第1章 十四話
月が出ている晩だった。俺は明かりをつけたままベッドの上に寝転んで、聴くとなしにスピーカー越しの声を聴いていた。
ラジオ、というらしい。これもネフェリムの遺物で作られた先進技術の秘蔵っ子が一つ。もっとも、こんなものを使えるのは万密院の息がかかった人間だけで、放送している内容も「万密教則第一版第三章四十二条」というものだから全然気が利かない。
俺の背中の後ろには、同じように背中を丸めて寝そべっているルーチェがいた。壁の方を向いて、寝息のような静かな呼吸をして、じっとしている。ラジオの声は、俺とルーチェの間にある沈黙の隙間を縫うように流れていった。
俺とルーチェが組んで任務に出るようになって二月経つ。ルーチェは短刀使いで、二刀流だった。短刀とはいえ、刃渡り三十センチはある代物だ。それを二本も振り回している。最初は何故ルーチェと組まされたのか分からなかったが、すぐにそれも知れた。
同じナイフ使いでもルーチェは戦闘向きで、俺は偵察向きの人間なのだ。カムラッドで育った俺は、殺し以外の技や知恵を散々叩き込まれていた。解錠、聞き耳、罠解除、尾行……。そして、決して足がつかないず、確実に相手を殺せる炎の殺しの力。もっとも、この能力のことは誰にも話していない。炎で殺した後は、必ず相手の胸や頭にナイフを突き立ててやる。ナイフによる傷で死んだのだと思わせておくのだ。
一度だけ考えたことがあった。俺のこの力を知れば、誰も俺に近寄らなくなるのではないか――。殺そうと思えば誰でも殺せるし、証拠も残さない。そんな人間の横で眠ることができるだろうかと。
「あったかい手だね」
そう言って時々、ルーチェは勝手に俺の手に触って、まじまじと見つめた。
「そうだな。人殺しの手とは思えないだろ?」
俺がそう言って振り払ってやっても、あいつは笑っていた。
その日も矢張り、俺はルーチェと組んで任務に出ていた。広い屋敷の中で二手に分かれる。避けることはあっても、防御することを一切考えていないルーチェの動き。身のこなしを活かすべく、俺とルーチェは至って軽装。勿論、ジャケットは万密院お得意のネフェリム産特殊繊維でできている。銃弾なら、立て続けに三発食らっても耐えられる。しかし、顔に受けるダメージは防ぎようがない。それでもルーチェは躍り出る。細い腕に不似合いなナイフを二本振りかざして。
一度戦闘態勢に入ったルーチェに声は届かない。敵の命乞いも同様だ。もっとも、命乞いができるくらいにルーチェの猛攻に耐えられた奴なんか数えるほどしかいない。今生きている人間の中ではゼーノがそうだと、一度だけルーチェから聞いたことがある。
ルーチェが陽動をしている隙に、俺はターゲットの元に向かった。近頃、同業者の周囲が物騒だということを知っていて警戒していたからか、屋敷の中に控えていた用心棒の数が多くて少し手間取る。けれど、どれだけ集めてもゴミはゴミにしかならない。結局、そいつらもただの時間稼ぎだった。ようやく辿りついた部屋で標的を追い詰め、無事に事を終える。既に炎の力で絶命させたそいつの頭を掴み、ナイフが刺さって死んだように見えるよう、そっとナイフの切っ先を額にあてがった。
額の先に、ナイフが触れた瞬間
「へぇ……さっきの、どうやったの?」
思わず、弾かれたように瞳が見開かれた。俺は標的の前髪を掴んだまま、後ろを振り返る。
ルーチェがこちらを見て笑っていた。戸口に寄りかかって、うっすりと笑っている。奴が羽織っている黒いジャケットの所々が、ぴかぴか光っていた。恐らく、乾き切らない返り血が反射しているのだろう。
「さっき君が出した炎……それをそいつの頭の上に翳しただけで、倒れたように見えたんだけど?」
「だけど」と疑問形で訊ねているが、ルーチェは確信している。「見えない力」の存在を。俺は黙っていた。ルーチェもそれ以上は喋らない。
ばれた。完全に。
この炎の能力が……。
「……何が『へぇ』だ。いつからそこで見ていやがった」
今しがた出てきたような顔をしているルーチェに、そう言ってやった。
「そいつが撃ち誤って、戸棚のワイングラスを割った所から」
「ちっ……」
標的がワイングラスを割ったのは、一発目の銃弾を放った時だ。するとこいつは、俺が標的を始末する一部始終を全て見ていたということになる。
「黙って見てたのかよ。相方が鉛弾をぶち込まれるかも知れないっていうのに」
そう言ってやると、ルーチェは意外そうに目をきょとんとさせた。しかし、すぐに「ふふふ」と笑いながら、俺のすぐ傍まで歩いてきた。
「初めて僕のこと、『相方』って言ってくれたね」
そして、そんなとんちきなことを言い出した。
「はぁ……?」
「君、普段はそういう喋り方しないよね。少なくともジェット君の前ではしない」
「何が言いたい?」
「君ってさ、僕の前だと、わざとそういう汚い言葉を使うよね」
ルーチェは笑っている。
「君は、僕のことが嫌いだ」
わざと邪険に扱っているのだから、気づかれていて当然だろう。けれど、いざそれを本人から指摘されると、冷や水を浴びせられるような思いがした。
こいつはそうと知っていて、今まで俺に笑いかけていたのかと。
「だからね。僕のことを、物のはずみでも『相方』って言ってくれるとは思わなかったんだ。だから嬉しい」
嘘でもいいからと。そう言うルーチェの口元は、やはり笑っていた。血溜まりのカーペットが敷かれ、死体が無造作に転がる豪奢な部屋の中で。
俺とルーチェは背中を向かい合わせてベッドの上に転がっていた。ルーチェに炎の能力のことがばれて三日経つ。しかし、ルーチェの態度に変わりはなかった。少なくとも俺の目にはそう見える。
ルーチェは寝ているのだろうか……・。寝息を立てているように聞こえるが、それも全然信用ならない。こいつなら。寝息のような呼吸をして狸寝入りをすることもできるだろう。
「…………」
俺は前のめりになって、ルーチェの背中から少し距離を置いた。
『ルーチェは、俺達がスパイだということに気づいているのかも知れない』
三日前にしたジェットとの会話。俺自身もそうではないかと疑っていたが、確信は無かった。ただ、他人の口から聞くと、俄然現実味が違ってくる。
ふと、背後のシーツが軽くなる感じがした。ルーチェが起き上がったのか……?
