第二章 二十五話
気配を感じて目を覚ますと、ユノー顔が目の前にあった。俺の肩に触れようとしていたらしい手を止めて、ユノーは笑う。
「声をかける前から目を覚まされるなんて……。僕も、まだまだですね」
そう言って、ユノーは俺の横で寝ているカタロスの肩をゆすり始めた。
あなた達に見てもらいたいものがあるのです――。
そう言うユノーに連れられて、俺とカタロスは外に出た。店の前を箒で掃除する店主と、手に取った芋に欠陥がないか丹念にチェックしている主婦……。すっかり見慣れた光景だった。
今まで思いもしなかった。こんな日常の風景に、目の馴染む日が来るなんて。
裏路地の陰に身を隠し、人を殺して食を得る。そんな生活をする俺が、子どもの手を引く主婦の後ろ姿を今、こんなにも「当たり前」に思える……。
街を出て、更に三十分程歩く。今まで街の外に出たことは無かった。カタロスも物珍しそうに周りを見渡す。そう、見渡せる程に広い。目の前に広がる、風に煽られるまま草木が揺れる草原――。ここが監獄と呼ばれる島であることを忘れてしまう。ユノーが俺達を連れてきた先は、巨大な塔の前だった。
「おはようございます」
ユノーはにこやかに、塔の前にいる男達に声をかける。そこにいる三人の男はみな、銃を構えていた。ライフルとマシンガンだ。手にしているものの物騒さとは正反対に、一人の男がニカっと笑う。
「ようユノーぼっちゃん。そいつらか?一週間前に、この島に流れ着いた奴ってのは」
「ええ。許可が下りましたので、この中にあるものを彼らに見せたいのですけど、通していただけますか?」
「あい分かった」
男はさっとどいて、塔の中に続く道を開ける。その中に入っていこうとするユノーに続いて塔の中に入って行こうとする俺を、道を譲った男が言った。
「いいか坊主達。くれぐれも、変な気を起こすんじゃねぇぜ」
「?」
男の言葉を聞いて怪訝がる俺の後ろを歩くカタロスは「ご苦労様です」と言って頭を下げる。男は再び、ニカっと笑った。
「ああやってロブさんは、初めてここに入る者を脅しつけているんです。『何事も最初が肝心』だそうで。彼も基本的にはいい人ですから、気にしないでください」
俺達に忠告した男の名前はロブと言うらしい。坊主頭にマシンガンを構えたマッチョな「いい人」か……。
「何か言いたげですね」
「別に」
俺とユノーがそんなやりとりをしていている間に、カタロスはキョロキョロしていた。俺も辺りを見回す。中から見ると、この建物の中に「あるべきはずのもの」がない。
階段がない。上へと続く階段がないのだ。俺は天井を見上げる。床から十メートルほどの所にそれが見えた。明らかに、塔の外観に合っていない高さだ。確実に「上の階」は存在している。
「こちらへ」
ユノーは、塔の中央にあり、塔の内部を貫くように立っている「支柱」のような物の前で立ち止まった。
「少々お待ちください。今『呼びます』」
ユノーは、細い指で支柱の表面に触れる。
そして――そう間も置かずに支柱は「開いた」。支柱の表面に入った一筋の線を境にして、支柱の壁が、左右に向かって五十センチずつほど開いたのだ。
目を瞠る俺と、逆に目を細めて興味深げに支柱を見つめるカタロスを見て、ユノーは笑った。
「どうぞこの中へ」
お入りください――。
ぽっかりと、扉のような形に口を開けた支柱の中へ、俺とカタロスは乗り込んだ。支柱の壁がするすると左右から滑ってきて、再び支柱が「閉まった」時、
「!?」
頭の中を何かがすっと通り抜けていく不快感を覚えて、俺はすかさず身構える。
「大丈夫ですよ」
ユノーがにこりと笑って制する。ユノーは壁に手を触れた。壁には文字が刻まれている。エレベーター、というらしい。この支柱は「エレベーター」という、異なる階を行き来するための「乗り物」なのだそうだ。支柱の中をこの箱が移動し、壁に書かれた文字が階数を表し、指が触れた階数に箱が止まる。
