは、造作も無いであろうことだ。生命の理よりも、人の精神を御する方が容易い。
「万密院の上の連中……元老院は、本気で考えている。己らの不老不死化と、彼らを守る最強の軍隊を作ることをな。その為にヘリテージの研究、研究塔という檻がある。いずれはそこで、兵士の製造が始まるのだろう。既にあの場所で飼われている者達は、そのプロトタイプと言えるな」
「……何故その話を俺に?」
もしローンダインの口から割れたと知れば、ローンダインも無事では済まない。当然、話を聞かされたゼーノも相応の扱いを受けることになる。
とはいえ、ゼーノに恐れは無かった。元々ローンダインに拾われなければ捨てた命である。今更惜しいはずも無い。ただ、何故ローンダインが自分に話を聞かせたのかだけは、知りたかった。
「俺が心血を注いで尽くした万密院は、もうこの世に無い。今の万密院は、強欲な年寄り達を生かす為の巨大な揺りかごだ」
「それで……どうされるつもりです?」
ローンダインクラスの人間になれば、おいそれと万密院を抜けることはできない。その上、彼は万密院の真の目的を知っているのだ。一生を万密院で過ごさなければならないだろう。そう考えると、思考の行きつく先は多く無かった。
「糾弾されるのですか。万密院の行っていることを。あるいは……」
「謀反を起こすか」
謀反。その為の宛てはあるのだろうか。ローンダイン一人に、それほどの力があるとは思えない。
「……あなたは共犯者が欲しいのですか?」
「共犯者というよりは、後継者だな」
俺一人で謀反は起こせまい。そう言って、ローンダインは椅子から腰を浮かせた。
「イブリース。彼らとのパイプラインを持てれば、あるいは」
ローンダインの死は、その二日後に訪れる。彼は、夕暮れに鐘が四回鳴る頃、処刑された。理由は聞かされていない。知ったところで意味は無いだろう、とゼーノは思う。ただ、ローンダインが何をしたのかは大体察しがついた。その日以来、エペの隊員一人ひとりに、監視がつくようになったのだ。
万密院の情報、とりわけ研究塔での研究内容。それが外部に流出した恐れがある。新しい上司からゼーノがそう聞かされたのは、監視がつくのと、ほぼ同じ時期だった。
ゼーノは考える。本当にローンダインは、外部へ万密院の情報を売ったのだろうか。その答えは藪の中だ。とはいえ、ローンダインがそんなリスクを取ったとは思えないし、売り込むツテがあるとも思えなかった。
けれどそんなことは問題にならない。彼の目的は、あくまで万密院の動揺を誘うことだったのだろう。事実、その情報に踊らされたようで、一年間、万密院下における監視の目が厳しくなった。
そして今、再び万密院内部での不義が疑われている。今回の場合は、六年前とは訳が違う。実際に、咎負いが居なくなっているのだ。厳重に彼を管理していたが故に、疑われる者が非常に限定されてしまった。
ゼーノは、ローンダインの言葉を思い出す。彼が後継者が必要だと言った、その後のことを。
「もし俺に十分な力があったなら、万密院の中で騒ぎを起こした後を狙って謀反を起こすだろう。一瞬の隙、あるいは一分の綻びを狙うのだ」
咎負いの失踪は、もしかすると、ただの開幕ベルに過ぎないのかも知れない。誰かが、この混乱に乗じることを、狙っているのではないだろうか。
ローンダインはゼーノのことを後継者と呼んだ。彼がゼーノに継いで欲しかったものは、何なのだろう。
イブリースは、古くから万密院と対立してきた組織だ。イブリースもヘリテージを収集しているが、万密院と決定的に違うのはそのスタンス、「先人の過ちを繰り返さない」としていることだ。彼らがヘリテージを集めるのは、ヘリテージの悪用を防ぎ、「封印」することだった。
よって、真っ向から万密院と対立する。思想も違うから相容れない。万密院は私利私欲にヘリテージを利用しようとするが、イブリースはそれを阻止する為に活動している。
昔からその存在だけは分かっていたが、イブリースは表の歴史に決して出てこようとしなかった。その為、所在が全く掴めなかった。拠点の所在は定かではなく、もしかすると、定期的に移動しているのかも知れない。
ローンダインが彼らとパイプを持てなかったのは、立場上の理由は勿論、そうしたイブリースの性質のせいでもある。
ただ、イブリースと万密院が全面戦争を起こすのではないか、という噂もあった。ゼーノの知らない所では、着々と軍備の増強がされているらしい。何の為かは不明で、上からの情報は全く無い。
「…………」
ゼーノはカップに入ったコーヒーを口元に運んだ。カップの中はどす黒く、底が見えない。どれだけ砂糖を入れても、ブラックホールのようにそれを吸い込んで、跡形も無く消していく。
もし謀反を企てる人間が居たとして、自分はそのことを上層部に報告するだろうか。
多分、しないだろう。
万密院に忠誠を誓う自分は、ローンダインと共に死んだのだ。鐘が四つ鳴った、あの日から。
だからこそ、ルーチェ達の失敗も糾弾せずに目を瞑っている。
ゼーノは、カップに満ちたコーヒーを一気に飲み干す。舌の上を滑る僅かな甘みと、大多数を占める苦味が、たとえようも無く心地良かった。というより、今の心地をどう表現していいのか、彼自身にも分からなかった。