第1章 十五話
エペに入ってから、夜の街を歩くことはあまり無かった。規則で禁止されているし、届けを出せば許されるが、なるべく疑わしいことをしたく無かった。
しかし今日は事情が違う。俺はシルクハットを被り直して、首を巡らせた。路傍に開かれた出店はどれも賑やかで、そこら中に炊かれた篝火が星空を控え目に見せている。
アインフェスト。年の一度の国を挙げての、大規模なお祭りのことだ。これを目当てに観光客や、それを狙った商人がたくさん余所から流れてくる。俺達エペの人間は、その警護の為に駆り出されていた。ふざけたことに「祭りを楽しんでいる人々の雰囲気を壊してはならない」という名目の為に、俺はこんな浮かれた格好をさせられている。
黒いロングーコートと燕尾服、頭に被った帽子には薔薇、しかも生花があしらわれている。いかにもきざったらしくて、俺の趣味にはてんで合わない。しかし衣装を選ぶ時、「何でもいい」と言ってしまったのだ。
「こんばんは」
壁に寄り掛かって懐中時計を見ながら時間を潰す俺に、声をかける奴がいた。俺は振り返らずに答える。
「遅い」
そして、そう言ってから顔を上げた。
黒いベストに半ズボン、縞模様のハイソックス。ベストの下に来たシャツの襟を赤いリボンが囲っている。服装が違うと顔までそう見えてくるのか、こいつの笑顔にどこか現実味がない。服装と相まって、夢の世界の住人のようだった。
あるいは夢の世界への案内人。人間の顔をして、夢の世界を覗きに来た奴を誘いこむ。穴に落ちたアリスのように。
「お待たせ」
ルーチェは、自分で着ていく服を選んだという。縞模様のハイソックスがチェシャ猫の模様みたいで気に入ったとも言っていた。
「ねぇ、君の服を選んだの誰だか知ってる?」
俺は首を振る。衣装なんて着ぐるみでなければ何でもいいから、適当な奴に決めてもらった物を着る。ゼーノに希望を訊かれた時、そう答えた。
「僕が選んだんだよ。でも好みとか分からないからさ、当たり障りの無いものになっちゃったけど」
ルーチェは何故か申し訳なさそうに笑った。
そんなことはどうでもいい。
そう言うつもりが、何故か口から言葉が出なかった。
「さっさと行くぞ」
「うん」
花火が空に上がっていた。一筋の光のように伸びて、空の上で砕け散っていく。燃え尽きることを考えていないような、帰る場所を知らないような、目に映った瞬間だけ人々の記憶に残って後は忘れ去られる、一瞬だけの炎だった。
俺はルーチェと並んで、出店のある通りを歩いた。思えば、祭りというものに参加した記憶は一つも無かった。ただ、遠くから聞こえてくる呑気なリズムを耳にしたことがあるだけだ。
いつも目にしているはずの通りの上をカルメンが踊り、口にくわえた薔薇を放り投げる。そして観客達の拍手喝采。
これがあの、うなだれながら歩く人々が行き交う中央通りなんだろうか。遠くの工場から流れてきた煙の漂う狭くて汚らしい空に、飴玉のような風船が浮かぶ日が来るなんて、想像したことも無い。
これが祭り――。いつもしけた顔をして店の前にいる新聞屋のおっさんも、腹を空かせた子どもの手を握って買い物をする疲れた主婦も、この時ばかりは別人だった。軽業師が刀を飲みこんだりジャグリングをしたりする度に、子どものように驚く。そしてそうやって驚いた後は、必ず手を叩いて喜んだ。
きっと祭りというのは何かを祝うという名目で、こうやって市民の鬱憤を晴らす為にあるのだろう。為政者にとってこの上なく自然に、被支配階層のガス抜きをしてやれる機会なのだ。
ふと、こちらに向かって歩いてくる女の集団が見えてきた。町娘だろうか。少ない小遣いでこの日の為にどうにかやり繰りした、地味ながら真新しいドレスを着ている。頬に手を当てて声を立てる様子がいかにも女らしい。格好がそうだと、仕草もそうなるのかも知れない。普段は小汚い格好をしていても、彼女らも娘盛りだ。道行く男どもが女達を振り返る。