「着きました」
チーンと、初めて箱が開いた時を同じ音を立てて、目の前の扉が開いた。
「…………」
俺達を出迎えた景色を見て言葉を失った。しかし、息をすることを忘れた苦しさにはっとする。
茫洋と緑色に光るメーター。その針が指し示す見たことのない文字。金属らしきものでできたパイプが部屋のそこらじゅうを這い回るように、壁や天井にびっしり張り付いている。
「このパイプは、『ステンレス』という素材でできています」
ユノーが、壁に密生しているパイプに触れて説明する。
「今の技術であれば、人の手でこれを作り出すのに、あと百年はかかるでしょう」
人の手であれば――。
ユノーは棒立ちの俺達を置いて部屋の奥に進む。慌ててその足取りを追った。部屋の奥にある装置。この部屋にある全てのパイプが、この機械に繋がっているようだった。
「どうぞこの前に」
立ち止まり、ユノーは右手を機械の前に差し出す。思わず二の足を踏んだ。
「大丈夫ですよ。噛み付いたりはしませんから」
メーターと同じく緑色に光る機械……。その表面に走る幾何学的な模様と、そこから漏れてくる淡い光。もしその光さえ無かったらこれは機械ではなく、表面に模様が浮いているだけの金属の塊に見える。
俺はそっと、機械の前に手を差し出した。
「!」
瞬間、さあっと弾けるように――機械の中の光が、俺の視界を覆うほど広く周囲に広がった。
見える……。視界を光に隠されてなお見える。鮮明に。
路傍に打ち捨てれた死体。それにたかるカラス。その光景が覗ける路地裏の前を通りすがる人々。
乱暴に荒らされた部屋。床に転がって割れたワイングラスと、血を吸ってじっとり湿った絨毯。
燃える偶像。焼け落ちる屋根。今にも崩れようとしている教会。その中で横たわる黒髪の少年。その目は、周囲の炎を映しているように金色――。
そんな映像が、俺の頭の中に一遍に流れ込んできた。一遍に見たはずなのに、映像が混在するはことなく、ちゃんと一つ一つ思い出せる。
しかし、映像を見ていたのは、ほんの一瞬だった。はっとして気づく。伸ばしかけた俺の腕の先が、機械の表面に触れようとして――止まっていた。
「今のは……」
ぽつりと、俺の背後にいるカタロスが呟いた。
「今の教会は、一体……」
一遍に見たはずなのに、俺はどの映像も鮮明に思い出せた。
当然だろう。どれも全て、俺の過去の「記憶」なのだから。
「驚かれましたか」
ユノーが機械の方を振り仰ぎながら言う。
「そして、今のでお気づきになったでしょう」
俺はゆるゆると右に九十度振り向いた。ユノーの顔を見れる方向にだ。
「この機械は触れた者の過去を映し出して、それを、周囲にいる人間に見せることができるのです。つまり、今あなたが手を離す瞬間まで見えていたあの光景は、ここにいる僕達全員が目にしていた、ということです」
…………。
ばかな……。
「……そんなことできるわけないだろ。見てくれは変わってるが、こんなもの、ただの金属でできた箱じゃないか」
そう言って俺はあざ笑う。しかし、二度と箱に触れる気にはなれなかった。
「おや?今、お聞きになりませんでしたか?カタロスさんの言葉……」
今の『教会』は、一体……。
「今カタロスさんは、あなたしか知りえるはずのない光景を口にしたじゃありませんか」
そんなこと、言われなくても分かっていた。それでも……
「信じられない気持ちは分かりますよ。でも、こんなこと、どんなペテンにかけた所でできることじゃありませんから。これはペテンでも手品でも……まして、魔法でもない」
「じゃあ、何なんだよ」
「『技術』です」
