第1章 二十話
イズルはベッドの中から這い出て、部屋の真ん中にある小さなテーブルの前に腰をかけた。リゼルグは部屋の隅にあるティーポットで、用意したカップの中にホットミルクを注ぐ。そしてイズルと向かい合うように椅子に座った。
お互い、何となく眠れなかった。そんな時は無理に眠ろうとせずに、気が紛れるまで他のことをするのが一番だ。
それに、眠れない理由もなんとなく分かっている。ただ、自覚したくないだけなのだと、リゼルグは気付いている。
イズルは、リゼルグが淹れたホットミルクに口をつけながら言った。
「ルーチェが捕まえてきたフォトグラフの男……。何度こっちが刺客を放っても、悉く返り討ちにしたらしいな」
エペが軍隊であるのに対し、正規の暗殺部隊である「トランキリテ・オンブル」は、この件で面目が丸潰れだった。名の通り「静寂なる影」を意味する彼らは静かに、しかし、寄りそう影のように――確実にターゲットを捕捉する。
文字通りの「暗殺」――誰にも知られず、本人にも気付かれないまま始末をすることが彼らのウリだった。それが事もあろうに、「逆に始末される」という最大の証拠を残しかねない方法で、幾人かが任務の最中に命を落としてしまった。それは、これ以上無い不名誉だった。
イズルは背もたれに小さな背中を預けて、思い切りのけぞりながら言う。
「オンブルの連中の細かい動きまで分かっているとなると、やっこさんの根は相当深い所まで伸びている。こっちの自作自演を疑いたいくらいにな」
ダージリンティーの入ったカップを唇から離してリゼルグが訊ねた。
「狂言ってこと?でも、そんなことをして何になるの?」
「誰にとっても何のメリットも無い。だから、狂言の可能性は限りなく低い」
「うーん……。とりあえず分かることは、オンブラを始末した連中は、咎負いの脱獄を手伝った奴らの一味ってことかな……」
「その可能性はアリアリだな。というか、それしか思い当たらん。あの時期でこのタイミングだ。十中八九そうだろう。あのフォトグラフの男をオンブラから守ろうとする理由が、他に無い」
イズルの言葉を受けてリゼルグは頭をひねってみるが、どうも気の利いた、幸先の良い考えが出てくる様子は無かった。
「そう。理由だ」
言ってイズルは、頭の後ろで腕を組んだ。
「オンブラの連中を片っぱしから始末してまで、連中が誘拐の実行犯を守ろうとした理由は、何なんだろうな?」
「え?」
思わず出た間抜けな声を打ち消すように、リゼルグは開いてしまった口を慌てて閉じる。
「むしろ逆だろう。実行犯を守るんじゃなくて、口封じに殺すのが一番合理的なはずだ。咎負いを手に入れた後、そいつは用済みになるわけだしな。殺してしまえば、口外を恐れる必要も、この先裏切られて咎負いを奪取されるような心配もいらなくなって、一石二鳥になる」
「それが連中にとって、取りうる最善の策だったはず……ってこと?」
イズルの思考を辿るように、リゼルグはおずおずと言った。イズルは眉一つ動かさずに答える。
「俺ならそうするね」
息を呑んで自分を見つめるリゼルグの視線を軽くいなしながら、イズルは続ける。
「オンブラを出し抜くなんて、連中が用意した刺客は相当な手錬れだろう。そんな奴を何人も用意して、その結果万密院を敵にしてまで、連中が実行犯を守ろうとした理由は、何なんだろうな」
確かに……何故だろう。
今の万密院は、実行犯から首謀者を洗い出そうとしている。むしろ、そこからしか首謀者を見いだせないでいる。実行犯の足首の先に錨でも吊るして海に沈められれば、連中の足取りは途端に掴めなくなる。内部犯の可能性を疑っているものの、検討は殆どついていない。片っぱしから疑っている状態なのだ。
そう考えてみると、確かに妙だった。
「そこまでする価値がその男にあるのか、連中にそれほどの温情味があるのか……いや、それはないだろう。ここまで計算された計画を立てた連中だ。多くの犠牲を払って成就にこぎつけたはずだぜ」
そもそも万密院に潜入する時点で、どれだけ連中の同胞が、無名の墓の下に納まったことだろう?
