第1章 十七話
アンリはエペの司令棟を出て、暮色に染まる中庭の上を歩いていた。
ゼーノが語った「彼」とルーチェの話。一年半前の襲撃事件の中で起きた話。ずっと誰にも話さないでいた出来事。
もしかするとゼーノは、それを誰かに聞いてほしかったのかも知れない。打ち明けたかったのかも知れない。
恐ろしいから?あるいは、確かめたいから?自分が何に恐れているのかを。
人間は不安や恐怖を放置できない。だから犯人は犯行現場に戻るし、恐怖の体験を、記憶の中にもう一度求めようとする。ゼーノにも人間らしい弱さがあることを知り、彼も人の子なのだと、アンリは思う。リゼルグなら「隊長にも怖いと思うことがあるんですね」とでも言って笑うのだろうが、アンリに特別な感慨は無かった。
「…………」
アンリは中庭を抜けて、司令棟から外れた場所にある建物へと向かった。古い建物だった。置き去りにされたように、万密院の敷地の外れにひっそり建っている。しかし警護は厳重だった。アンリは入口の衛兵にパスを見せる。
「どうぞお通りください」
パスを見た途端、衛兵は急にしおらしくなり、そそくさと道を開けた。外見は城のようだが、建物の中は学校に似ている。吹き抜けの廊下、廊下に囲まれるように建物の中央に広がる中庭。アンリが訓練生だった時に過ごした学校と少し似ている。しかし当時の思い出に浸ることが無いまま、アンリは建物の最上階を目指した。
敷地の外れにある城の中の、更に外れにある小さな部屋。アンリは辿り着いた先で立ち止まった。
閉められた扉に手をかけると、声がした。
「入って」
開いてるから。ノブを回す前から声をかけられて、アンリは動きを止める。部屋の中の者は階段を上ってくる音を聞いて、こちらに気づいたのだろうか。
「…………」
アンリは何も言わずに部屋へ入った。
部屋の中一面に夕陽の光が溶け込んでいる。調度品は、この部屋の主の為だけに作られたワン・オフものだ。しかし、目の前にある鏡台は布をかぶせたままだった。随分前から使っていないのだろう。
「久しぶり」
部屋の隅から声がした。細いがよく通る声だった。アンリは声のする方を振り返る。
飾りのついた立派なベッドがあった。羽毛の布団が、柔らかに主人の体を包み込んでいる。枕に沈んでいた頭を上げて身を起こし、部屋の主は、にこりと笑った。
「不用心ですね」
ドアを開けたままにしておくなど。そう言い置いて、アンリは目の前の人物に近付いていく。
「そろそろ来てくれるんじゃないかって思ってたから。だから、開けておいた」
部屋の主の言葉に、アンリは平生のすげない顔をして返す。
「嘘ですね」
「嘘だよ」
そして部屋の主も、しれっと答えた。
「でも、君に来て欲しかったのは確か」
その顔はいたずらが見つかったかのように、悪びれるようでいて楽しそうでもあった。
そう言う主――青年の顔は、終始穏やかに微笑んでいた。
この部屋の主である青年は、アインシュテルンという。もっとも本名で呼ぶものは少なく、愛称である「アインス」と呼ぶ者は更に少ない。アンリは数少ない、彼をアインスと呼ぶ人間の一人だった。
「ブラッシングしてくれる?」
アインスが鏡台の前にある櫛を見遣る。アンリは櫛を持って、アインスの枕元に立った。アンリが来ると、必ずアインスはブラッシングをねだってくる。
「普段、髪のお手入れはどうされてるんですか」
「秘密」
短く答えてアインスは笑った。まだ二十代前半か、二十代にさしかかろうとしている十代と言った所だろう。正確な年齢はアンリも知らない。
常にアインスはこの部屋の中に居て、毎日ここで寝起きをしている。彼はいつ訪ねてもベッドの上に居た。しかし、足が不自由だという話は聞かない。
「なんだかこの所、騒がしいみたいだね」
アインスは決してこの部屋から出てこないが、万密院を取り巻く不穏な空気に薄々気づいていたらしい。神妙そうな顔つきをして言った。
「そのようで」
そう短く答えて、アンリは言及しなかった。アインスもそれ以上訊ねてこようとしない。アンリの丁寧なブラッシングに満足したのか、アインスは目を眇めて思い出したように言った。
「日差しがきつくなってきたね。カーテン、閉めてくれる?」
「……一々こうして、誰かに頼んで身の回りのことをしてもらっているのですか?」
不満ではなく疑問としてアンリは訊ねた。アインスの所に給仕の人間が来るのは、食事を運んで来る時だけだ。その食事も、扉の下にある隙間から差し込まれてくるという味気無いものである。
「……秘密」
そう言ってアインスは、薄い唇を綻ばせて笑った。カーテンを閉めるアンリの横顔を見ながら、アインスは続ける。
「でも、こんなことを頼めるのは、君だけだ」
振り返るアンリを見つめて、アインスは更に口を開く。
「金、権力、感情……そんなもので君の歓心は買えない」
アインスはじっとアンリを見つめる。目で「枕元まで来てくれ」と訴えかけているようだ。そんなことにも、数回ここへ通う内には読めるようになっていた。
アンリは望み通り、アインスのすぐ傍まで近づいていく。立ち止まってベッドサイドにある椅子に腰かけた時、カーテンを引いても漏れてくる微かな熱気を感じて、思わずアンリは目を閉じた。
「君だけが僕を利用したりしない」
そう言ってアインスは、再びベッドの上に身を横たえた。
ネフェリムが遺した遺産。それらの力は生理学にも及んでいた。
人間の体に対する直接的な操作。どんな種類の物であれ、関係者はそれを「実験」と呼んだ。アインスは囲われたこの部屋の中で寝起きをしている。この部屋の中で生活している間に起きる変化を観察されている。どのような種類の操作が彼に施されているのかまでは、アンリも知らない。
「時々怖くなるんだよ」
アインスは布団の中から、細い腕を投げ出しながら言う。
「いつ君がここに来なくなるんだろうって、時々思う。いつ、僕とお喋りするのに飽きちゃうのかなって。そんな日が、いつか来るのかなって」
金、権力、感情。そうしたものに動かされないからこそ信頼できるし、だからこそ、どうすれば留めておけるのか分からなくて悩む。
そうしたアンリの人格は、アインスを安心させるのと同時に、不安にもさせているのだろう。
「……熱があるようですね」
アンリは白いアインスの腕を取り、もう片方の手でアインスの額に触れた。
やせぎすの腕だ。外の土を踏んだことが無いその足も、白くやせ細っている。
「久しぶりの来客で、少し興奮されたのかもしれません」
「そうかも知れない」
アンリはシーツを直してやって、アインスを寝かしつけた。
「これ以上はお体に障るかも知れません。失礼します」
「もう行ってしまうの?」
「また明日来ます」
それだけ言って後ろは振り返らずに、アンリはその場を後にした。
アインスはずっと、この敷地の中で生活をしてきた。彼は母親の胎内から摘出された時点で、既に万密院の中にいたという。
標本箱とも言えるような小さく囲われた世界。その中で暮らす、ピンを刺された蝶のようなアインスの生活。
命を繋ぐだけの僅かな蜜を与えられて、羽ばたくこともない。
城を出たアンリは、アインスがいるであろう部屋を振り返る。振り返るというか、見上げたのだった。
きっとあそこからは、空がよく見える。決して飛び回ることのできない空を見て、翼を奪われた蝶は何を思うのだろう。