第二章 二十四話
ロックイットに来て五日目。草木と街灯が寝静まった後、俺とカタロスは、とりとめもない会話をした。
「ひょっとするともう……ソドムには戻れないのかも知れないな」
「やっぱり、ソドムに戻りたいんですか?」
仰向けになったカタロスが首だけ振り向かせて訊ねる。俺は天井を仰いだまま答えた。
「いや……」
頭の中にオールド・ワンとメレグの顔が思い浮かぶ。俺がオールド・ワンの余興に付き合うのは、食いぶちを繋ぐ為だ。ただの金鶴に過ぎない。メレグは――望んだことではないとはいえ――命を助けてくれた恩人だ。しかし、俺があの女に引け目を感じる必要は無い。メレグだって、「俺の能力を知ることができるかも知れない」という打算があって助けたのだから。
そう――ソドムに戻る「理由」が俺には無い。
「そうだな、ここにいれば食いっぱぐれることは無い。けれど、俺達には監視がついている。あのユノーって奴もそうだろう。新参者が悪さをしないか、見張っているのさ」
カタロスは監視の存在を知って驚き、息を呑んで目を見開いた。気づいていないだろうとは思っていたが、やっぱりこいつには警戒心が無さ過ぎる。素性の知れない余所者を拾って信用する人間が、どこにいるのか?
……拾ったばかりの人間と(仕事の依頼とはいえ)すぐに共同生活を始めた俺の言葉じゃ、説得力が無いので言及はしないが。
「ただ、敵意は感じない。好意も感じない。警備員のようなもんだな。挨拶すれば、向こうも返してくれるかも知れない。そんな感じだから心配しなくていい。普通に生活する分には困らないし、むしろ何かあった時に助けてもらえて好都合だろう。でもな」
俺は視線を九十度移動させて――つまり、カタロスの方を向いて言った。
「そんなのは飼われているのと同じだ。いつまでも、こんな場所にいるつもりはいない。じきに出て行って、俺は、俺のしたいことをする」
微かに、自分とカタロスの息遣いだけが聞こえた。口を開こうとするカタロスの息遣いも、はっきり聞こえる。
「じゃあ、教えて下さい」
カタロスがそんな風に、人に物を要求するような言い方をするのは珍しかった。俺は思わず、眉尻を上げる。
「あなたがここを出てまでしたいことって、何なんですか?」
安定した生活が保障されているのに何故――?出ることが難しいと知ってなお、何故檻の中から、出ようとする――?
カタロスは訴えるような、切実そうな表情をしていた。そんな顔をするカタロスも、矢張り珍しかった。
「……まるで説教でもするような口ぶりだな」
そんな言葉が口から出て――俺は笑った。何故なのか、笑ってしまった。
「……たとえば、だ」
俺は瞳を閉じて、思い返すように言った。決して好きではないが、今となっては懐かしく感じるソドムでの日々。
「たとえば食事。ランチと新聞の記事を楽しみたいと思ったら、俺はチップをポケットにねじ込んで、そのまままっすぐカフェに向かう。たとえば仕事。今日は仕事をする気が起きない。そう思ったら、俺はジャケットを引っ掛けて街に出るか、ベッドの上で寝っ転がるかするだろう。依頼主から来る催促の電話や、脅すようにドアをノックする音なんか、全部無視だ」
ソドムでの生活が自由だったとは思わない。生きていくのに金が必要で、その為に人を殺さなければならなかった。俺は、社会の底辺にある日陰の中でしか生きていけなかった。
あそこでの生活に、自由は無かった。
しかし、金を得るために人殺しになったのも、他の依頼人をはねつけてまでオールド・ワン専任になったのも、俺自身の意志なのだ。
あの場所では――自由は無くても、選ぶことはできたのだ。
「……ふふ」
忍ぼうとしたが思わず漏れた。そんな囁くような笑い声が向かいから聞こえてきた。
「なんだよ」
「訊いたのはお前だろ?」そう言う俺に対して、なお漏れてきたカタロスの笑い声に、もう一度「なんだよ」と、言っていった。カタロスは首を振って答える。
「いいえ……」
カタロスは顔を天井に向けて続けた。
「やりたいことをやるって言うと、自由な感じがしてかっこいいですけど、あなたの話を聞いていると……単に、本能に忠実って感じですね」
「悪いか」
「ちっとも」
「『いつか』じゃダメだ。今を、いつでも俺の思った通りにしていないと面白くない」
ここは、いつ死んでもおかしくない世界なのだ。死んでからでは泣き言も言えない。『いつか』があるという保障なんて、誰にもできないのだ。
だから俺は嫌だった。 他人に恨みごとを言いながら死んでいく惨めな人生なんて、まっぴらだった。
社会からのけ者にされて、更に自分から進んでそこから外れて、そのくせ、自分以外の「誰か」のせいにしないと満足に死ぬこともできないなんて……。
絶対に、ごめんだった。
「…………」
今日はいつになく喋りすぎた。そう気付いて、俺は取り繕うに言った。
「お前はどうなんだ?」
カタロスは言葉に詰まってるようだった。しかし搾り出すように、ぽつぽつと口を開いた。
「そうですね……。僕は、自分はもっと自由な存在だと思っていました。足があればどこにでも行けて、手を伸ばせば何だって掴める。声を掛ければ、愛する人が振り向いてくれる。そうできるのが当たり前だと思っていました」
カタロスは振り返る。
「昔ね」
一体どこを見ているのか、カタロスは笑っていた。そしてそのまま、いつも言う「おやすみなさい」を言うこともなく……カタロスは俺に背中を向けて、シーツをかぶった。
このところよく思う。カタロスが結婚していたことを知った時からだ。
気にならなかったわけではない。それでも俺がカタロスの過去を訊ねなかったのは、奴のことを見たままの人間だと思っていたからだ。
のっぽでぼんやりしていて、邪気の削がれる笑顔を常に浮かべる。けれど馬鹿ではない。見知らぬ他人の死や未来を思って泣くだけの想像力はある。
全部、カタロスの外見や「今」に関することばかりだ。考えてみれば、俺が奴の過去で知っていることなんて何一つ無い。奴にだって、人に知られない過去がある。誰にも打ち明けないままの感情や記憶も。
ただ、他人に言わないでいるだけだ。俺やその他の人間達と同じように。言わないから知らない。けれど、知らないから存在しないわけではない。
「ああ、そうか……」
今なら、よく分かる。閉じた瞼の裏に、少年のような笑顔が見えた。
『だってさ、見てるだけじゃなくて、実際にお話した方が色んなことが分かるだろう?』
俺は隣にいるカタロスを見た。寝息を立てている。こちらに背中を向けたまま。
こいつのことが、近くにいるはずなのに、何も見えない。




