第1章 十二話
部屋の窓から、一台の馬車が門をくぐろうとしている所が見えた。馬車に乗って来た男――ヘンドリクセンはゼーノの部下だ。命令に忠実、仕事は正確、時間は必ず守る。普段の素行も良いが、手がかからないというよりは「手のつけどころが無い」と言う方が正しかった。
手のつけどころが無い。つまり、とっかかりが無い。何と触れ合っても引っ掛かることがなく、誰と出会ってもただすれ違って行く。そんな男だった。
庭に入ってくる馬車の音を聞きつけたのか、ソファに寝転んでいる少年が、そのままの体勢で言った。
「お帰りなさったようですね」
彼は名をイズルと言う。ゼーノも彼のことを詳しくは知らない。彼がゼーノの元で働くことになったと上から知らされたのは、半年前のことだった。
出身の国すら不明で、イズルという名前も本名なのかはっきりしない。歳の頃は十五、六だろうか。絹のように細い黒髪と、髪と同じ烏色の瞳を持っている。東方人のような名前だが、本名は「イズルート」などであり、普段は略称を名乗っているだけなのかも知れなかった。当のイズルは、ソファから半身を起こしてゼーノを見遣った。
「俺の顔に、何かついてます?」
イズルは肘掛に頬杖をついて、ゼーノを見つめている。ニヤニヤと笑って頬が緩んでいるが、その視線は場数を踏んだ、ビリヤードのハスラーに似ていた。玉が転がる位置を正確に計算し、狙った位置に玉を飛ばす。ただそれを、ルーチンのように淡々とこなす。イズルの瞳は、そんなものを思わせた。
ゼーノはイズルがどういう生き方をしていたのかを知らない。しかし、その歳にして、彼が既に「プロ」であることを悟った。もしかすると、ゼーノより傭兵の経験が長いのかも知れない。幼くしてゲリラ的な活動をする少年兵は珍しくないが、イズルには、あくまで訓練を受けた「兵士」としての経験があるようだった。
「いや……」
ゼーノはイズルから視線を逸らす。同時に、被った帽子の庇を掴んだ。
「旦那、『いや……』なんて歯切れ悪く言われたら、気になるじゃないですか」
イズルはくつくつと、声だけは年相応らしく笑った。
「忘れろ」
つっぱねるように言って、ゼーノは座っている椅子を半回転させた。ゼーノは体ごと窓の方を向き、イズルに背を向けた格好になる。
「それは命令ですか?」
「無論だ」
「へーい」
すぐさまドスン、という音がして、イズルがソファに思い切りダイブしたことが分かった。そのまま横になったようで、イズルの細い体がソファに沈む音が聞こえる。そして、三秒と待たずに小さな寝息が聞こえてきた。
グロワール・エペの第一武隊指揮官室。その中の、いっとう立派に設えられた椅子に座るゼーノは、手を組んだまま目を瞑った。これから、部下の中でも、とりわけて腕の立つ人間だけを集めて会議をするつもりだった。議題は二日も前から決まっている。ただ、直前になってもゼーノの迷いは消えなかった。
「只今戻りました」
ノックを三回、丁寧にビジネスマナーを守ったノックの後、ヘンドリクセンが部屋に入ってきた。その背後から、更に彼より拳一つ分ほど背の高い青年が顔を出す。ゼーノとイズルの姿を認めて、青年はにっこり微笑んだ。敬礼の仕草も優雅に、彼は笑顔のまま報告する。
「ヘンドリクセン及びリゼルグ隊員、任務を終えて帰還しました」
そう言って青年――リゼルグはイズルの寝転がるソファに座ろうとした。イズルは「やめろよ」と面倒くさそうに言いつつ、スペースを空ける。
リゼルグは、いかにも良家から出てきたような、人好きのする顔と穏やかな雰囲気を持った青年だった。事実、テーブルマナーやダンス、一般教養にかけて彼に敵うものは無く、質の高い教育を受けた、生粋のお坊ちゃんのようだった。そんな彼が何故エペに入団したのか、誰も知らない。
「ヘンドリクセンは長いから、彼のことはアンリと呼ぼう」
そう言い出したのはリゼルグだった。「ヘン」はローマン語で「アン」と言うらしい。一方、当のアンリは興味が無いらしく、好きなように自分を呼ばせていた。
アンリは眼鏡の薄いレンズがよく似合う、怜悧な風貌の青年だ。加えて任務に忠実。今日もきっちり、予告通りの時間に仕事を終えて帰ってきた。
ただ、それ以外に、彼にとっての生活らしい生活は何一つとして無い。任務を終えた今、彼は次の任務を待って待機していた。スイッチを切られたランプのように静かだ。