俺の問いにユノーはついと、口の端を上げた。
「そして、遺品」
ユノーは体を九十度時計回りに回転させる。つまり、再び機械の方を向いた。
「これはかつて天より下り、地にて堕ち果てた者――ネフェリムと呼ばれる者達が遺した、技術の一つなのです」
ネフェリム――。その言葉を人の口から聞いたのは久しぶりだった。それは、万密院が必死になって探すヘリテージを生み出した者達の名前。
遥か昔、人間は自分達の監視者である天使「グリゴリ」をかどわかし、彼らの知恵を得ることに成功した。その結果生まれた、「ネフェリム」と呼ばれる巨人達。人間が天の智謀と、技術を得た証とも言えるものども。
神の怒りを買って炎に焼かれた、忌まわしい血の一族――。
「ネフェリムだと……」
俺はようやくそれだけ口にする。ユノーの顎が動いて相槌を打った。
「ええ、ご存知のようですね。あなたも、そして、後ろにいらっしゃる御仁も」
ちらっと一瞬だけ視線をカタロスに寄越して、ユノーは再び前を見た。
「ここは神火に焼かれた亡骸の残る場所。因業の眠る地。さしずめ我々は、その燐火に惹かれてやって来た、誘蛾灯の周りを飛ぶ羽虫……。恐らくこの機械は、ある人物の身の潔白の証明や、その逆の為に使われたものなのでしょう。こうやって当人の過去を白日の下にさらし、疑いを晴らしたり、逆に罪を認めたり……。知恵と富と武力を持つようになったネフェリムにとってなくてはならない、必要に駆られて生み出された機械なのでしょうね」
「…………」
どうやらユノーは、最初からこの機械が何なのかを知っていたらしい。ユノーがずいと歩み寄って、俺の顔を覗き込む。まん前に、ユノーの黒い瞳があった。
「命令がありましてね。この五日間の様子から、上層部はあなた達の社会性に問題は無いと判断した。そして、その次のステップとして、あなた達の経歴を調べろという命が僕に下りました。しかし、口ではなんとでも言える。だからこの機械に触れてもらったんです。ここではね、この島に来た人間に対して、必ず一度は『これ』をさせるという決まりがあるんです」
ユノーは、「理由はお分かりでしょう」と言い置いて続ける。
「ここにあるネフェリムの遺物……。我々が『ヘリテージ』と呼ぶこれらを、狙う者がいるのです。それらが盗まれぬよう、悪用されぬよう、『私』は監視している。私は治者であり、監視者です。時に断罪も厭わない」
スっと、首筋に冷たいものを感じた。
それは何か――。瞳を下ろして確かめるまでも無い。それは、ナイフだった。
「しかしあなた方は賢明でした。我々の目論見に気づいていたのか、実に大人しかった。今この事実を知ってなお妙な気を起こさなければ、街は、『私』は、あなた達を歓迎する」
ナイフを首にあてがわれても睫毛一つ揺らさない俺を見て、ユノーはにやりと笑った。
「そう、いかなる時もそのように――冷静でいてくだされば問題ありません。そしてそこに、ほんの少しの良心があれば」
俺は、ユノーが下ろした腕の先にあるナイフに視線をやった。そこに映っているのは、見慣れたユノーのうすら笑いだった。ユノーの黒い瞳に、ナイフが照り返した光が差す。
「さて……。カタロスさんにもこの機械……『プロジェクタ』に触っていただきましょうか?ここまで説明したのですからね。あなたに拒否権が無いことはお分かりでしょう」
カタロスの記憶。カタロスの過去。一万年の刑期……。
それが、分かるのだろうか?この機械によって……。
俺の沈黙とは裏腹に、カタロスの動きは迅速だった。俺がためらうよりも早く、奴は前足を一歩踏み出す。カタロスは何も言わずに、機械の前に立った。そのまま長い腕を伸ばす。
「…………」
カタロスの指先に機械から漏れる光が触れた瞬間。
瞬くより早く、周囲が白い閃光に包まれた。