俺はふと、ルーチェの様子を伺った。ルーチェは女達の方を見つめていた。すれ違う瞬間まで、ずっと視線を外さない。けれど、そこにいやらしさは全く無かった。むしろ、虚しさを思わせる視線で女達を見ている。
「――?」
俺が声をかけようとした瞬間、ルーチェが振り向いた。慌てて顔を逸らそうとしたが、間に合わなかった。
「綺麗な人達だったね」
奴はそう言って笑った。この時ただ一度だけ、寂しそうに笑うルーチェを見た。
俺とルーチェは教会の前にやってきた。地域一の敷地面積を誇る、モルゲンシュタイン教会。ここが俺達の持ち場だった。教会の中には、カップルと思しき二人連れがうろうろしている。少年とはいえ、男二人連れの俺達には、てんで場違いの場所だった。
特にすることも無いので、俺とルーチェは長椅子に座り、カップル達を観察していた。すると、あることに気付く。カップル達はみな、祭壇の前にある銅像に見つめていた。見つめ合った後は、お互いの手を取り合って銅像の頭をさすっている。
「何だあれ?」
俺が眉をひそめて言うと、ルーチェは耳打ちしてきた。
「ああやって銅像を一緒に見つめた二人は結ばれる、っていう噂があるんだ。いつの間にか、『銅像の頭を一緒に撫でると二人の愛は永遠になる』という尾ひれまでついてね」
「ふーん……」
全くどうでも話だった。その尾ひれという奴も、どこかの誰かの「そうなったらいい」という願望からできたものだろう。
くだらない……。
そう思ったが、意外にもルーチェは、銅像の頭を熱心にさするカップル達を見つめている。「微笑ましい」とでも思っているのだろうか。倣って俺も、カップルの様子を観察してみる。その関係が続くことを全く疑っていない、幸せそうな顔をしている。
大きな花火が目の前で上がった。教会の中なのに――?
そう思った瞬間、不意に起きた爆風に突き飛ばされた。視界は真っ白。
けれど目の前が真っ白になったのはほんの一瞬で、その間に訪れた沈黙も、すぐ悲鳴にかき消された。
「な……」
そう言って、俺とルーチェが起き上がった。
周囲で立ち上っている煙。崩れかかった天井の欠片や倒壊した長椅子が、カップル達を下敷きにしている。
爆発か……?教会のどこかに、爆弾が仕掛けられていたのか――?俺がそう思うのと、ナイフを取り出したルーチェが入口の方へ駆けだすのは同時だった。湧き起こる悲鳴の間を縫うように、拳銃を構えた男が駆けてきて、こちらに照準を合わせている。
「!」
俺は横っ跳びに銃弾をかわして、傍にあった瓦礫に身を隠した。ほどなく野太い呻き声が上がり、ルーチェが男を始末したのだと分かる。瓦礫から顔を覗かせて周囲の安全を確かめて、ようやく腰を浮かせた。
「何なんだよ……」
膝についた瓦礫の破片を払って忌々しげに呟く。しかしルーチェは、俺の言葉をすっかり無視して、駆けだしていた。
「おい……!」
遅れて俺も、その後を追いかける。
奇襲。世界各地から街の人口の五倍は集まるこの日だからこそ、警備は厳戒だったのだ。それがこうも簡単に決壊するなど、誰も思いもしなかった。
一体誰が、何が目的でこんなことを――。頭の中の整理がつかない内に、俺とルーチェは押しかけてきた武装集団と乱戦になった。武装集団は周囲に転がっているカップルには全く目もくれず、俺とルーチェに集中砲火を浴びせる。
「(何なんだこいつらは……)」
こいつらは俺達がエペだと知っているから攻撃してくるのか……?今まさにルーチェが最後の一人を手に掛けた……そう思った瞬間、
ゴウン。
