第1章 十六話
流しに落ちる水滴の音で目が覚めた。
目が覚めた――?
うっすら開けた瞳に、ひびの浮いた天井がぼんやり見えている。焦点が合う前に、俺は慌てて目を眇めた。隣から漏れてきている一筋の光に、目を傷めつけられたのだ。
ここは――?そう思うのと同時だった。
「気がついたか」
そう声がするのと同時に、何かを器に注ぐ音がした。そして、床を軋ませて誰かがこっちに寄ってくる。
そいつは、俺の目の前に、そっと顔をのぞかせた。
「肩が脱臼している。肋骨も傷んでいるようだ。まだ起き上らない方がいい」
「腹は空いているか?」そいつはそう言って、スープの皿を俺に差し出す。
ここはどこだろう――?
第一武隊指揮官ゼーノ・アルベルトの顔を見ても、俺はそんなことをぼんやり考えていた。
今日で丸一日が過ぎたらしい。一年に一度のお祭りアインフェスト、その最中に起きた教会の焼き討ち。あれから一日が経ったのだ。
「正確には一日半だな」
言いながら、ゼーノは流しに置いた食器を片づけている。体が傷んでいてもしっかり腹は空いていて、俺はゼーノが用意したスープを残さずたいらげた。
皿洗いを終えたゼーノが、こちらを振り返る。俺の視線に気づいたのだろう。ゼーノはほんの僅かに微笑む。
「どうした?」
最初に目を覚まして顔を見た時、俺はこいつがゼーノだと気付かなかった。普段、帽子を目深にかぶり、鍔の下から、影が落ちた鋭い目つきでこちらを見ているゼーノ。
帽子をとって素顔を見れば、まだ若い男なのだと分かる。目つきが悪いように見えた瞳も、鍔に隠されてそう見えているだけだった。まだ二十代半ばといった顔。ほんのうっすらだが、微笑んでみると、尚更別人のように見えた。声を聞いてようやく気付いたくらいだ。言われもしなければ、同一人物だと分からなかっただろう。ゼーノが台所から移動してきて、俺の枕元に立つ。
「少し息が上がっているな」
「熱があるのかも知れない」そう言ってゼーノは膝をつき、俺の額に手の平を当てた。その長い指を平げれば、瞳が塞がれてしまいそうだった。
水仕事をしたばかりの冷たい骨ばった手の平。しかしその奥から、じんわり温かいものが伝わってくる。
「あんた、子どもでもいるのか?」
あるいは下の兄弟がいるのか……。ゼーノが体温を調べる様子は、いかにも自然だった。
そして俺が来ている服。寝巻用のシャツを着せられているようだが、それは明らかに、ゼーノの体格に合わないサイズだ。誰か別の人間のものだろう。だからつい、そんなことを訊ねてしまった。
ゼーノはただ、笑うだけだった。
俺は部屋の中を見渡す。食器棚らしきものは無い。食器は全て台所に置いてあるらしい。一人暮らしなのだから、それで事足りるのだろう。ハンガーのようなものも無い。クローゼットはあるようだが、ここしばらく使っている形跡が無かった。
ゼーノは白いシャツを羽織り、黒いズボンを履いている。ベッドの脇にある洗濯かごには、折りたたまれたシャツとズボンが入っていた。
矢張り、一人暮らしの部屋のように見える。俺が来ている服は、どこから持ってきた物なのだろう……。
「倒れているお前を教会から担ぎ出した時は、正直、生きた心地がしなかったな」
俺の思考を打ち切るように、ゼーノが訥々と語りだした。
「その辺にあった水桶の中身をひっかぶって中に入ったが、視界は塞がれるし、煙も吸い込むわ汗は止まらないわ、お前を背負うことはできても、ここから生きて出ていくことはできないかも知れない……。そう思ったな」
俺の命の恩人はゼーノだったらしい。ゼーノはベッドの淵に、俺に背を向ける形で座った。
「今、エペも含めて万密院の上層部は混沌としている」
アインフェストであることを見計らっていたかのような急襲。一体どこの誰が、何の為に?犯人探しと住民の不安を鎮めることに、万密院は奔走しているという。
「内通者の存在も疑っているようだ」
「…………」
何故気付かなかったのだろう。
俺がスパイだと気付いているのは、ルーチェだけだとは限らないじゃないか。ゼーノは矢張り背を向けたまま、淡々と語る。
「だから執務室ではなく、俺の家にお前を運びこんだ」
何ということもないような口ぶりだった。
「今あの中は慌ただしい。暫くは俺の家で休んでおけ」
俺は黙って頷いた。
「それと……あの教会から助け出されたのは、お前だけではない」
俺は、はっと息を呑んだ。すぐ傍にいるゼーノにもそのことが伝わっただろう。
そうではないか、とは思っていた。目を覚まして助かったと気付いた時から、いつその言葉がゼーノの口から出るのかと、慄いていた。
「ルーチェは今、エペの寮――自室で寝起きをしている。お前ほど外傷はひどくなかったからな。もう任務に復帰している」
「…………」
「ただ、お前のことを気にかけている。俺の家で休ませていることは話しておいたが、お前のことが気がかりのようだ」
言い終えてゼーノは振り返った。振り返って諭すように言う。
「安心しろ、ルーチェは俺の家を知らない」
何を?
