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第1章 二十一話

 ロッキングチェアの背に凭れて眠るオールド・ワンの頬を、ゆるやかな風が撫でていった。彼は本を顔にかぶせて居眠りをしている。開け放したままの窓。半開きになっているドア。

「いらっしゃい」

 そう言うオールド・ワンの声に合わせて、本がひょこひょこと上下に揺れた。本を掴もうとしていた細い指が止まる。

「誰だろう……。メレグちゃんかな?」

 本の向こうから透けてくるような笑顔が想像できる、明るい声でオールド・ワンは言った。

「……あなたの目はどこについているんですか?」

 メレグは彼の顔にかぶさっている本をつまみ上げた。

「どこにでもさ」


 メレグがオールド・ワンに会うのは、今月に入って三度目だった。一度目はカタロスの検診が終わった直後、そして二度目は、つい昨日のことだった。

 昨夜、メルトゥール診療所をオールド・ワンが訪れたのだ。彼はタキシードに花束という正装だった。

「こんばんは」

 この場所は教えていないのに――。メレグはドアを開けてオールド・ワンの姿を認めた後も、驚きを隠せなかった。

「ちょっと外に出ていてね。ついでに寄ってみたんだ。あ、でも、花束はここへ来る時に買ったんだよ。これは、君の為に買った」

 オールド・ワンが腕に抱えていた百合の花束を受け取り、メレグはまじまじとオールド・ワンを見つめる。

「『どうしてこの場所を?』『何故私の所へ?』『一体何の為に?』とか、訊きたいことは山ほどあるだろうけど、ぼくが言いたいことは一つだけ」

 オールド・ワンは玄関の入口に手を添えて、ほんの少し前のめりになる。そしてその格好で、メレグの耳元に唇を近づけていった。

「あの子は、暫く帰ってこない」

 だから、あの子の診療は暫く必要無い。それだけ言って――一瞬にっこり笑って――オールド・ワンはその場を後にした。

 どうしてこの場所を?何故私の所へ?一体何の為に?

 そして、この花束は、何なのだろう――?


「だってあの部屋の中、殺風景でしょう?」

 そう言いながら、目の前のオールド・ワンが笑った。メレグは丸いテーブルを挟んで、オールド・ワンと向かい合うように座る。メレグはオールド・ワンが淹れた紅茶に手をつけなかった。

 メレグは黙ってオールド・ワンを見つめる。こうして彼と直接会うのはもう、五年振りくらいになるだろうか。つまり、メレグが初めてこの地に来て以来ということになる。

 何せ彼女は、オールド・ワンの手引きで、この街に来ることになったのだ。

「正確に言うと、僕はただの『案内人』だけどね。ここに住むという選択は、君がしたんだから」

 そうだった。ここに来た時のことが昨日のことのように思い出せる。けれど、実際にはそれなりの年月が経っていたのだとメレグは感じた。

 五年……。それは短いようで長い。

 メレグ自身は変わり映えのしない、ささやかな発見のある日々を過ごしているのに過ぎないが、越してきた時と比べて、周囲の状況は随分変わっていた。隣国はこの国と同じく議会制の導入を始めたし、関税が緩和されたことで、輸入品が安く大量に入ってくるようになった。一方、長引く戦争によって徴兵にとられた友人が亡くなったことも、風の便りで聞いた。「鉄道」なる金属でできたレールが大地の上に敷かれたのは、つい最近のこと。しかしそれも、もう一年前のことだった。

 早いものだ……。そして、確実に世の中は変化している。

「『彼』が暫く帰って来ないというのは、どういうことなのです?」

 ここへ来たのは思い出に浸る為ではない。メレグは射竦めるようにオールド・ワンを見つめる。メレグの冷たい声に、オールド・ワンはおどけた様子を見せた。

「あの子、万密院の人間に捕まってしまったみたいでね。教会に向かってから、一度も自宅に戻ってきていない」

「……ジェット・ガジェッティーノの足取りを追ったのですね?」

「うん」

「では、カタロスという青年も一緒に?」

「そう」

 言葉の内容とは裏腹に、オールド・ワンは淡々と言う。口元に微笑を浮かべてすらいた。

「……悠長なのですね。観察対象が奪われたというのに」

「別に……奪われてなんかいないさ。ただ、君達の目に見えない所にいるだけだよ」

 君達の目に。

 メレグは言葉を打ち切り、オールド・ワンの顔をまじまじと見つめた。

「とはいえ……直に彼を見れない状態なのは、ぼくも辛い」

 言っていつになく、オールド・ワンは顔を顰めた。といっても、片目を瞑って優雅に「ふう……」などとため息すらついているのだが、恐らく顰めている。これが彼なりの困った表情なのだろう。

「そうだろう?遠くから眺めるているよりも、直に触ってみなければ分からないことがたくさんあるんだから」

 そうだろう、とメレグは思う。他ならぬ科学者の彼女だからこそ、その言葉の意味がよく分かった。ソドムで過ごした五年間――。彼女の身の周りだけを見ても、世界が大きく変化していることを感じられる。

