第二章 二十三話
重い瞼を開いた途端、瞳に刺すような痛みを感じた。
「つっ……」
俺は起き上がろうとした。自分の意思よりもワンテンポ遅れて、頭を起こすことに成功する。そのまま胸を起こそうとした時、ようやく瞳が周囲の景色に馴染んで来た。ぼんやりとしていた視界に焦点が合う。
「…………」
民家のようだった。部屋は吹き抜けになっていて、ここから部屋の中の全てが見渡せる。部屋から一歩外に出ると、そこはダイニングルーム。奥には玄関が見えた。玄関の横にはトイレがある。
俺はベッドに寝かされていたらしかった。硬いシーツから身を起こして、つま先を床につける。ひやりとした木造の床板の感触が、俺のつま先を捕まえた。
ダイニングルームに食器棚は見当たらない。皿やコップは、流しやテーブルの上に放置されている。窓に干されている洗濯物の数は少なかった。そして、尻から感じる硬いベッドの感触――それはいかにも、男の一人暮らしの部屋にあるものっぽい。
部屋の向こう。窓から射した光を避けるように、そいつは、テーブルの前の椅子に座っていた。
「……お前は?」
どう声をかけたものか一瞬迷ったが、そう訊くしかなかった。俺の「目覚めから身を起こすまでの一部始終」を見守っていたらしいそいつは、組んだ手の上に顎を載せながら言った。
「それは、こっちが訊きたいんですけどね」
そう言ってそいつは、椅子から腰を浮かせた。そのままこちらに近づいてくる。中肉中背、黒髪の男だった。シャツにスラックスというラフな出で立ちだ。目鼻立ちはいいが、特にこれといった特徴が無く、目をつぶってしまえば二度と思い起こせないような顔をしている。薄いレンズを嵌めた丸眼鏡をかけていて、レトロな趣味だなと思うが、見た目はまだ若い。
「まぁ、来る者を拒まないのが、この街ですから」
男は俺との距離を詰めてくる。そして立ち止まるのと同時に。
「ようこそ。『誰でも入ることが出来る』監獄の街へ」
言い古したセリフなのだろう。男は妙に芝居じみた調子で、サラリと台詞を読み上げた。とても慣れたような様子で。
「ここでは来る者を拒まない。人々も君を歓迎するだろう。君が何も奪わなければ、この街も君から何も奪わない。君が何か与えれば、人々が手を差し伸べてくれるだろう。君さえ望むなら、この地に骨をうずめるのも構わない。街はそれを受け入れる」
この時、俺はまだ知らなかった。ここがどこなのかということと、今の自分が置かれている状況を。
「僕はユノー。この『八番街』の治者です。どうぞよろしく」
ユノーはそう恭しく名乗って頭を下げた。慣れたような様子で。
カタロスがこの家に戻ってきたのは、俺とユノーが対面してすぐのことだった。
「あ、目が覚めたんですね!」
目と口を大きく開けてカタロスが笑う。彼は腕にたくさんの紙袋を抱えていた。買い物から帰ってきたところらしい。床に足をついて立ち上がろうとする俺を見て、カタロスは慌てた。
「まだ動かない方がいいですよ。外れてるらしいですから、骨」
言われなくても、そんなことは分かっていた。右肩をやられている。腹には重い衝撃の名残が、ジンジンと感じられた。
「すぐに医者を呼びますから、少しお待ちください」
そう言ってユノーと名乗った青年は、玄関から出て行った。ユノーは影のように、するりとカタロスの横を通り抜ける。
「待て!」
追いすがる俺の声がユノーの耳に届く頃前に、奴の姿は消えていた。
この家、ユノーと名乗る青年、監獄街、『八番街』の治者。そして、再び俺の前に現れたカタロス。
「ここは、一体、どこなんだ?」
カタロスも、つい一日前に目を覚ましたばかりなのだと言う。
「覚えてますか?僕達、キャンディッド教会の地下に向かったんです」
「大丈夫だ。意識を失う直前のことまでは、全部覚えてる」
「僕達は地下にある拷問室で出会った男に気絶させられて……どういうわけか、この街の入り口に捨てられていたらしんです」
「…………」
「ここはロックイットと呼ばれる、海上に浮かんだ監獄街です」
「ロックイット?そんな、馬鹿な……」
カタロスの細い声を聞いて、俺は自分の耳を疑った。アントリオ海域近辺にあるという監獄島、ロックイット。そこへ足を踏み入れた者は、二度と島を出ることはかなわないと言われる、いわくつきの場所だ。島を取り巻く潮の流れが速いからというのもあるだろうが、それだけではないだろう。ここから生きて出てきた人間の話というのは、とんと聞いたことがない。
「お待たせしました。医者を呼びましたので、診ていただきましょう」
俺の混乱とは無関係に、ユノーが帰ってきた。干し柿のような顔のてっぺんに、しわがれた髪の毛を載せたじいさんを連れている。
「ここは……ロックイット、なのか?」
恐々と訊ねる俺を見て、何故かユノーは愉快そうに答えた。
「ええ、そうです。最初にそう言いませんでしたっけ?あ、そうか。『ロックイット』という名前までは言っていませんでしたね」
医者の手当てが終わった後、俺とカタロスとユノーは、揃いで家の外に出た。
「ここは居住区に当たる八番街です。隣の九番街も居住区で、七番街は商業区です」
ガイドをするユノーを真ん中に挟んで、俺とカタロスは周囲を見渡しながら歩く。路傍には民家が連なり、露店もある。店先に置かれた果物や野菜を、貨幣と交換する主婦らしき女の姿も見える。食べ物は新鮮で採れたてに見えた。すぐ近くで栽培しているのだろう。
「一番街に司法、二番街に行政、三番街に立法をそれぞれ司る機関を持ち、五番街は学術研究区になっています。六番街は工業区ですね。学術研究区で発明された技術が使われ、そこで作られたものが商業区に流れていくようになっています」
ユノーの言葉を半分聞き流しながら、俺は考える。確かにユノーは、この場所を「監獄街」だと言った。しかし、どうだろう?
