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第2章 三十七話

 アンリとルーチェが万密院を発って、五日経った。早ければ五日目の夜の内に帰ってくるはずだったが、彼らが戻ってきたのは、その三日後だった。八日目の夕方、第一武隊指揮官室に、出発した時と全く同じ姿のアンリとルーチェが帰還した。彼らが捕らえてくるはずの「彼」の姿は、どこにも無かった。

「(あの二人がぬかったとは考えにくい……)」

 ゼーノは茶を飲む時も食事をする時も、全て指揮官室の中で用を済ませていた。どうせ監視されているのだ。どこで食事しようか会話しようが大差ないのだが、結局この場所にいるのが一番落ち着く。

 この場所はゼーノが万密院に入ったばかりの頃にもあって、時間を見つけては、彼はこの部屋に通った。指揮官としてではない。士官として、上官と話をする為に訪れたのだ。

 今から十五年ほど前のことになる。ただの孤児だったゼーノを、一武隊の指揮官にまでのし上げたのは、この上官の力による所が大きいとゼーノは見ていた。

 今もゼーノは、自分の出身、生まれの親を知らない。育ての親は、ここから二十キロほど離れた集落に住んでいた猟師だ。とはいえ、既に集落は壊滅して存在せず、猟師の安否も知れないのだから、ゼーノに故郷と呼べる場所は無いと言える。

 行く宛ての無い孤児の行く末など知れているが、その中で彼は、最も可能性が低い道を選んだ。権力者の目に留まり、拾われたのである。


 冬も末、寒さが一年の中で一番厳しくなる季節、ゼーノは飢餓と寒さで意識を失いかけていた。廃屋の中でいくらか風を凌いでいるが防風も完璧ではない。体の疲れはとっくに限度を越えて、横たわっている石床の冷たさが、石のものなのか自分のものなのかさえ、よく分からなくなっていた。

 そこに、後に彼の上官となるジーク・ローンダインが現れたのは偶然だった。そしてそれは、偶然のまま終わるはずだった。

 ローンダインは総長の命を受けて、至急万密院に戻る途中だった。しかし不幸にも馬が負傷していた。代わりの馬を探そうにも場所が悪い。廃墟のど真ん中で、既に日も落ちた。しかも吹雪いている。その上、この場所は盗賊や戦災孤児達の巣窟だった。年長の孤児達が組織だって野盗まがいのことをしていることを、ローンダインはよく知っていた。連中に情けを見せた知り合いが何人もやられている。

 そして、お互いにそうした最悪の状況の中、ゼーノとローンダインは顔を合わせた。ゼーノは刃こぼれのした剣を、ローンダインは右手に銃を構えた状態で。

「消えろ。何もしなければ、こちらも命を取ることまでは考えぬ」

 痩せぎすで薄汚れたゼーノの全身を見れば、彼に抵抗する力が無いことは分かりきっていた。それでもローンダインは、ゼーノに厳しく当たった。彼らは徒党を組んでいるのだ。甘い顔をしてはならない。必ず連中はつけ上がる。ゼーノはじっと、ローンダインを見据えた。

「大人しく家の中に戻れ。そちらが何もしなければ、こちらも何もしない」

 繰り返した。それは多分、ローンダイン自身がそうなってほしいと思っているからだ。しかしゼーノは、両手で剣をひきずったまま、ローンダインに歩み寄ってくる。

「言葉が分からないのか、止まれ」

 慌てずローンダインは、手のひらを突き出して、これ以上寄るなというジェスチャーをした。ようやく歩みを止めたゼーノを見てほっとしたのも束の間、彼は、思いがけない光景を見た。

 ゼーノは手にした剣で、自分の右手を切り落とそうとした。

 ゼーノが手を切り落とすよりも、ローンダインが剣を奪う方が断然早い。ゼーノは剣を掠め取られた反動で、そのまま背中を地面に預けるように倒れた。

「なんということを……」

 ローンダインはひったくった剣を握りながら後ずさった。しかし、ゼーノが口を割ろうとしている様子を見て、すぐに立ち止まる。もぞもぞと動くゼーノが、自分の力で起き上がろうとしているのだと気づいて、ローンダインは思わず手を貸していた。

「何故あのようなことを」

 そして、ゼーノが身を起こすのと同時に訊ねていた。ゼーノはやつれた頬と、乾いた唇を動かして答える。

「昔、親父に教えてもらた……。相手に攻撃する気が無い時は……相手に、右手を差し出す……」

 それはローンダインも知っている。しかしそれは、挨拶をする時の話だ。利き手を見せ、武器と害意が無いことを相手に知らせる為の合図である。

「馬鹿者。右手を差し出すとは、そういう意味では無い。利き手を見せて武器を所持していないこと、利き手を預けることで相手への信頼を示すという意味だ」

「でもそれじゃ……信じてもらえない……。その程度じゃ、あんた……僕のこと、信じてくれないだろ……」

 それはその通りだった。今もローンダインは、ゼーノを信用してはいない。物陰から、ゼーノの仲間がこちらの様子を伺っているかも知れないのだ。旅人や商人からくすねた猟銃を、こちらに向けている可能性だってある。

「僕には金も無い、家も無い、親も無い。立派な血筋って奴も。孤児だから……赤の他人のあんたに、信用してもらえるようなものは何も無い……」

 ゼーノは、ゆっくり一言ずつ、ローンダインの目を見ながら喋る。

「僕があんたに見せられるのは、『覚悟』だけだ。それでしか、あんたに信じてもらえない」

 ゼーノがそう言って気を失うのと、ローンダインがゼーノの異変に気づいたのは、ほぼ同時だった。


 飢餓と空腹が限界に達していたゼーノを、ローンダインは付き人の馬車に載せてやり、ひとまずミルクを与えてやった。口を開け、喉の奥に流し込んでやる。ゼーノはもごもごと口を動かしているが、意識があるのかは分からなかった。