そう思った瞬間、俺の耳は、枕の柔らかい圧力に塞がれた。
「…………」
静かだった。世界中の人間の命がぴったり一遍に止まったんじゃないか……そんなことを思う程に。
ただ、状況はそんなことを考えていられる程、悠長ではなかった。
ルーチェが枕を俺の顔にかぶせてマウントポジションをとっている。一方的な暴力を行使する為の体勢だ。
「…………」
俺は一瞬で事の次第を悟った。
殺される。
何故かは分からない。どうしてそれが今なのかは分からない。けれど、間違いない。
「ねぇ……」
ルーチェのくぐもった声が聞こえてくる。この枕の上には、刃渡り三十センチのナイフが突き立てられているのに違いない。
ルーチェは俺に問いかけてきた。ひと思いにやればいいものを。遺言でも聞くつもりか?受け取る人間がいないのに。
「君が使った炎の力なんだけど……」
と、ルーチェはそう言った。
何故このタイミングでそのことを訊く……?俺は正直に答えてやった。
「ああ。今更隠したってどうしようもない。お前が考えている通りだ。あの炎をかざしてやるだけで、俺は生きているものの命を奪える。けど、原理は分からない」
「……それって、『使いたい』と思った時にいつでも使えるの?」
「ああ」
ふん……。大体想像がついた。こいつは、俺の力を恐れているのだろう。俺がスパイだと勘づいているのだから尚更だ。正体に感づいていることがばれたら殺される。ルーチェはそのことに思い当ったのだろう。
そう、この力はいつでも使える。たとえば、今でも自由が利く左腕を伸ばして、お前の頭を掴めば確実に……。
「だから俺を始末する気になったわけか。まぁそれが正しいんだろう。ただ、こうして皆が寝静まった後にするべきじゃなかったな。ここでお前が俺を仕損じても、助けに来てくれる奴はいない」
そうなのだ。どういうわけかルーチェは、俺とジェットがスパイである可能性を誰にも漏らしていないらしい。
確証が無いからか?いいや、火の無い所に煙は立たないのだ。疑わしきは即刻報告すべし、手遅れになってからでは遅い。それは他ならぬ、ゼーノの言葉だった。
しいんと澄んだように感じられるくらい、空気は穏やかだった。耳を澄まさなくてもルーチェの息遣いが聞こえる。そう錯覚を覚えるくらいに。
「君、乱暴な喋り方をするの、辞めたね」
大人しくしている俺の上に覆いかぶさって、ルーチェが囁いた。
「どうして……?」
俺は答えない。
枕の向こうに、微笑むその表情が思い浮かんだ。ルーチェは俺の手首を掴む。お前を殺せるかも知れないこの腕を。ルーチェはそっと、震える俺の指を掴んだ。そう、俺の手は震えていたのだ。
何故……?
死ぬのは、怖くないのに。
ルーチェは、俺の顔を塞いでいた枕を取り払う。死人の顔にかぶせたヴェールをはがすようにそっと。
相変わらず月が出ていた。ちょうどルーチェが、その月を背負うような格好になっている。
「…………」
そしてルーチェは、何も言わずに、ナイフを振り上げた。
ナイフは俺のすぐ横をかすめて、垂直にシーツへ突き刺さる。俺もルーチェも、その間、全く呼吸を乱さなかった。俺はただじっと、ナイフの刃先の行く末を見守った。
ルーチェは刺さったナイフをそのままにして、上半身を倒した。つまり、俺のすぐ傍に横わたった。
暫くはそのままだった。壁掛け時計の秒針が一周しても、俺達は動かなかった。
そして、何のきっかけも無かった。
ルーチェが何も言わずに、俺の手の平に自分の耳を押し当てた。お前を殺せるかも知れない手の平に。そして、独り言のように漏らす。
「あったかいね……」
すぐ近くで横になっているルーチェの顔を見遣った。ルーチェは黙っている。そして
「…………」
眠り始めていた。
俺はそのまま瞳を閉じた。眠りに落ちるように、睡魔に引きずり込まれるように。そこが悪夢に続く場所だという気がしていたのに、瞳を閉じた。
そう、死ぬのは怖くない。
ただ怖いのは、見透かすような光の向こうにある、暗闇のように深いこの笑顔だ。