第2章 三十四話
「その辺で話は済みましたかね?」
不意に聞こえてきた耳慣れない声に、イズルとリゼルグは振り返る。振り返るのはイズルの方が一瞬早い。
二人が声のする方を見ると文机があった。年代物らしく、据えた木の匂いがしそうだった。しかし持ち主の扱いが丁寧なのか、汚らしい印象はもちろん、傷一つすら無い。
「全く、人の部屋で殺すの殺さないの、物騒で適いませんわ」
その机の向こうから、ヌッと突き出す顔があった。丸眼鏡と肩にかかる細い白髪。レンズの奥でぬめぬめと光る瞳はまだ若い。そう、若さを感じさせるその表情が、白髪とひどく不釣合いだった。
「用が済んだんなら帰ってくださいよ。こちとら、徹夜で書架の整理してたんですから。お兄さん達がうるさくってもう、おちおち転寝もできません」
文句を言い言いしながら、男はあくびをする。イズルはすかさず懐に手をやった。
「わーわーわー!ちょっとちょっと、今あくびしてるでしょ!どう見たって丸腰でしょ!なんか物騒なモン取り出そうとするのやめてもらえます!?」
「本当にもう」とふてくされながら、男は頭を掻いてすっくと立ち上がった。大きい。木のように痩せ、まっすぐと伸びた躰は、百九十センチにわずか届かずと言ったところだ。年は二十代後半から三十代前半だろうか。
「うわ……でけ……」
立ち上がった男を見て更に半歩後ずさるイズルを見て、リゼルグはふっと噴出してしまう。
ジャックと豆の木という話を思い出す。ジャックが巨人に追いかけられる一幕があったはずだ。
「なんだよ」
「別に」
珍しく不機嫌につっかかってくるイズルをかわして、リゼルグは男の方を見た。
「失礼ですが、どなたですか。僕達はエトワール・エペの者です、僕はリゼルグで、こっちはイズルです」
リゼルグが丁重に挨拶をすると、男は気を良くしたのか、にんまりと笑う。
「そそ、まずは挨拶ですよ。基本はね……。本当にもう、いきなり武器を出すとか信じられませんよ……。って、自己紹介でしたね。アタシはミチザネと言います。はい、どうぞよろしく。ここで司書をしております」
「司書?」
「だってなんせここ、書架ですから。だからね、当然そこを管理する司書ってモンがいるわけです」
イズルは図書館に馴染みが無いのだろう、今一つピンとこないようだった。代わりにリゼルグが話を続ける。
「こんな広い場所を、たった一人で管理しているんですか?」
「まあね。そうそう本の出入りがあるわけじゃありませんから。アタシ一人でやらしてもらってますよ」
そう言ってミチザネは机の上に積んであった本に手を伸ばした。
「一生かかっても読みきれん本がここにはありますからね。ちっとも退屈しません」
「けれど今、徹夜で書架の整理をしていたと言いましたね?」
「お、お兄さん鋭い」
ミチザネはくつくつと笑った。
「アタシは好きですよ。そういう、ちゃんと人の話を良く聞く人がね」
ミチザネを腕を広げて、大仰にうんざりして見せた。
「ここ数日ね、お偉いさんがドタドターってここにやってきて、その辺の本棚、みーんなひっくり返していったんです。ほんと物盗りみたいにバッサバッサ片っ端から本棚しばいて、用が済んだらその辺に本を置いていっちゃうわけで、本当にもう、困ったもんですわ」
ミチザネは、ふぅとため息をついて、机の後ろにある肘掛椅子にどっかと座った。
「それはやっぱり……」
と言いかけて、リゼルグははっと口を噤んだ。脇腹にイズルの肘打ちを食らう。咎負いがいなくなったことは、極秘なのだ。
「そ、なんか咎負いとかいう」
「え……?」
リゼルグとイズルは目を瞠ったが、構わずミチザネは続けた。
「そうとかなんとか言って、散々人のねぐらを荒らしていきましたからね、彼ら。アタシ、ここに住んでるんですよ。本当に迷惑な話ですわ……」
「あんた、咎負いのこと知ってるのか?」
イズルは慎重に切り出す。
「知ってるも何も、見たことだってありますわ」
「!?」
「写真の中でだけですけどね」
リゼルグとイズルは顔を見合わせた。ふむ、とミチザネは首を傾げた。
「どうやらお兄さん方も、咎負いに御用があるようですね」
リゼルグは返答に困った。イズルも押し黙っている。
「いいんですよ、隠そうとしなくても。咎負いの身に何かあったらしいことは、なんとなく分かります。具体的なことはさっぱりですけど。そこはあえて訊ねません。ただ、お兄さん達が何か質問してくれれば、アタシも何か答えてあげられるかも知れません」
ミチザネはくつくつと笑いながら机の上に手を伸ばす。机の右角には、黄金色をした林檎の置物があった。それを、ミチザネのひょろ長い指が捕まえる。
「アタシは信用できますよ。万密院の中で、唯一『黄金の林檎』の管理を任されてる人間ですから。ご存知とは思いますけどね、万密院の歴史とそれが生み出してきた物に関する、全ての資料がここにしまわれてるんです。司書であるからには、重要な資料には、大概目を通しています。まして咎負いの情報はトップ中のトップクラスにシークレットで重要なものですからね。見聞の中でだけですが、アタシにもちょいちょい覚えがあります」
ミチザネは人差し指の先に林檎を載せて、くるくると回して見せた。
「お兄さん達がわざわざこんな所へ来たのは、咎負いの情報が欲しいからでしょう?ここはね、お兄さん達が思っているほど、簡単に出入りできる場所じゃないんです。ここへの出入りを許すとは、よっぽどの切羽詰ってのことでしょう。アタシでよければ、相談に乗りますよ」