万密院も馬鹿ではないのだ。むしろ警備体制は、その辺りの一国の宮中よりずっと厳重だ。
「咎負いを奪取した理由もよく分からないしな。まぁ、咎負いそのものがどういう人間なのかも、俺はよく知らねぇけど。ここまで話を大ごとにしてそんな重罪人をかっさらって、一体何になるんだろうな?」
ほんの一瞬だった。今のイズルの一言を反芻したリゼルグは、視界の奥が爆ぜたような錯覚を覚えた。
『ここまで話を大ごとにしてそんな重罪人をかっさらって、一体何になるんだろうな――?』
「……って、ことは……」
それはつまり――。
イズルは察したらしいリゼルグを見つめて、にやりと笑った。
「そ」
自分とイズルは同じことを考えている。そう確信したリゼルグは、だからこそ口に出さなかった。
少なくとも、咎負い奪取の首謀者達は、咎負いが何者かを知っているのだ。万密院の中にいる人間にでさえ存在が秘匿されるその人物にどんな意味があるのかを――。それを知らなければ、攫ったりなんかしないはずだ。となると、かなり首謀者は限定されられる。
「まー……これ以上は考えても、何も分からないな。ふぁ……いい感じに眠くなってきたし」
自分のカップに手をつけて、イズルは一気にミルクを飲み干した。彼は紅茶が苦手なので、お茶を飲む時は、イズルの為にミルクを用意することにしている。イズルの様子を見て目の前のカップの存在を思い出したリゼルグは、殆ど減っていない紅茶にようやく口をつけた。
「じゃ、おやすみ」
そう言ってイズルはのそのそとベッドに入って横になった。そして、そうと思う間も無く静かな寝息が聞こえてくる。先ほどまでの、まくし立てるような弁舌が嘘のように、穏やかな寝息だった。
「…………」
すやすやと、言動とは裏腹に――何故かそこだけは妙に年頃の少年らしい寝顔を浮かべながら眠るイズルを横目に、リゼルグは二つの揃いのティーカップを片づけた。
時計は二の数字の前を通り過ぎて、とっくに辺りは寝静まっている。リゼルグは何度も寝返りを打っているが、どんな体勢になっても落ち着かなかった。
「この中に裏切り者がいる」
それは昼間にも聞いた言葉のはずだった。それも矢張り、イズル本人の口から。
この中に裏切り者が……。それはリゼルグのよく知る人間かも知れないし、顔すら合わせたことの無い人物かも知れなかった。
万密院の中は広い。エペの中ですら、知っている人間より知らない人間の方が圧倒的に多い。そんなことを悶々と考えているせいで、意志とは裏腹に、リゼルグの目は益々冴えていく一方だった。
「…………」
つい先ほどの話の中で――イズルはこうも言っていた。
「これから『裏切り者探し』が始まる」
脱獄の手助けをした犯人が件の少年だとしても、そいつはほんの一時期エペの中にいただけ。そんな人間に、ここまで周到な用意ができるはずが無い。
「きっと、彼に助力した人間がいるはずだ。もしかするとそれは複数人、あるいは組織ぐるみで。むしろ、そう考える方が自然だ。これだけのことを、たった二人の人間でできたはずがない」
確かにイズルの言う通りだろう。問題は犯人をどうやって締め上げるかだった。
「教会の件から数えて一年半も何も尻尾を掴ませないとは、連中もなかなかやる」
もし自分なら、とリゼルグは考える。自分なら、相手の様子を監視できてかつ、全く疑いのかからない立場に立とうとするだろう。
つまり、木を隠すなら森の中。犯人達は今も、万密院の中にいるのではないか――。
万密院は咎負いの脱獄で、内通者の存在を確信せざるを得なくなった。それでも犯人達は、全てでは無いにしても、万密院の中に残るのだろう。一番怪しまれるのは疑わしきもの。これまでと変わらず、万密院の中で、内部の動向を窺うのではないだろうか?
思っているよりも、犯人は近くにいるのかも知れない。たとえば今すぐ自分の傍で、何食わぬ顔をしながら息をして、周囲の様子を窺ったりしているのかも知れないのだ。
しかし、「では誰が」と問われた所で、リゼルグには答えられなかった。そこで思考が詰まり、急に瞼が重くなってくる。
「(これ以上は考えてもしょうがないな……)」
戦場における一番の敵は「漠然とした不安」だ。
恐怖は対象が見えているのに対し、不安は文字通り「なんとなく」心が安らまず、落ち着かない状態を指す。
そもそも敵が何であるか「分からない」から、恐れるのだと……。
ゼーノから聞かされた兵法を全て思い出すまでもなく、リゼルグの意識は、風に吹かれて散っていく砂塵のように薄らいでいった。