「まだ全員揃っていないようですね」
リゼルグが周囲を見回しておっとりと言った。確かに一人足りていない。
「…………」
全員、誰が来ていないのかすぐに気付いた。そして、だからこそ黙った。
「お待たせしました」
そんな声がして、見計らっていたかのように指揮官室の扉が開いた。
「ごめんなさい、ちょっと転寝をしてて」
それは、扉の向こうから小さい顔を覗かせていた。体重を感じさせない軽い足取りで、部屋の中央へ寄ってくる。
「夢を見ていたんだ。黒い毛並の、金色の目をした猫の夢。その猫はね、壊れた教会の中で鳴いていたんだ」
寂しいんだね、きっと。そう言って、大きな瞳をゼーノを向けた。
「……あるいは、怯えていたのかも知れん」
「そうかもね」
アンリ、リゼルグ、イズル。そして――ルーチェ・イスタンテ・エスペリオ。
必要な人物が揃い、ようやくゼーノは、本題を切りだした。
「お前達も知っての通り、先日、エルガストゥルムの最下層にいる『咎負い』が脱獄をした。正確には脱獄したのだと『思われる』、とのことだ」
ゼーノが咎負いと呼んでいる男――それが監獄の中から消えていることに看守が気付いたのは、つい数日前のことだった。ゼーノは滔々と、上からの報告を読み上げた。
「しかし、逃亡を図った形跡は無かった。独房の扉は開いていたが、どうやって開けたのか、これが分からない。鍵を壊した跡はなく、そもそも、あの中で鍵開けの道具を調達できるはずがない。奴の食事にはスプーンすらついてこないのだからな」
「……つまり、外から扉を開けた人間がいるのではないか、と?」
リゼルグの言葉にゼーノは頷いた。イズルはため息をついてから言う。
「なるほどねぇ……。脱獄の方も問題だけど、共犯者の存在も厄介ってわけですか」
「まさしく」
「どうりで最近、宿舎が騒がしいとは思っていたんですがねぇ。ということは、最近、俺の部屋の天井裏に住みついている男も、エペが用意した監視者ってとこですか?」
「…………」
アンリやリゼルグ、ルーチェは黙っていた。が、彼らの表情から、三人も監視の存在に気づいていたことが分かる。
「もう三日もこの調子ですからね。いい加減、嫌になってきた所だったんです。丁度それについて訊こうと思ってたんですけど、旦那の方から話してくれるとは」
「……すまない」
咎負いの脱獄が発覚した時、上層部は真っ先に内通者の存在を疑い、万密院に所属する全ての人間――エペにも監視をつけた。咎負いの存在は一般には知られていない。よって、疑惑の目は身内に向けられたのである。
「でも、いいじゃないですか」
リゼルグがイズルを、笑顔で制して言った。
「隊長がこうして話してくださったのは、僕達を信用してくれているからなんでしょう?黙っているのが堪えられなくて、だから本当のことを話してくれたんじゃないんですか?」
ルーチェは、にこにこと笑っている。アンリはゼーノに対して、静かに目礼をした。
「……話が早くて助かる」
そう言って、ゼーノは帽子の鍔を握った。
「で、共犯者の目星はついてないんですか?全く?」
「そうだが、そうとも言えない」
「何ですかそりゃ」
ゼーノのはっきりしない返事に、イズルは露骨に不満を露わにした。気兼ねが無いというか、遠慮が無いというか、イズルは常にこの調子だった。
「ここ数日、上層部は過去に万密院を出入りした人間を探し出し、片っ端から始末している。ここに入って数年も経たない内に出て行った人間ばかりだからな。大概ろくなものではない。大方が、どこぞの国家や商家に雇われた賊ばかりだ。本来、その程度の者は野放しにしておくのだが、事態がこうあっては、誰彼問わず疑わなければならない。だが……どうしても、ある人物を始末できずにいる」
「と言いますと……?」
と、リゼルグ。しかつめらしい顔をしたイズルの隣で、おずおずと訊ねた。
「何度そいつに暗殺者を放っても、返り討ちに遭うそうだ。いや、それどころか、『標的にたどり着く前から殺されてしまう』らしい。こう何度も失敗し、近寄ることすらできないとあっては、作為的なものを感じざるを得ん」
「ふうん……。つまり、始末をしようとして、逆にこちらが始末されてしまうってことですかい」