何を安心しろって――?
「…………」
そう言ったきり、ゼーノは黙ってしまった。
そして、ベッドで横になったまま、夜を迎えた。ゼーノは俺の横で、床にシーツを敷いて眠っている。構わないと言ったのに、こいつは床で寝ると言い出したのだ。
全く……。ルーチェといいジェットといい、どうしてこう、人の話を聞かない奴らばかりなのだろう。それに、ゼーノはどんなつもりで俺をこの家へ連れてきたのか?何が「安心しろ」なのか。
結局、諸々あるゼーノの疑問に対する、彼の真意は分からなかった。何故なら俺は、その夜の内にゼーノの家を出てしまったからだ。洗いざしてある上着に腕を通して、そのままの格好で、俺は国を離れた。カムラッドを辞めたのは、更にその半日後のことだった。
ゼーノは彼が部屋から出て行ったことを確認して、そっと床に横たえた体を起こす。
「…………」
持ち合わせはいくらかあるようだった。本来就いている職があるようだから、食うのには困らないだろう。ただ、あの体で今まで通りに働くのは、暫く難しいかも知れない。
ゼーノは先ほどまで彼が寝ていたベッドに、背中を預けて仰向けになった。そして、思い出すともなく思い出す。昨夜の内から、何度となく頭の中で再生している光景だった。
教会の奥からもうもうと這い出てくる煙に目をやられながら、自分のかいた汗に体力を奪われながら、焼けただれるような熱気に意識をかすめ取られそうになりながら、ゼーノは走る。辺りに転がる死体も気にかけている場合ではない。
「ルーチェ――!」
ゼーノはそう叫んだつもりだったが、果たしてその通りに聞こえていたかどうか分からない。
「!」
そしてゼーノは、ようやく見つける。
崩れ落ちていく教会の中央――倒れている燕尾服の少年と、よく見知った銀髪。銀髪は燕尾服の口元に耳を近付けていた。
「……!」
ゼーノは叫ぼうとした。しかしやめる。
妙に辺りが静かだった。勿論そんなはずはない。瓦礫が燃え、熱に耐えられなくなった柱がギシギシと音を立てている。それなのに、数メートル先にいる燕尾服と銀髪がまるで目の前にいるかのように、その二人のやりとりが、煙にかすむ瞳に、くっきりと焼き付いた。
「…………」
燕尾服が何か呟いている。ゼーヤはその唇の形から、なんとか言葉を読み取ろうとした。
「…………」
ゼーヤが燕尾服の言葉を辿っている間に、こちらに気づいたのか、銀髪がゼーノを振り返る。その瞳を見て、ゼーノは思わず肩を引いた。
ルーチェは首をかしげるような動作をした。そして、ゆっくりと唇を動かす。ゼーノにはすぐ分かった。それが、先ほどの燕尾服の言葉を繰り返しているのだと。
ルーチェの口から出る燕尾服の言葉。なぞるように繰り返すルーチェは、優しく――
そう、言葉とは裏腹に優しく笑った。
「殺してくれ」と、その唇はそう言った。
勿論そんなはずはないのに、妙に辺りが静かだった。
この時、ゼーノは初めて知った。
こういう時に、人は笑うのかと。
ゼーノは、何故ルーチェが笑ったのかも理解した。
そして、理解できたからこそ、ルーチェのことが恐ろしかった。