二度目の爆発だった。俺とルーチェは壁際に叩きつけられる。頭から激突した衝撃に耐え切れず、俺は意識を失った。
「…………」
俺はゆっくり瞼を開けた。意識を失ってからどれくらい経ったのか……いや、それほど時間は経っていないはずだ。ルーチェもゆっくりと身を起こす。
周りを取り囲む熱気。教会の飾り窓から炎が上がっている。窓の外へ、むせるように黒い煙を吐き出している。
燃えている。地域随一の広さを誇るこの教会が、中央通りに関門のように聳え立っているこの教会が燃えている――。
逃げ遅れていたカップル達が慌てふためきながらお互いの手を取り合っている。奴らが永遠の愛とやらを誓った銅像は、既に熱に炙られて溶けてしまっていた。
一度目の爆発で弱っていたらしい天井の瓦礫が、二度目の爆発でなだれ落ちてきたらしい。入口は完全に塞がれていて、瓦礫が炎上して通れそうにも無い。飾り窓は全て、遥か上空だ。
塞がれた。完全に。逃げ場は無い――。
しかし、それでも俺は冷静だった。そう、死ぬのは怖くない。ただ、みっともない醜態を晒して死ぬのは嫌だった。俺はこちらに背を向けているルーチェに声をかける。
「どうやら俺達、生きて帰れそうにもないな」
ルーチェからは「そうだね」という気の無い返事が返ってくる。救助が来るのを期待するのも、それまで俺達が生き残っていることを願うのも、どちらも絶望的な状況だ。
「神様……!」
ふと、どこかでそんな声を聞いた。声のする方を振り返ると、瓦礫の下になった恋人を助け出そうとしている男がいた。しかしそれも間に合わなくて、そいつらは瓦礫共々、炎に飲み込まれていった。
「…………」
どうしてなのか、俺もルーチェも、冷静にその様子を見守っていた。
目を覚ましてから五分は経っただろうか。俺とルーチェは通路の上にいた。ちょうど教会内部の中央に位置する場所だ。ここにまだ火の手は上がっていないが、じきにここも無事では済まない。
俺の全身に広がる体の痺れ。目を覚まして体を動かそうとした時に、すぐにそれに気付いた。ここまで来るのにも、ルーチェに体を引っ張ってもらってようやく来ることができた。
俺は通路の上に身を横たえる。横になって、天井を見上げる格好になった。火の帯が、崩れかかった天井の隙間から逃げていくのが見える。
そっと横を振り返ると、そこには跪いて、俺の様子を見守るルーチェがいた。ルーチェは笑っている。ルーチェの細い指が、俺の頬に触れた。指は乗り込んできた男達を殺した時のままで、血に濡れて真っ赤に染まっている。
「大丈夫。君を殺したりはしない」
ルーチェはそっと周りを見渡した。
「君以外の人間は、みんな死んだけど」
武装した男達と自ら命を絶ったカップルの死体が、ちょうど俺達を取り囲むように倒れている。
嫌に静かだった。いや、今も炎は轟々と唸り声を上げているし、火の燃え移った瓦礫がパチパチと悲鳴を上げて燃えている。未だに天井から破片が落ちてきたりもする。
けれど何故か――とても周囲が静かに感じた。
俺は口を開く。
「君以外じゃなくて、君と『お前』以外だろ」
そう、まさしくここには、俺とルーチェしかいなかった。
死ぬのか。俺は。
そう思うと、何か気の利いた一言を残してやりたいような気分になった。普段冗談なんか言ったりしない俺だが、この時ばかりはそんな気にもなる。そんなことを言っても受け取る相手なんて誰もいないが、だからといって、ただただ死んでいくのは面白味が無い。
けれど、実際に俺の口から出たのは、それとは全く別のものだった。
いつの間にか乾いてしまったカサカサの唇で小さく呟く。よく聞き取れなかったのだろう、ルーチェが耳元を俺の唇に近付けた。
俺はもう一度呟く。
そして――そのまま意識を失った。これが、ルーチェを見た、最後の日の出来事だった。