 気絶しているらしいのをいいことに、ローンダインはゼーノの持ち物を検めた。といっても、ゼーノは汚れた布の服を着たきりだ。他に武器や所持金、携帯食などは見当たらなかった。

「本当に丸腰で俺に向かってきたのか……」

 勿論、ゼーノが囮だったということも考えられる。こちらが油断した隙に、隠れている仲間が狙撃してくる可能性もあった。もっともそうだった所で、自分が囮になっていることをゼーノが知っていたかどうかは分からない。

「ローンダイン殿、この子どもはどうするのですか」

 部下に言われ、ようやくローンダインはその後の対応に困った。命の危機に思わずゼーノを馬車に乗せてしまったが、このまま連れ帰るわけにはいかない。門番にならいくらでも言い訳が立つが、総長の目はごまかせない。

「あと五百メートルもすれば、街にたどり着ける。ひとまず動ける馬を引いて、街まで歩くしかあるまい」

 ゼーノのことは街に着いてから考えよう。自分が助けた時点で、ゼーノは仲間内に戻りづらくなっているのだ。仲間からどんな疑いをかけられるか分からない。

 僅かな数の馬を引き、ローンダイン一行は、五百メートル先の街を目指した。


 宿を取ると、ゼーノを見た女将が、慌てて毛布を貸してくれた。さすがに汚れた格好のままベッドに寝かせるわけにもいかず、ゼーノは毛布に包まって床の上に寝ることになった。とはいえゼーノは気を失ったままだから、ローンダインが毛布に包めてやった。身体が温かくなってきたからか、ゼーノからすぅすぅと安らかな寝息が聞こえてくる。

「…………」

 他に部屋が無いというので、ローンダインとゼーノは一人部屋に泊った。付き人が「見張りが必要なのでは」と進言してきたが、ローンダインは断った。相手は息も絶え絶えの子どもである。心配あるまいと、そう言って返した。

 女将がスープを運んできたので、ローンダインはゼーノの頬を叩いた。「温かい内に飲め」と言ってやると、ようやくゼーノは目を覚ました。ゼーノはすぐに、セットでついてきたパンもたいらげた。そして、

「僕……助かったのか」

 今頃ゼーノは言った。おかしくて、思わずローンダインは噴き出す。

「当たり前だ」

「食い物もベッドもあるから、天国かと思った」

「ははは」

 ゼーノはきょろきょろ辺りを見回し、自分の身体をぺたぺたと触っている。まだ生きた心地がしていないのだろう。そして、自分を見ながら微笑んでいるローンダインに向かって言った。

「軍人さんでも、そういう風に笑うんだね」

「……ああ」

「これから、どうするの」

 それが問題だった。ローンダイン達だけなら国へ帰れる。国境もすぐそこだ。しかし、ゼーノはこのまま連れて行けない。彼を捕虜と偽るには若すぎる。まだゼーノは、十二、三歳と言ったところだろう。

「そう言えばお前、名前は?」

 まだお互いに名乗っていないことに気付いて、ローンダインは自分から名乗りをあげた。

「僕はゼーノ。親はそう呼んでくれた。本当の親じゃないけど」

「何か得意なことは?」

「狩り。よく父さんと一緒に、山で鹿とか猪を仕留めに行った」

「銃の腕に覚えはあるか?」

「空を飛んでるツバメでも撃ち落とせる自信がある」

「……その言葉、本当だな?」

「信じてくれていいよ」

 ローンダインは思わず、肩をすくめて小さく笑った。信じてくれと言ったかと思えば、信じてくれていいなどと、一体、何様のつもりなのだろうかと。

「どうしたの?」

「いや……」

 ゼーノは訝んでいたが、ローンダインは相変わらず笑い続けた。しかし、思い出したように佇まいを直す。

「私に考えがある。君を、我がグロワール・エペの士官候補生として受け入れたいと思うのだが、どうだろうか?」

「グロ……何?」

「グロワール・エペだ。その名は、『栄光の前に翳される剣』と言う。万密院直属の軍隊だ」

「軍隊……」

「表向きは自警団ということになっている。しかし、規律があって訓練された者のみが所属するのだから、軍隊と呼んで差し支えないだろう」

「……要するに人殺しか」

「確かに我々は、任務の内容によっては人も殺そう。しかし、我々にはルールがある。規律がある。裁判官は刑法に従って死刑を執行するが、誰も彼を人殺しとは呼ばないだろう」

「でも、あんたらの言うルールっていうのは、正義のことなんだろ」

「正義ではない。大義だ」

「大義?」

「正義とは良いもののことだ。だが、良いことが正しいこととは限るまい。しかし大義とは理屈で決められる。よって合理的だ」

「合理的な理由があるなら、殺されてもいい人間なんて、いるのかよ」

「殺すことが目的なのではない。ただ、手段にはなりえる」

「分かった。理屈はよく分からないけど、あんたがエペっていうものの為にすごく尽くしてるんだってことは、よく分かったよ」

「知った風な口を……。しかし賢いな。お前は」

「でも、僕……には、大義とか正義とか要らない」

「……では何を?」

「力がほしい」


 ゼーノとローンダインの出会いは偶然だった。それは間違いない。

 しかしその偶然をものにしたのは、紛れもなく、ゼーノ自身の力である。

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