第二章 二十二話
エペに入ってすぐのことだった。ジェットを除く、他の隊員と一切話そうとしない俺を見かねたように、ルーチェが言った。心配してと言うよりは、興味津々と言った様子で。
「興味無いんだね。他の人達のこと」
俺はベッドの上で横になっていた。ルーチェは隣のベッドで寝転んでいる。
「……だからなんだよ」
ルーチェの言葉に否定も肯定もしない。代わりに「構うな」と遠回しに言ってやった。ルーチェのくすくすと笑う声が、俺の背中をくすぐる。
「怖いの?人と関わるのが。それともシャイなだけ?」
その言葉を聞いて振り返り、そのままルーチェを見た。見たというより、睨んだ。刺さるような眼差しを向けてやる。
「勘違いするな」
俺は上半身を起こして膝をつき、体の向きを百八十度変えた。ルーチェと正面から向き合う形になってから、話を続ける。
「怖いわけでもないし、苦手なわけでもない。ただ、必要無いだけだ」
俺は、その顔を覚えることもなく両親に捨てられた。常に一人でいたから、友人といた記憶を思い返すこともできない。
社会は俺を見放し、人々は俺に見てみぬふりをする。彼らは認めたくないのだ。自分の生きる世界に俺のような人間がいることを。世界は美しいと、安心するに足るものだと思いたいから、俺のような「落伍者」を排除したがる。
しかし。
だからなんだ。どうしたというんだ?
それは俺が、この世界を憎む理由になるだろうか。
「俺がへりくだらないといけないほど、この世界はそんなに素晴らしいか?俺が自分を惨めに思わないといけないほど、そこに生きてる奴らは上等か?違うだろ。俺がそんな奴らに引け目を感じる理由なんて一つもない」
ルーチェは黙って俺の話を聞いている。唐突な話の切り口に面喰っているのか、ぽかんと口を開けていた。
「俺は連中が嫌いでも苦手なわけでもない。ただ、関わってやる必要が無いだけだ」
俺はそう言ったきり、会話を打ち切るつもりだった。そのままルーチェに背を向ける。
その瞬間。
「はは」
歯と歯の間から思いっきり息が抜けるような音が聞こえて、思わず、俺は首だけ振り向かせた。
「――――」
ルーチェは乱暴に壁へ背中を預け、肩をひくつかせながら、大声で笑った。
「ごめんごめん」
ルーチェの変化は一瞬で、笑っていたのも一瞬だった。笑い終えて、穏やかに謝る。
「ふふ。ちょっと、おかしくてさ」
「何がおかしいんだよ」
「『関わってやる必要が無い』なんてさ、何様のつもりなんだろうって」
「世の中にはお前みたいに、頼まれもしないくせに近寄ってくる人間がごまんといるからな」
「そうだね。でも、必要が無いから話しちゃいけないってことはないでしょう?」
「…………」
「あのさ、一つ訊いてもいい?」
「……聞くだけなら。質問の内容次第では」
「君ってさ、何の為にこの仕事してるの?」
今度はこちらが口をぽかんと開ける番だった。何故ルーチェがそんなことを聞くのか分からなかったし、エペではそうした個人的な事情に立ち入る質問は御法度というのが、暗黙の了解になっているからだ。
「何の為に生きてるのとか、そういう訊き方をしてもいいんだけど……。それだと分かりにくいでしょう?だから、簡単に言っちゃえば、『何でこんな所に来てまでお金を稼いでるの?』ってこと」
ルーチェはそっと右腕を伸ばす。殺意も予備動作も全く感じられないその動きに、反応が遅れた。俺が身を引く前に、ルーチェの指先は俺の前髪をつまんでいた。
「君はさ、何がしたいの?」
何の為に生きてるの?君が言う、この素晴らしくない世界で。
ルーチェは俺の前髪を持ち上げて、遮るものの無くなった俺の瞳を見つめている。何の為に生きてるの――?ルーチェはこちらを見つめて口を閉じたまま、そう訴えかけている。
俺はルーチェの白い手首に指をかけた。そしてそのまま、細い手首の先を、俺の前髪から離れさせる。
「理由なんか無いな」
自分の前髪が下りるのを見て、ようやく俺は、掴んでいた白い手首を離してやった。
「俺は何かの為に生きてやるつもりはない。ただ生きている間は――したいことをしてやる。したいことをするのに理由は要らない。一々理由が無いとしたいこともできないとか、めんどくさいだろ」
部屋の中は呼吸をする音の他、何も聞こえない。外も静かだった。鳥の鳴く声も耳に届かない。もう夕日もとっくに落ちたのだと、そこで俺はようやく気づいた。
ルーチェは相変わらず俺を見ている。
こちらを見て笑っているのに――目は伏せている。そう気づいた瞬間、伏せた瞳の下にある、小さな唇が開いた。
「本当にそれだけ?」
ルーチェの細い声が、優しく訊ねた。
「君が、他の人達と関わらない理由」
俺は繰り返した。
「……怖いわけでもないし、苦手なわけでもない。ただ、必要無いだけだ」
これは本当だった。本当だが、全てでは無い。
俺が持つ炎の殺しの力――。生まれたと同時にこの力を持った時から、俺の孤独は決定づけられていた。そんな力を持った人間を、どうして信用できるだろう。何故、枕を並べて共に眠ることができるだろう――?
いずれ離れていくと知っているのなら、いっそのこと最初から関わらない方が気楽だった。面倒なことに巻き込まれることもないし、他人の考えを量ろうとして気を揉む必要もない。元々、他人を頼りに生きることを勘定に入れて計算しているようじゃ話にならないのだ。素晴らしいの真逆を行くこの世界で信じられるのは、自分自身の力だけ。
だから、ルーチェのことも構わずにいるつもりだった。いつも冷たく跳ね付けてやったのに――何故かこいつは、俺に近づいてくる。離れればその分、距離を詰めてくる。まるで影のようだった。あいつはいつも、少し離れた所から俺を観察していた。気がつけば、いつもあいつの視線に取り囲まれている。一体となることはないが決して離れない。まさしく影のような奴だった。
そしてあの夜。炎の力がルーチェに露見した日の夜――あいつは俺の手の中に、その小さな頭を埋めた。
何故だろう……。
俺は、人はこの力を知ったら自分から離れていくだろうと考えていた。だから、極力、人とは接しないように生きてきた。
そこに誤算がある。
いざこうしてルーチェが、俺の力を知りながらこちらに近づいてくるのを知った時――
俺は、怖かった。
いつかゼーノから聞いた通りだった。人間は、自分に理解できない、把握できないものを恐れる。戦場において、その「不安」が最大の敵になるのだと。
あの時に躊躇い、ルーチェを始末しなかったことを、後々になってこんなに後悔することを計算できなかったことも――最大の見誤りだったと言える。
何故か俺は、その時の夢を――エペに居た時の夢を見ていた。
いや、夢では無かったのかも知れない。眠っている意識の中で思い返していただけなのかも知れない。
人間は把握できないものを恐れるから、まるで指の隙間から覗くように――あの日の出来事を、もう一度確認していただけなのかも知れなかった。
俺は、途切れていた意識の中で、自分がしていたことを思い出す。
夢か記憶かはっきりしない意識の渦の中で。
そして、封ぜられていた俺の目は、そこで覚める。