目の前には住宅街、そこで買い物をする主婦の姿。ユノーの話を聞く限り、この街には統治機構もあるようで、恐らくここには、議会のような組織があることも推測できる。
まさしくここは「街」だった。「監獄」という言葉からはまるで無縁に思える、平和な街そのものだ。
「驚かれているようですね。まぁ、最初は誰しもそうなんですが」
俺の思考を読んだように、ユノーがにやりと笑って言う。
「巨大な監獄の中に街が築かれている、と考えていただければよろしいです。まぁ、ここには看守などはおりませんがね。警備兵は居ますが、あくまでそれは警察のようなものですから。四六時中監視されるようなことはありませんので、ご安心を」
「……本当にここは、監獄なのか?」
何度も言われているが、思わず、そう訊ねずにはいられなかった。
ここは本当に、監獄なのだろうか―――。
ユノーがこちらを振り返って言った。
「追々、お分かりいただけますよ」
俺の問いを知っていたかのように颯爽と、そして、この先に起こることを予期しているかのように。ユノーは、にやりと笑って言った。
ユノーに連れられて街を一通り回った。とりあえず食料を買うだけなら、八番街から出なくてもよさそうだった。
「しばらくは僕の家に居てください。くれぐれも、変な気を起こして騒がれるようなことがないようにしてくださいね」
それだけ言うと、ユノーはすぐ自分の部屋に引っ込んだ。床下の貯蔵庫にある食料は、好きに使っていいと言う。俺とカタロスは芋と豚肉の入ったスープとサラダを作った。ユノーの分も作ったが、奴は自分の部屋から出てこない。
いや、そんなことはどうでも良かった。俺はずっと、考え続けていた。恐らくそれは、カタロスも同じだっただろう。
一体誰が、俺達をこの街の前に捨てたのだろうか?
矢張り地下室で見たあの男だろうか?だとすれば何の為に?もしカタロスを捕らえる為であれば、カタロスまでここに放り込む必要は無かったはずだ。
一体、何故――?
そんなことを考えて悶々としている日々が三日続いた。ユノーは仕事に出ているらしく、日中は家を空けている。(頼んだ覚えは無いが)居候している身なので、俺とカタロスは洗濯をしたり、食事を用意したり、掃除をしたりしていた。この島から出るなとユノーに言われているので、他にもすることも無かった。
「なんかこういうの、新鮮ですね」
カタロスが前置きも無く言った。俺とカタロスは、窓拭きをしていた。俺は手を休めずに、視線だけカタロスの方へ向ける。
そういえば……。初めてカタロスが俺の家に来た翌日、こいつは頼まれもしないのに、わざわざスープとサラダをこさえて、かごの中に放り込んでおいた洗濯物を勝手に洗っていた。
それももう、随分昔のことのように思える。こんな辺境の地に来ているからだろうか。もう一生、あの家に戻れない気さえしてくる。そんな予感とは裏腹に、カタロスは楽しそうに続けた。
「こういうのは全部任せっきりにしていたんで、毎日自分で洗濯や料理をしているのが、不思議な感じです」
「全部任せていた?」
誰に?俺が手を止めて振り返るとカタロスは「はは」と、小さく笑った。
「お前、もしかして……結婚してるのか?」
あるいはしていたのかと。そう訊ねてみた。カタロスは、困ったように顔を歪めて笑った。
「はい……。だから僕がすることは何もなくて……。まぁ、牢に入れられる前の話ですけど」
そう言ったきり、カタロスは口を閉じてしまった。今女房がどうしているのか、離婚してしまったのか、そういった話をカタロスから聞きだすことは、ついにできなかった。
「さあ……ユノーさんが帰ってくる前に、お掃除を済ませちゃいましょう」
カタロスは部屋の隅にあった箒を取って、踵を返す。俺に背を向け、床の木目に箒の先を滑らせていった。
今まで、あまり考えたことが無かったが……
俺がそうであるように、カタロスにも過去がある。
牢に入れられる前、奴に結婚暦があったとしてもおかしくは無いのだ。十五歳になれば、みな成人とみなされる時世だ。訝ることは少しも無い。そして、過去の無い人間はいない。過去を忘却することはあっても。
それなのに――俺の胸の中は霧がかかったようにすっきりしなくて、鉛を抱えたように鈍重だった。
俺にカタロスの知らない過去があるように、カタロスにだって俺の知らない過去がある。当たり前のことじゃないか。きっと、ユノーだって、この街に住む人間だって、全ての人々がそうなのだろう。