「ああ。情けない話だが、今まで、標的の生活圏内一キロメートル以内に近づけた者すらいない。お陰で彼の人物は、こちらが刺客を放っていることにも気付いていないようだ。呑気なことにな」
ゼーノの言葉を聞き終えたイズルは、ソファの背もたれに、小さな背中を預けてふんぞり返った。
「……こりゃ、厄介かも知れませんね。咎負いが脱獄して、そこに共犯者がいた。話は、そう単純じゃないかも知れませんや。共犯者の後ろにある大きな後ろ盾。それの正体次第じゃ、手を引いた方がいいかも知れませんぜ?」
「それで、隊長は僕達にどうしてほしいんですか?」
リゼルグがわざわざ挙手をして訊ねた。相変わらず好青年らしい笑顔だが、佇まいに隙がない。
「ただこの話をされただけでは、僕達に混乱と不安と、不信を与える一方です。隊長は何か、状況を打破する手立てをお考えなのではありませんか?」
「……いい勘をしているな、リゼ」
リゼと呼ばれて、リズルグは、ふふっと声を立てて笑った。しかし、そんな和やかな雰囲気を続けられないほど、事態はひっ迫している。
「さっきも言った通り、過去に万密院に出入りした人間を、上層部は始末し続けている。しかしどうしても殺せない人間がいるときた。そこで、俺達エペの力を借りざるを得んと、そう言ってきたのだ」
本来、表向き「街の自警団」として国民の信頼を集めているエペに泥仕事をさせたく無かったのだが、エペほどの手だれでなければ殺せないだろう――上はそう判断したのだった。
「とはいえ、今まで送りつけた連中も馬鹿ではない。上層部の言う通り、相手はかなりの業物だ。よって今回の任務に、命の保障は全くできない」
ゼーノが普段と何ら変わりない調子でそう告げると、部屋の中が静まり返った。リゼルグは笑顔を浮かべてはいるものの思わず息を飲み、微笑を浮かべたままじっとしている。イズルは珍しく、神妙そうな顔つきでゼーノを見た。
ゼーノから無責任な言葉が出たことに――彼らは少なからず驚いたのだろう。これまで、成功率を測れない不確かな状況で、ゼーノが任務を与えたことは一度も無い。必ず、勝利の算段と成功できなかった場合の逃げ道を用意する……。そうやってゼーノは、第一武隊の勝率を維持し続けてきたつもりだった。
「まぁ、こうして黙ってたって埒があきませんや。旦那、ターゲットの特徴をおせーて……教えてください」
「ターゲットはこいつだ。ここにフォトグラフがある。以前入団した時に撮らせたものだ。今も顔は、あまり変わっていないだろう」
一同はゼーノの机の前に寄って来て、差し出されたフォトグラフと彼の人物の経歴書をしげしげと覗き込んだ。
「かつて俺の下で働いたことがある人物だ。ほんの一時だけだったがな。偽名だろうが、名前も一応書いてある」
フォトグラフから目を離して経歴を読み始めるイズルとリゼの前に……じっと、モノクロのフォトグラフを見つめる視線があった。男の生き写しであるそれを見つめて、息を止めている。
いや、息を殺している。草むらから獲物を狙い定める獣のように。
「僕が行くよ」
そして、決断は即刻下された。見た目は穏やかに、しかしその内心は推し量れないほど激しく、恐らく燃えるように。
「僕がやるよ。必ず成功させてみせる」
リゼルグは目の前の人物の背中を見つめ、イズルは目を細めた。アンリは何も言わない。そして当の本人――ルーチェは続けた。
「まずはおびき寄せる所から始めてみるよ。でもね、ゼーノ。一つだけお願いがあるの」
「……何だ?」
「僕が必ず彼を捕まえてみせる。でも、彼を殺さないで」
捕まえた人はみんな殺しちゃうんでしょう?無垢な声でそう言うルーチェに、ゼーノは一度だけ頷いた。
「それはダメ。絶対に許さないから」
ルーチェは淡々と言った。皆は黙っている。ゼーノもまた、逡巡して、ようやく言葉を返した。
「分かった。上にそう取り図ろう。彼らも俺達の進言とあらば、悪いようにはすまい。ただ、保障できるのは命だけかも知れん」
「うん。でも……あんまり彼に、痛い思いはさせないで」
「……分かった」
「ねぇゼーノ、偉い人達は万密院に関わったことのある人達を始末しているんでしょう?」
「そうだ」
「じゃあ、これから始末する予定の人のリストを見せてよ。もしかすると、その中に使えるものが混じっているかも知れない」
ルーチェのこの発言から翌日。
ジェット・ガジェティーノの遺体となった姿が、街外れの街道の上に野ざらしにされた。