 長引く戦争、万密院の勢力拡大、技術革新――。これらをきっかけに世界は変わった。きっかけがあれば、世界は如何様にでも変わる。しかし、変わるにはきっかけが必要だ。それは「可能性」とも言う。閉ざされた箱庭の中での変化には、限界があるのだ。

 統率によって管理された精緻な世界。そこでの観測結果は正確に記録されていく。手順を正確にする為に、条件を確定する為に、あらゆる「想定外」を環境の中から排除する。メレグは居た世界はそういう世界だった。

 そして、だからこそ彼女は万密院をやめたのだ。


 メレグがフリーになったのは、世界はもっと広いはずだと思ったからだ。

 信じたかったのかも知れない。こんな閉ざされた世界の中にある可能性はほんの一部で、世の中にはもっとたくさんの、自分の予想を超える何かが――世界が変わるきっかけがあるのだと思いたかったのだ。

 そして、そう思うのは多分、科学者だからなのだ。自分の科学者人生をかける価値のある何かが、この万密院の壁の外にあると信じて――彼女は万密院を去った。

 そんな時、彼女はオールド・ワンと出会った。正確には、オールド・ワンが従える者どもと。

「もし今の環境に、自分のしていることに限界を感じるのなら、ついて来るといい」

 胸の内をそっくり言い当てられて、メレグは万密院を出た。どういう手引きがあったのか、彼女は死んだことになっている。メレグという名前も偽名だ。

 そして彼女は「炎」の力を持つ「彼」と出会った。早速「未知の可能性」に出会った彼女は、自分の選択が間違いでなかったと知る。しかし、彼女には一つ、分からないことがあった。

「どうして、私をあの場所から連れ出したのです?」

 メレグは、一度だけそう訊いたことがある。寒空の下、馬車は雪の染みた街道を駆けていく。メレグの隣に座るオールド・ワンは微笑みながら言った。まるで少年のような顔をして。

「君と同じさ」

 僅かに傾けたオールド・ワンの横顔が、メレグの方を振り返る。

「万密院を抜けてまで外に出ようとした君が、これから何をするのか知りたいんだよ」

 しかし、オールド・ワンとの音信はそれっきりで、同じ街に住みながら、二人が顔を合わせることは無かった。

 それでも彼女は感じていた。オールド・ワンの視線を。

 気付いたことは無いが、恐らく自分の周りにはオールド・ワンの放った「監視者」がいるのだろう。そして監視者からの報告を受け、興をかきたてられれば、直接彼自身が出向く。オールド・ワンも人間だ。遠くの場所で起きていることを直接見聞きできるはずが無い。

 そしてその監視者は、世界中にいるのだろう。彼の「好奇心」を満たす為だけに――。


「実を言うと、『あの子』がいる場所は、もう分かってるんだ」

 オールド・ワンは例の困った顔をして言った。相変わらず声に緊張感が無い。

「従者を送って連絡をとってはいかがです?」

「そうなんだけどね……」

 オールド・ワンはテーブルの下から地図を取りだした。どこにもそんなものを隠しておくスペースは無かったが、地図は自然にスルリと出てきた。

「今あの子がいる場所は、ここだ」

 オールド・ワンが地図に触れる。その指の下には広々とした海が広がっていた。

「ふざけないでください。何もありませんよ。それとも、彼がこの海の下で眠っていると?」

「あはは、ブラックなジョークだね。メレグちゃん」

 ちゃんづけで呼ばれることに抵抗を覚えつつ、メレグは地図の上を眺める。この辺り一帯の海域は潮の流れが速く、点在している島の上にも人はいない。

 しかし、はたと思い当たる。いや、確かこの辺りは――

「気づいた?」

 オールド・ワンはいたずらっぽく笑う。

「確かこの辺りには……『ロックイット』があったはずです」

「その通り」

 ロックイットとは、絶海の上に浮かぶ巨大な要塞だった。正確には、要塞として使われていた建物を改造した場所である。

 かつて王の尊厳を守護せしその建物は――今は牢獄と呼ばれている。

「……なるほど」

 メレグはようやく理解した。何故オールド・ワンが「彼」を救出しようとしないのか、黙って手をこまねいて見ているのか。そして、何故困ったような顔をしているのか。

「ここにはちょっと変わった規則があってね。この中では『ゲーム』が開催されているんだ。そのゲームで勝った人間は牢から出ることが許される」

 それはメレグも知っていた。万密院に居た時から話は聞いている。もしここにぶち込まれたくなければ、守秘義務を守れとよく脅されたものだ。

「このゲームっていうのが、ちょっと変わっててさ。勝つと『牢から出る』ことができるんだけど、面白いルールが一つだけある」

 オールド・ワンは嬉々として語る。メレグはその笑顔を見て確信した。

 オールド・ワンが「彼」を助けに行こうとしないのは、できないからではない。その理由は、さっきも聞いたように――ごく単純で、オールド・ワンらしい理由だった。

 黙って見ている方が面白くなる。彼が、そう確信しているからだろう。

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